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呼吸と体温  作者: CORK
4/6

Vol.4 悲しみ

 なぜだろう。

 誰かが目の前に倒れている。

 なぜだろう。

 その人物は頭から血を流している。

 あぁ、そうか。私が殺したんだ。

 私は、自分が手にかけたその相手を、どこか他人事のように眺めていた。

 相手は、まだ少年だった。

 見たところ、年の頃にして中学生か高校生くらいだろう。まだ幼いその瞳は、二度と新しい景色を見ることはない。

 将来のある若者の命を、いわゆる団塊の世代と言われる老いぼれた私の腕が奪ってしまった。

 ご遺族の絶望。

 友人達の悲しみ。

 私が言うのもおこがましいかもしれないが、それを思うと心が痛んだ。

 しかし。

 私が真っ先に考えたことは彼の死を悼むことではなかった。

 卑しくも私は、自らの保身のことを真っ先に考えていたのだ。



 我ながら陳腐な発想だが、私が死体の隠匿場所に選んだのは富士の樹海だった。

 適当な場所に着くと、一心不乱にスコップで穴を掘った。

 人一人が入りきるくらいの穴が出来上がると、私は彼をその中に横たえた。

 そして私は、そこで不意に愕然とした思いに駆られた。

 今自分がしている行為のあまりの卑劣さに。

 先のある若者の命を奪っただけでなく、その事実を隠滅して、自分だけは助かろうと免罪を目論んだのだ。

 涙が溢れた。無様に声をあげて泣いた。

 私は、どこまで自分の価値を貶めれば気が済むのだ。

 不意に自殺が頭をよぎった。私も私なりに苦悩と絶望を抱えていたのだ。

 私には身寄りがない。長年付き添ってきた妻は昨年旅立ってしまったし、子宝には恵まれなかった。

 だが、私には贖罪の義務があるのだと思い直した。

 死体をトランクに積み富士の樹海から車で抜け出すと、私はやおら近くの公衆電話に向かった。

 正直気は重かったが、こうしなければならないような妙な使命感を覚えた。私は緩慢な動作で受話器を手に取る。

「もしもし、警察ですか。人を……殺しました」



 弁護士との話し合いを経て、私は裁判にかけられることになった。

 そこには少年のご遺族の方もおり、私は胸が締め付けられるようだった。

 とても目を合わせることが出来ない。

 謝罪で事足りるならば、私はどんな謝罪でもしよう。

 だが、私の老いぼれた頭には、ご遺族の悲しみと絶望を拭い去るだけの謝罪は思い浮かばなかった。

 元より人の命を奪う重罪を犯しておきながら、それを補ってあまりあるほどの謝罪など、多分存在しないだろう。

「被告がしたのは将来のある若者の命を奪う許し難い行為であるが、反省の色が強く見られ、改善の余地もある。よって、無期懲役、執行猶予三年の判決を言い渡す」

 まるで少年に言い渡すような内容の判決に、裁判所中が騒がしくなる。

 その判決には、むしろ私が愕然とした。不当な判決だ。私が犯した罪は、そのような軽いものではない。

 不意に、ご遺族の方と目があった。

 その目は、絶望と驚愕に彩られていた、気がした。



 何ということだ。

 まったく信じられない。

 あろうことか私は、その判決に異議を申し立てることすらしなかったのだ。

 贖罪の覚悟を決めたはずだった。

 だが、鼻先に少し希望をちらつかされただけで、私の覚悟はいとも容易く揺るがされてしまった。

 裁判所を出ると、彼の友人と思しき制服姿の少年少女が待ち構えていた。皆一様に、目に涙を溜めている。

 私は彼等に口々に罵声を浴びせられることになった。

「死んじまえ、クソジジイっ」

「絶対ブッ殺してやるかんなっ」

「コウジを返してよっ」

 凄い人望だな、と思った。同時に、自分の罪の重さを実感した。私は血が出そうなほど拳をきつく握る。

「那智村さん、こちらへ」

 弁護士が私の名を呼び、車に押し込もうとする。興奮した少年はどんな行動に出るか分からない。そう弁護士から先程説明を受けていた。

 しかし、私はその学生の群れに歩み寄った。少し動揺しながらも撫然とした表情を隠そうとしない彼等の前で、私は両膝を地につけた。

「本当に、申し訳ありませんでした」

 とても謝って許されることではない。

 でも私はそうしなければならなかった。そんな気がした。



「本気ですか」

 驚きを通り越して怪訝な表情すら浮かべる弁護士。

「ええ。今よりもっと過酷な刑罰を希望します」

 私は厳罰に処されなければならない。色々と考えた末の結論だった。

「そうは言いましてもね、一度決定した罪状を覆すのは容易ではありませんよ。それに」

 己を落ち着かせるかのようにお茶をすする弁護士。それほど私の要求が異常なのだろう。

「今のままの判決で事が進んだ方が、あなたにとっても最良なんじゃないですか」

 弁護士の言うことは間違っていない。背負う業なら軽いに越したことはないのだ。

 しかし、私は己の罪と償った罪とのギャップに苛まれながら、そう長くない余生を暮らしていくのは耐えられなかった。

「私は賛成しかねますがね、那智村さん」

 弁護士の言ももっともだった。しかし、私の決意はもう揺るがない。

 被害者に冷たく、加害者に甘い。そういう今の日本の裁判制度自体が間違ったものなのだ。私はそう思う。

「……分かりました。那智村さんがそこまでおっしゃるのであれば、再審請求をしてみましょう」

「感謝します」

 私は心の底から彼に感謝し、深く頭を下げた。

