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呼吸と体温  作者: CORK
1/6

Vol.1 自殺

「もしもし多香子。梨花が自殺未遂をおこしたのっ。今すぐ出て来られる?」


 発端は、友人の美奈からかかってきた、一本の電話だった。

 私たちは大学時代の友達で、いわゆる仲良し三人組だった。

 美奈から病院の住所と簡単な事情を訊き出して電話を切り、すぐに出かける準備を始める。

 梨花はリストカットをした、らしい。

 確かに彼女には昔から少し情緒不安定というか、精神的に脆い部分があった。

 今思えば、学生時代の彼女は、真夏だろうが真冬だろうが常に長袖の服を着用していた。それを考えると、彼女にはもしかしたら昔から自殺願望のようなものがあったのかもしれない。

 慣れない道を出来る限りの速度で飛ばし、ハンドルを握る手が汗ばむのを感じながら、私はそんなことを考えていた。



 病院に着いた直後、梨花の治療にあたっていた医師から『患者が精神的に安定するまでは面会謝絶』という説明を受ける。それに、どちらにしても梨花は薬で眠っているらしい。

 梨花の容態を気掛かりに思いながらも、医師曰く命に別状はないということなので、仕方なく私と美奈はそのまま帰宅することになった。

「でもさ、なんで自殺未遂なんてしようとしたんだろうね、梨花」

 タクシーで病院に駆け付けたという美奈を助手席に乗せて家まで送る道中、彼女はそんな質問を私にぶつけてきた。

 そんなことを訊かれても私に分かる訳もない。無表情で、さあね、とだけ返す。

 どこから取り出したのか、美奈は私にチョコレートを勧めてきた。私たち三人は大学時代無類の甘いもの好きだったから。

 でも私は美奈の勧めを断った。そう、と言ってチョコレートを自分の口に放り込む美奈。

「きっとなんか辛いことでもあったんだろうね。今度会ったら色々聞いてあげようよ」

 美奈の梨花に関する話はまだ続くらしかった。

 辛いこと?

 果たして、そうだろうか。

 私は薄暗がりの峠道で車を走らせながら、誰にともなくそんなことを思った。



 梨花は思ったよりも元気だったようで、入院した2日後にはもう退院することになったという。

 医師から私と美奈が病院に駆け付けたことを聞いたのだろう、彼女本人からその旨連絡があったのだ。

 その際、少しだけ彼女と話すことが出来たのだが、彼女はすっかり私の知っている梨花に戻っていた。明るくて元気だけど、少し八方美人で気遣い上手の梨花に。

 そして私は、梨花の退院祝いと称して彼女の家の近所にあるカフェで落ち合うことにした。



「ごめんね、せっかく病院に来てもらったのに。面会謝絶だったでしょう」

 私が梨花の座る席を見付け出し、歩み寄りながら笑顔で梨花に挨拶をすると、彼女は開口一番にそう謝罪してみせた。こういう、やたら他人に気を遣う性格も相変わらずだ。

 気にしてないから、というような言葉を彼女に返す。

 ちなみに美奈はどうしても仕事を抜けられないということで、今日は私と梨花だけの集まりとなった。

 ウェイトレスが注文を取りに来たので、私はメニューを見るのもそこそこに適当なコーヒーを頼んだ。梨花もコーヒーのおかわりを注文する。

 ずいぶん若いウェイトレスだけど、女子高生だろうか。屈託のない笑顔が眩しく映る。他人の若さを羨むようになったらもうオバサンだな、なんて思って私は苦笑いを浮かべた。

 私と梨花は、しばらく馬鹿な話で盛り上がった。

 付き合ってる男のこと、職場のセクハラ上司やお局さまのこと、仕事での失敗談。

 私も梨花も声をあげて笑っていた。

 自殺未遂の件に関しては、梨花が話すのを待とうと思っていた。そして、梨花がそれを話さないつもりなら、それはそれでいいと思った。

 だって今、梨花は笑っているのだから。おそらくは本心から、愛想笑い抜きで。

 人生なんてこんな小さな幸せの積み重ねで十分だ。信頼できる相手と笑い合って生きていけるなら、それ以上は必要ない。

 欲がないと思われるかもしれないけど、そんなことはない。仲間と本心から笑い合っている時に、死にたいと思う奴なんかいない。

 心のどこかで私は、梨花から例の自殺未遂の話が出ないことを期待していた。

 そんなことは忘れてしまっていてほしかった。

「私ね、彼氏と別れたの」

 私のそんな思いをよそに、唐突に梨花はそう切りだした。多分、例の自殺未遂についての話。

 それが自殺未遂の理由なの、と抑揚のない声で彼女に尋ねる。彼女の目にはそれが冷たい態度に映ったかもしれない。

 正直に言えば、私は少し怒っている。もし本当にそれがあの行為に及んだ理由なのだとしたら、多分私は梨花をひっ叩くだろう。

「それは関係ない、って言うか小さな理由のひとつではあるんだけど、大まかに言えば関係ないの」

 彼女の話はさっぱり要領を得ない。私は目で先を促した。


「ここ最近、嫌なことが立て続けに起こってね。彼氏と別れたのに加えて、ずっと入退院を繰り返していた母親も脳卒中で逝ってしまったし、ミス続きで仕事もクビになった。そして極めつけは、彼氏と別れる前に行った産婦人科でのこと」

