Vol.5 生命
ある動物病院で助手をしています。
まだまだ新米ですが、とてもやり甲斐のある仕事です。
昔から動物が大好きで、それが毎年三月に行われる国家試験に合格するまでに至り、なんとか地元の動物病院に就職することが叶ったのです。
動物に囲まれた生活はとても楽しいです。ただ、当然ながらまだまだメスは握らせてもらえません。
食事をとるためのをお昼休みも毎日十五分から三十分といったところで、とても動物が好きというだけで出来る仕事ではないと実感しています。
「高田さん、今日はどうされましたか」
小さな犬を抱えて困ったように診療室に入ってきたのは高田さん。うちの病院にとっては顔馴染みの飼い主さんです。
子犬の名前は花ちゃん。目がクリクリしていて人懐っこい、とても可愛らしいパピヨンのワンちゃんです。
「花が薬を飲むのを嫌がっているんです。初美先生、なんとか薬を飲ませないで治療することは出来ないでしょうか」
初美先生、というのは私の名前。この動物病院に勤めて二年目になりますが、未だに先生と呼ばれる度にくすぐったい思いになります。
「ですが、高田さん。薬を飲まなければ花ちゃんがもっと苦しむんですよ。花ちゃんのためにも、なんとか薬を飲ませてあげてください」
何とか高田さんをたしなめようと思いました。薬をちゃんと飲ませずに花ちゃんにもしものことがあれば、悲しむのは飼い主の高田さんなのです。
「でも、初美先生。私は花の嫌がる様を見るのは心苦しいんです。何とか治療をお願いします」
「出来ません。薬を飲ませることが、治療の一番の近道なんです」
何とか高田さんに分かってもらいたかった。薬を飲むことで花ちゃんも高田さんも助かる。そのことを分かってもらいたかったのです。
しかし。
「分かりました。もう初美先生には頼みません。他の先生をお願いします」
私の耳に届いたのは、あまりにも突然であまりにも衝撃的な言葉でした。
「と、おっしゃいますと」
私は最初、意味がよく分かりませんでした。いえ、認めたくなかった、といった方が正しいかもしれません。
「初美先生にはもう治療は任せられない、と言ったんです。動物の痛みや苦しみを取り去ってあげるのが獣医の役目でしょう」
「で、ですから私は」
「もう話すことはありません。他の先生を呼んで下さい」
そのきっぱりとした態度は、固い意思の表れのようでした。私にはもう説得は無理だと思いました。
「……他の医師は、今他の作業をしています。診察にあたれるのは私だけです」
「分かりました。別の病院に行きます。ありがとうございました」
高田さんは頭も下げずに礼を言うと、そのまま花ちゃんを連れて診療室を出ていきました。
動物が好きで始めた獣医という仕事も、結局は人対人の仕事なんだと理解した瞬間でした。
花ちゃんがくぅんと悲しげに鳴いたのを覚えています。
その日、病気のワンちゃんが病院に運びこまれました。
その犬の名前はリンちゃん。飼い主さんは田村さんといいます。
それはかなり重い病気で、先輩の戸田先生が言うには、すぐに手術の必要があるとのことです。
戸田先生は、私の憧れの先生でした。若くして高い地位を持ち、仕事上はもちろんのこと、人間的にも尊敬できる方です。
私は手術の助手をすることになりました。
戸田先生の額には汗が滲んでおり、難しい手術になるであろうことを悟りました。
「初美ちゃん、そのカートこっちに持ってきて。急いでっ」
戸田先生の言うカートとは、様々な医療用具が乗せられた、下に小さな車輪のついたカートのことです。
「は、はいっ」
急かされるように、私はカートの取っ手を握りました。
しかし、難しい手術に緊張していたのか、さっきのことでショックを受けていたのか。
理由は分かりませんが、私は手元を誤り、カートを思いきり倒してしまいました。
ガシャン、という音とともに、小さな手術室は一瞬の沈黙に包まれます。
「馬鹿野郎! リンちゃんを殺したいのかっ」
戸田先生の叱咤。
私の胸は、何か鋭い刃物で刺されたように痛みました。
当たり前のことですが、私の仕事は、生き物の命を預かる仕事なんだと再認識しました。
戸田先生の腕がよかったのでしょう。手術は無事成功し、リンちゃんはひとまず自宅療養ということになりました。
失意の帰り際、戸田先生に声をかけられました。
「よう、初美ちゃん。もう上がりだろ。一杯どうだい」
そう言って右手でお酒を飲むようなジェスチャーをする戸田先生。
いつもなら断るのですが、相手が戸田先生ということもあり、話を聞いてもらいたいのも手伝って誘いを受けることにしました。
多分、彼の口からはっきり
「お前にはこの仕事は向いてない」
と言ってほしかったんだと思います。