「それから、何とかご遺族に面会することは叶いませんでしょうか」

 厚かましいとは思うが、それは要求しなければならなかった。



「この度は、大変申し訳ありませんでした」

 弁護士が口利きをしてくれたのだろう。私は何とかご遺族との面会を成すことが出来た。

「謝罪の言葉もございません。さぞお力落としのことと存じますが、どうぞ後の障りがございませんように」

 遺族は口を真一文字に結んだままだ。その様子は、あたかも何かに耐えているかのようだった。

「私も出来得る限りの償いに努めていく所存でございます。この度は……本当に申し訳ありませんでした」

 長く生きてきた私の堅い頭からは、格式張った形式上の謝罪しか出てこなかった。

「頭を上げてください。いくら謝っていただいても息子は帰ってきませんから」

 口を開いた遺族からそんな言葉が出る。少年の父親だ。思ったよりも冷静なその対応に、私は不謹慎にも少し安堵を覚えていた。

「あなたにも家族があるでしょう。死刑は望みません。ただ」

「謝るくらいなら、息子を返してくださいっ。今すぐ息子を返してっ」

 父親の言葉を遮ったのは、堪えていたものが崩れたかのように泣き出した母親の言葉だった。それを父親がなんとかなだめる。

「失礼いたしました。しかし、これが私達遺族の本心です。正直……私共はあなたが憎くて憎くて仕方ありません」

 そう言った父親は、声もなく涙を流しはじめた。音が聞こえてきそうなほど歯を食いしばっているのが分かる。

 私は何に安堵をしていたのだろう。

 いくら彼等が冷静な対応をしていたとはいえ、彼等が深い悲しみに捕われていない訳がない。そんなことは言わずもがなだと言うのに。

 そこに、同席していた弁護士が口を開いた。

「那智村は、自ら刑を厳罰なものにすることを望みました。ご遺族の皆さんはさぞご悲哀のことと存じますが、彼の故人を悼む気持ちだけでも察していただく訳には参りませんでしょうか」

「刑を……厳罰なものに」

 父親は弁護士の言葉を噛み締めるようにゆっくりと繰り返してみせる。その意味を反芻しているかのように。

「いいんです。弁護士さん。私が犯した罪は許されることではありません。例え再審で死罪が求刑されようと、私は甘んじてそれを受けます。ただ」

 無様にも、私の目からは堪えきれず涙が溢れ出した。

「本当に……申し訳ありませんでした」

 そんな言葉じゃ足りない。自分の語彙の乏しさが疎ましく思えた。



 弁護側から刑の厳罰化を求める再審請求は異例の事態らしいが、なんとか再審を行うことが出来た。

 私は本気で死刑も覚悟していたし、そうなったとしても異論はなかった。

 ご遺族が法廷に立った。例の父親だ。

 私はきっと糾弾されるのだろう。構わない。それが物事のあるべき姿だ。

「被害者の父親です」

 そう言って彼はゆっくりと頭を下げる。そしてまたゆっくりとした動作で頭を上げた。

 そして、父親は弁論を開始した。

「正直、私たちには被告の凶行を許すことは出来ません。被告からの謝罪の言葉を聞いた今でも、私共の心は憎しみでいっぱいです」

 そうだ。私は憎まれなければならない。それが道理というものだ。

 私は、不謹慎ながら憎まれていることに安堵さえしていた。

 しかし、直後に父親が発した言葉は、私の理解を越えるものだった。

「しかし、被告の真摯な態度に心を打たれたのも確かです。よく検討を重ねた結果、私共遺族は刑の現状維持を希望します」

 その言葉に、私は呆然とする以外になかった。それは私にとってあまりにも予想外の展開だったから。

「被告には息子の分まで長く生きて頂きたい、それが息子を失った父親のせめてもの切なる願いですし、被告はその願いを託せる人物だと認識しております」

 父親は最後の言葉を、行き過ぎた発言をお詫びいたします、と結んだ。

 私はと言うと、ただただ呆然として、固まってしまっていた。

 しかし、その数秒後には私は恥も外聞もなく涙を流した。涙脆いのは、年齢のせいだけではなかった。

 結局、私に言い渡された判決は、無期懲役、執行猶予三年のままだった。



 それから七年以上の月日が経った。

 無事に出所を終え、賠償金も払い終えた私は、今でも毎月あの家族に金を送り、毎年被害者の少年の墓参りをした。

 ご遺族は金はいらない、もう十分いただきましたと言ってくれたのだが、私は半ば強引に金を送り続けている。

 今までに蓄えた資産を、私の残り僅かな余生の為に使うよりも、あの夫婦に有効的に使ってほしいと思ったからだ。

 自分の命を軽く見ているわけでは決してない。むしろ、人一倍多くの物を抱えた命だと思っている。

 だからこそ私は、人一倍慎ましく、人一倍無欲に暮らしていきたいと願った。

 貪欲に野望を追い求めるのは若者の特権だ。私は質素でも静かに命を永らえたい。

 もちろん今でも、私の罪が許されたとは思わない。

 懲罰として私は、あの被害者の少年の分まで生きる責任を負ったのだ。

 それが私の出来る、微力ながら唯一の贖罪なのだから。


 私はゆっくりと空を見上げた。

 空を見上げるなんて何年ぶりだろう。

 呆れるばかりに透き通った、それはそれは大きな青空だった。

 私は大きく息を吸い込むと、ゆっくりとそれを吐き出す。

 そして、誰でもなくこの雄大なまでに広い空に、私は至極当たり前のことを誓った。



 ──生きよう。死ぬまで。

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