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イレイザー ─仁和歌者─  作者: 姫乃 只紫
『イレイザー ─仁和歌者─』
7/10

『蜜を啜るに飽いたなら』

 ある夜、群れる花々と黒い蝶々の話。

 小さなシャボン玉が、目の前をふわふわと飛んでいる。羽虫のように鬱陶しい。鏡花はそれを手でそっと払い除けた。手に元から着いていた泡がいくつか離れ宙を舞った。そうならないよう気を遣ってこその「そっと」だったというのに。上っていく泡の行く先を眼で追うと、程なくしてそれは見えなくなった。割れる瞬間は注視していてもよくわからなかった。

「どうかした?」

 まこが訊いた。食器を泡立てる手はその間も動いている。

「……何でもないわ」

 素気なくそれだけを返して、鏡花は食器洗いに戻った。

 二人の背後からは、何とも姦しいやり取りが聞こえてくる。キッチンを隔てた向こう側──リビングにいる義姉妹五人がきゃあきゃあと騒いでいるのだ。

「ユキンコー、みかんの皮剥いてー」

「えっ、やだよ。自分で剥きなよ」

「デデーン」

「……何いきなり」

「指輪だよ指輪。これ外してねーから皮剥けねぇの」

「じゃあ、外しなよ……」

「え~、だってこれユキンコちゃんが私にプレゼントしてくれたヤツだろ~? いつ如何なるときも肌身離さず持っていたいという晶ちゃんの乙女心が何でわからんかね~チミは。すりすり」

「いつ如何なるって、そんな大げさな……」

「あーあ、仕方ねえなぁ。もうこりゃ自分で剥くしかねえかなぁ? あーあ、せっかくのエンゲージリングだったなのになぁ、すりすり。これからみかん汁でべったべたになるんだろうなぁ。あーもうこれダメだ。死んだわ。私とユキンコの想い出死んだわ。みかん汁で溺死するわ」

「あー、もうわかったよ。私が剥くからっ。剥きますからっ。……言っとくけど白いのまでは取らないからね?」

「へへっ、ラッキー。んじゃ一つ頼むわ」

「ココお姉ちゃ~ん」

「ん? どうしたのヒナちゃん」

「見て見て! 白いのぜーんぶきれいに取れたの!」

「わっ、ホントだ。上手にできたねー」

「えへへ~」

「おーホントだ。職人芸だなぁヒナヒナ。よっし、じゃあいっちょう私の分も頼むわ。……って睨むなよユキンコ。いよっ! このジト目美人! ……え~、別にいいじゃん。本人何か楽しそうだしぃ」

「ひなぁ~、その白いビラビラいらないのか? いらないんなら私にくれ!」

「えっ? あげますけど……、どうするんですか? つくしお姉ちゃん」

「へへーん。この前テレビでやってたんだ。この白いビラビラが健康にいいんだってさー」

「おー、ツクシー博学だなぁ。……オイ、何か丸薬みたくなってんぞ」

「ねぇ、つくし。言ってることはわかるけど、それだけ食べても多分美味しくないわよ?」

「よしっできた。ほい、ささめねーちん、あーんして!」

「いや、食べるの私なのかよっ」

「え~、だって白いビラビラに栄養あるって言ってたぞ~。ウソじゃないぞホントだぞ~」

「そうだそうだー。可愛い義妹を疑うとかお姉ちゃんにあるまじき行為だぞー。ささめんには責任を持ってそいつを食べる義務がある! そーれ、さーさーめん。さーさーめんってあいたぁ!?」

 ──何て耳障りな。

 鏡花は心の中で舌打ちをした。隣を見るとまこが楽しそうに微笑んでいた。少なくとも鏡花には、心の底からそう思っているように見えた。だからこそ不可解で──癇に障った。

「楽しそうね……」

「そりゃあ楽しいわ。だってお義母さんだもの。義娘たちの幸せはお義母さんの幸せでしょ?」

 ──お義母さん?

 目を背け、鏡花は失笑する。まこの纏っている空気が幽かに変わった。


「それなら、どうして私の謀に手を貸そうだなんて思ったのかしら?」


 鏡花の声は幽かに震えていた。

 ──莫迦みたい。どうしてこんな間抜けな質問をしてしまったのかしら。訊かなくたって答えはわかっているのに。

「……それはお互い詮索しない約束だったはずだけど?」

「……そう、だったわね」

 一体何に心を奮わせているのだろうと鏡花は思う。嫉妬しているのだろうか、この女に。己を律し、感情を統制することが自分よりも遥かに長けたこの女に。そうだ。それならば、まだいい。そうに違いないのだ、きっと。