そう、私はこの仕事を辞めることを、半ば本気で考えはじめていたのです。
「悪かったね。さっきは怒鳴っちゃってさ」
居酒屋に入り、通されたお座敷に座ると開口一番、戸田先生がそう言いました。
私がカートを倒した時のことを言っているのでしょう。
「いえ。当然のことだと思います。大事な手術であんな初歩的なミスをしちゃうんですから」
そう言った私はさっきの自分の失敗を思い出して、小さく唇を噛みました。
「はは、あのカートって動かしづらいんだよな。俺もよくやったよ」
「え? 戸田先生が」
まさか、と思いました。きっと、私を慰めるために言っているんだ、と。
そんな私の考えを見透かすように、戸田先生は言いました。
「慰めじゃないよ。俺も最初の一、二年はよくやったもんさ。その度に他の先生に怒られてたっけ」
そう言うと戸田先生は、昔を懐かしむように小さく笑いました。
それでも、その話が本当だとしても、私には自信が持てませんでした。
「私には、生き物の命を預かる資格なんてあるんでしょうか」
私の当然の言葉に、戸田先生は一瞬きょとんとした表情を見せました。
しかし、それをすぐに笑顔に変えて彼は言いました。
「目の前の命を救いたいと思うのは当然のことだよ。それは権利も資格も関係ない、人として当然の欲求なんだ」
「でもっ」
知らず知らず、声が大きくなっていたことに気付き、少し気分を落ち着けて、私は先を続けました。
「でも、いくら目の前の命を救いたいと思ったって、私にはそんな力あるのかなって。手術でミスはするし、飼い主さんとのコミュニケーションは上手く取れないし、私には向いてないんじゃないかって思えて仕方ないんです」
思いを吐き出すように、私は早口で言い切りました。さっきからずっと思っていたことでも、いざ言葉にすると涙が出そうになります。
それを聞いた戸田先生は、相変わらず笑顔でした。
「人には向き不向きがあるからね。初美ちゃんがそう思うならそうなのかもしれないね」
その言葉を聞いて気付きました。
私は、戸田先生に自分を止めてほしかったのだと。
必要だ、辞めないでほしい、そう言ってほしかったのだと。
私は──本当はこの仕事を辞めたくはないのだと。
何故なら、戸田先生の言葉にひどく動揺している自分がいたから。
私の考えを知ってか知らずか、戸田先生は言葉を続けました。
「意見の相違だね。俺は初美ちゃんはこの仕事に向いてると思ってるからさ」
──意外な言葉でした。
私は困惑と驚きで、少しの間固まってしまいました。
「買い被りかな。初美ちゃんは誰よりも動物好きな子だと思ってたんだけどな」
戸田先生は笑顔を崩しません。
私も自分が動物好きなのは認めますが、この仕事はそれだけで出来る仕事ではないと、さっき痛感したばかりです。
それはむしろ戸田先生の方が私より分かっているはずなのに。
「まあね。動物が好きなだけで出来る仕事じゃないよね」
私の言葉にあっさり肯定の意を示す戸田先生。私は彼の真意を図りかねました。
「でも、続けられれば力は付くさ。嫌でもね。そして、本当に動物が好きなら仕事を続けることは出来る」
よく意味が分かりませんでした。
戸田先生は、好きだからと言って出来る仕事ではないけど、好きなら続けられる仕事だと言います。
私にはこのふたつの違いがよく分かりません。
訊いても、戸田先生は教えてはくれませんでした。
ただ、
「そのうち分かるさ。仕事、辞めないんだろ」
とだけ言われました。
何もかも見透かされているようで、少し恥ずかしく思いました。
それに、と戸田先生は言葉を続けます。
話にはまだ続きがあるようです。私は多分、不思議そうな目を彼に向けていたことでしょう。
「花ちゃんのところの高田さんだって、そのうちきっと分かってくれる」
本当に何もかも見透かされているようでした。……誰に聞いたんだろう。
それから1ヶ月の歳月が流れました。
高田ちゃんと花ちゃんは、あれ以来診察を受けには来なくなりました。
健康と受け取って喜ぶべきなのか、信用を無くしたと受け取って悲しむべきなのか、私にはよく分かりません。
今日も何事もなく一日を終えようとしています。
未だに、あの時聞いた戸田先生の言葉の意味は分かっていません。
とりあえずは、それが知りたいのと動物好きを、仕事を続ける理由にしようかと思います。
そんなことを考えていると、入り口から激しくドアの開く音がしました。
高田さんでした。
本来ならまず受付を済ませなければならないのですが、終業間際で他の患者さんがいないこと、それに高田さんが妙に慌てた様子なのを理由に、私は高田さんに話しかけました。
「高田さん、どうしました」