 彼女は、そこで一拍置いて煙草に火を点ける。まるで自分を落ち着かせるかのように。

「私、子供が生めない体らしいの」


 彼女がその言葉を発したのと、ウェイトレスがコーヒーを持って来たのは、ほぼ同時だった。

 少し気まずいような笑顔を作りながら、お辞儀をして去って行くウェイトレス。あれは間違いなく聞かれたな、なんてどこか第三者的に私は思った。

 梨花はおかわりのコーヒーに呆れるほど多量の砂糖とミルクを入れる。特に忠告はしないが、体には絶対に良くないだろうな。私も本当は甘党なのだが、砂糖やミルクなどの甘味料は控えた。コーヒーとは元来苦いものだ。


「私、多香子ほど強くないからさ。嫌な事がこう立て続けに起これば自暴自棄にもなるよ。生きる意味が分かんなくなって、自分にも死ぬ権利くらいはあるんじゃないかってさ」

 一瞬、何のことか分からなかったが、さっきの話の続きらしい。

 私からすれば、そんなことで自分が引き合いに出されるのは少し不愉快だった。まるで彼女の言い訳のだしにされたようで。

 彼女は分かってない。

 自殺なんかを考えている時点で、自分はある程度幸せなんだってことが。本当に不幸な人間には、生きるか死ぬかの選択肢すら与えられないと言うのに。

 私には分からない。

 この子はどうして生きる意味なんて知りたがるのだろう。生には目的も理由も必要ない。そんなものがなければ生きられないほど弱い人間なんて、この世界には存在しない。

 そんなことは、赤ん坊だって本能で知っている。

 私の勝手な推測を言わせてもらおう。多分彼女はナルシシズムに酔っている。

 可哀想な自分に酔った上に、それだけでは飽きたらなくなって他人の同情まで欲してしまっている。

 そして今回の出来事は、それ故の自殺未遂なんじゃないだろうか。

 そうは思っても、私は彼女を説得する気も愚弄する気も、ましてや慰めるつもりもなかった。

 小難しく考える人が多いけど、世の中はいつだって単純明快だ。したいかしたくないか。それだけ。

 勉強にしたって恋愛にしたって仕事にしたってそう。強盗にしたって殺人にしたってそう。

 最終的な決定権を持つのは自分の感情、即ち、したいかしたくないかなんだと私は思う。

 彼女は生きることがしたくなくなった。私は生きることがしたい。私たちの間にあるのは、そういう価値観の違いだけ。

 けど、その価値観の違いってやつが、ともすれば一番厄介なのだ。多分私は、未来永劫彼女を理解することは出来ない。

 私は無心を装ってコーヒーを喉に流し込む。無糖のコーヒーは思った以上に苦くて、私は思わず顔をしかめた。



「今日はごめんね。なんか愚痴っちゃったみたいで」

 そんな梨花の言葉に、私は無理に笑顔を作ることはせず、適当な挨拶を交わして彼女と別れた。

 今回のことがあるまであまり連絡もとっていなかったし、多分もう会うことは殆んどないだろう。

 私には彼女を救えない。多分、本人以外の誰にも彼女を救うことなんか出来はしない。

 今日彼女と話をして私はそう確信した。彼女は人として根本的な部分が決定的に狂っている。

 それを一から正してあげるほどの力も時間も、私にはない。彼女が自分で本心から生きたいと思うしかないのだ。

 いいよ。あんたも私も自由だ。あんたが死ぬのは勝手だよ。私は這いつくばってでも生きて、あんたを単なるいい思い出にしてやるんだからね。

 梨花と別れた私は、心の中でそう毒づくと、泣き出しそうな心を抱えて駅前に向かった。

 急ぎの用事がない日は、私はなるべく車は使わずに歩いて行動するようにしている。

 梨花は逆方向に歩いて行ったが、私は一度も後ろを振り返らなかった。



 不意に、大学時代に仲良しだった三人組を思い出す。

 そう。美奈と私、それに梨花だ。

 そして次に思い出されたのは、先ほどのカフェでの会話。

 思い出されるのは笑っていた記憶ばかりだった。

 もちろん私もそうだけど、梨花だってそうだ。

 彼女のあれは作り笑顔ではなかった。そう信じたい。

 ねえ、梨花。なんであんたは大きな幸せを望むの。

 なんであんたは、大きな幸せがなきゃ生きていけないの。

 友達とお腹を抱えて笑える時間以上の幸せが約束されていなければ、生きる理由にはならないの。

 ねえ、梨花。あんた、どこで間違っちゃったの。

 下らないことで笑い明かしたことは、朝まで男のことで語り明かしたことはあんたの幸せにはなれなかったの。

 私や美奈じゃ、あんたの幸せにはなれないの。


 ──今そんなことを思ってもどうしようもない話だった。もう梨花は目の前にいないのだから。



「調子はどうですか、松原さん」

 はい、最近はとてもいいですよ。

「そうですか。それはよかった」

 ふふっ、ありがとうございます。

「それでは、いつも通り検査を開始しましょうか」

 ええ、よろしくお願いします。



「驚いたな。思ったよりもずいぶん病気の進行が遅い。これならまだ普段の生活を続けられそうですね」

 これでも体調管理には力を入れているつもりですから。

「そうみたいですね。血糖値もずいぶん下がってるようですし」

 ええ。大好きな甘いものも今は控えてますからね。

「そうですか。頑張っているんですね、松原多香子さん」



 はい。私は生きたいですから。

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