「鏡花ちゃんは、ホントにへたっぴねぇ」

 まこがくすりと笑みを零した。鏡花は僅かに身を固くした。

「……どういう意味かしら」

「オンとオフの切り替えがへたっぴねと言ったのよ。煙草と同じじゃない」

「煙草……?」

「ある程度味を愉しんだら、適当なところで捨てればいいのよ」

 鏡花は息を呑んだ。手が滑って危うく流しに皿を落とすところだった。今の動揺をまこに勘付かれただろうか。そのことがやけに気になって、まこの顔がまともに見れなかった。

「だから、義母として今が楽しいという気持は本当よ。でもそれはあくまで義母としての幸せね」

 まこは手についた泡を洗い落としていく。

「近いうちに断ち切る縁だからといって、何も粗末に扱うことはないじゃない。鏡花ちゃんも今の内に満喫しておいたら? 大野木家四女『大野木鏡花』をね」

 まこは濡れた手をタオルで拭いている。流しには泡に塗れた食器類が積まれていた。あとは鏡花がこれを洗い流すだけだ。

「私……」

 鏡花が唐突に口を開いた。まこはハンドクリームを塗りながら鏡花を見た。

「煙草って、吸ったことないわ……」

 それは──貴女ほどには割り切れないという鏡花なりの意思表示だったのだろうか。

「あら奇遇。私もよ、鏡花ちゃん。じゃあ、あとはよろしくね」

 まこは両手を合わせ小首を傾げて微笑むと、リビングに行ってしまった。去り際に見せた表情は、いつもの大野木まこに戻っていた。

 鏡花は残された食器を洗いながら考える。例えるならあの少女たちは花のようなものだ。そして、自分は花の蜜を求めて漂う蝶。啜れるだけの甘い蜜を彼女たちから啜ったら、また別の花に移ればいいだけのこと。そこまで考えて、心の中で苦笑する。まこの言ったことと所詮同義であるのに、何故わざわざ花だ蝶だと美化したのか。わかっている。自分は気に入らないのだ。ただ一人を除いて、かつては本当に大切な家族であった彼女らを、煙草などという薬物に例えられたことが。

「なーなー」

 くいくいと袖を引っ張られ、我に返った。見ると、つくしが目を輝かせながら立っていた。

「何……」

「はいっ、コレ鏡花ねーちんにやる!」

 目の前に差し出されたのは一切れのみかん。白いスジの塊でなくて良かったと鏡花は内心安堵する。手を洗ってからそれを受け取ろうとして、つくしがやけに近いことに気付く。そこでようやく鏡花は意図を察した。いや、本当はもっと早くに察していたのだが、期待に応えるかどうか迷ったと言うべきか。

 鏡花はそれを口で直接受け取った。口に含み租借する。甘酸っぱい。それこそ花の蜜のようだと鏡花は思う。つくしは変わらず袖を掴んだままだ。味の感想を心待ちにする眼差しが鬱陶しい。

「……美味しいわよ、とっても」

 口許を押さえながら、鏡花は感想を述べた。存外皮が固くてまだ飲み込めていなかった。つくしがへらぁと笑った。たまらず鏡花は眼を逸らす。何がたまらなかったのかはよくわからない。ただわかることは、自分がいかに三文役者なのかということ。まこのようには到底なれないのだということ。袖からつくしの手が離れた。足音が傍を離れていった。

「たっだいまー!」

「はい、おかえりなさい。……どうだった?」

「うん! 鏡花ねーちん美味しいって言ってたぞ!」

「そう……。あーこら、膝座るのはいいけどあんまりジタバタしない。私が痛いでしょ」

 つくしを始め彼女たちのことを素直に愛おしいと思えていたときは、確かにあった。でも、今はもう無理だ。あの娘が全てを壊して、全てあの娘の都合の良いように作り変えてしまった。あの娘の幸せを維持するためにためだけに、作り上げられた偽りの家族。五人義姉妹ではなく六人義姉妹。異分子であるはずのあの娘が、我が物顔であそこに座っているという屈辱。

「ココちゃーん。お姉ちゃんにもみかん剥いて~」

「えっ、何で姉さんまで……」

「そーだそーだ。もういい年なんだからみかんくらい自分で剥けよこの年増って眼ぇー! 皮がぱきょって! 汁がぱきょって!」

「あっ、晶おねえちゃん!?」

「ででーん」

「……指輪、は関係ないよね」

「さっきお皿洗いし終わったあとにクリーム塗っちゃったのよ。だからおねが~い」

「……姉さん、あれ塗ったあとに食べ物に触っても大丈夫なやつだからって通販で買ったんじゃなかったっけ?」

「いやだぁココちゃん。そこは理屈じゃなくて気持の問題よ気持の問題。それにどうせ剥いたら手は洗わないといけないでしょう? そんなのもったいないわぁ」

「は、はぁ……」

 花たちの戯れ合いはなおも続いている。黒い蝶々を一匹置き去りにして。

 鏡花は口に指を入れた。親指と人差し指を二本、みかんの皮を摘まみだした。唇とそれの間に、一筋の銀糸が薄らと架かった。まるで未練のようだと鏡花は思う。もう中身は食べ尽くした。甘いひとときは充分に堪能した。それならば、もう──。

「要らないわね」

 鏡花はそれを、三角コーナーに捨てた。

 次に移る花は、心の内にないのだけれど。

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