混乱しきった口調で高田さんは私に言葉を返しました。
「花が、花が呼吸をしていないんですっ」
すぐに手術が開始されました。
戸田先生がメスを握り、私が助手です。
戸田先生は、ぐったりとして目を開かない花ちゃんに、何度も声をかけていました。
「頑張るんだぞ。すぐ楽になるからな」
と。
優しく、それでいて力強い声でした。
戸田先生にはその時、すでに分かっていたのかも知れません。
花ちゃんは、二度と目を開けることはないであろうこと。
そして、クリクリとしたその可愛らしい瞳を見ることは、二度と叶わないんだということを。
花ちゃんが静かに手術台に横たわっていました。
その横では高田さんが、拭っても拭っても溢れてくる涙を、ハンカチで押さえていました。
「心臓も呼吸も、完全に停止しました」
毅然とした態度で、それでいてどこか悲しそうな声で、戸田先生は高田さんに言いました。
それは、あまりにも明確すぎる死の宣告でした。
その言葉を聞いて、高田さんは一層大きく泣きました。
私も、堪えられずに泣いてしまいました。高田さんに同情したのか、純粋に花ちゃんが亡くなったのが悲しいのかは分かりません。それでも、涙が溢れて仕方ありませんでした。
そんな私を横目に、戸田先生は手術台の前に立ち、花ちゃんに何事か声を掛けているようでした。
「よく頑張ったね。偉かったね。静かに休むんだよ。よく頑張ったね」
言葉を繰り返す戸田先生の後ろ姿は悲しそうで、その声は震えているように聞こえました。
花ちゃんの体に、一滴の雫が溢れ落ちました。
花ちゃんの遺体は、高田さんが車で家に運びました。最後くらいは自分の手で弔ってやりたい、多分そんな気持ちで。
それから、高田さんは泣き腫らした顔で最後に私に
「すいませんでした。それと、ありがとうございました」
と言ってくれました。
私はますます涙が溢れてしまい、職場だというのに子供みたいにしゃくり上げるように泣いてしまいました。
高田さんが帰った後の病院には、私と戸田先生だけが残されました。
「初美ちゃん、お疲れさま」
そこには、いつも通りの笑顔を浮かべた戸田先生がいました。
若干目が充血している気がするのは、多分気のせいではないでしょう。
「何度経験しても慣れないな。動物が死ぬ瞬間ってやつはさ」
戸田先生は苦い笑顔で言います。
幸か不幸か私は、就職二年目にしてそれが初めて、動物の死に立ち合った瞬間でした。
「先生。命って、こんなに呆気ないんですね」
自分の無力さを噛み締めるように私は言いました。涙はまだ止まりません。
「そうだね。俺たちがいくら力の限りメスを振るっても、助けられない命がたくさんあるのが現状だ」
無力さを噛み締めているのは、先生も同じのようでした。でも、その表情に迷いはありません。
「でも、この無力な両手にも助けられる命はある。俺は動物が大好きだ。少しでも多くの命を救いたい。だから俺はこの仕事を続けてる」
それがこの間の問いかけの答えなのでしょうか。だとしたら、あまりにも単純な答えでした。
「初美ちゃんはどうだい」
もちろん、私も同じ気持ちでした。一匹でも多くの動物の命を救いたい。
私に、もう迷いはありませんでした。
それから五年の月日が経ちました。
戸田先生と私は独立して、小さな動物病院を始めました。
助手も一人雇っています。子犬のように人懐っこい、専門学校を卒業して資格をとったばかり男の子です。
一匹でも多くの動物の命を救いたいという気持ちに、今でも変わりはありません。
だから私たちは、動物を飼っている家庭が比較的多いにも関わらず、近くに動物病院がない地域を選びました。
毎日大賑わいです。病院が大賑わいなのは不健康な動物が多いということなので、いつかこの病院に来る動物が減ればいいな、なんて思っています。
でも今では特に病気をしていないワンちゃんや猫ちゃんの飼い主さんが遊びに来たりもします。
とてもやり甲斐もあり、楽しい仕事です。それに、今ではメスも握れるようになりました。
あ、そうそう。報告しなければいけないことがあったんでした。
私、二年前から戸田初美になりました。戸田先生からプロポーズされて、籍を入れたんです。
独立資金のために結婚式は挙げなかったんですが、私はそれでも幸せです。
今、お腹には赤ちゃんもいるんですよ。もう七ヶ月になりました。
赤ちゃんを生むまでの間、戸田先生と新人くんには頑張ってもらわないとね、なんて二人には激を飛ばしています。
でも大丈夫。心配はしていません。
戸田先生ならきっと私がいない間も病院を守ってくれるし、快く赤ちゃんも迎えてくれるでしょう。
だって戸田先生は、命とはこんなにも暖かいものだと、私に教えてくれた人なんですもの。