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イレイザー ─仁和歌者─  作者: 姫乃 只紫
『イレイザー ─仁和歌者─』
10/10

『木魅事変』・前篇

 コンコンと窓をノックするような音が聞こえた。

 今まさに熱いコーヒーを口に運ぼうとしていたアカシャの手が止まる。

 ラフなオールバック、三白気味の眼、鋭角な顎のラインに蓄えられた髭、黒ワイシャツとストレート調のスラックス──アカシャは机にカップを置くと、グレーのカーテンに閉ざされたそれを睨んだ。革張りソファから腰を上げると、窓に近付いてカーテンを引いた。

 誰もいなかった。

 ただ、タワーマンションの一室から見える夜景が視界に広がった。

 一夜街上尸(じょうし)地区の近代的な街並みがある。

 アカシャにとっては、ただそれだけの画である。

 窓を開けると、カーテンがふわりと風を孕んだ。潮騒のようにリズムのあるものではなく、常に一定の速度を保って吹いてくるそれに混じって、何やら黒い霞のようなものがアカシャの側を通り過ぎて行く。かと思えば、それはゆらりと踵を返し、さっきまでアカシャがいたソファの上に音もなく実体を現した。

「依頼の話か」

 アカシャは窓を閉めると、後ろ手でカーテンを引きながら振り向いた。

 上月(こうづき)こよいが、まるで最初からそこにいましたと言わんばかりに、ソファに背を預けたまま、アカシャのコーヒーを我が物顔で啜っていた。

「さあどうでしょう。単なる息抜きやもしれませんよ? 今夜は忍の舞台としては少々好天が過ぎますゆえ」

 上月こよい──黒髪のショートに映える赤縁眼鏡、レンズの奥で細められた紅紫の双眸、黒い小振袖に咲く金色の山茶花(さざんか)、ホットパンツのような短袴からすらりと伸びた脚には、帯と同じ(すみれ)色をしたストライプの二ーソックス。

 忍とCランクイレイザーを兼業しているこよいは、相変わらず忍ぶには相応しくない恰好をしていた。

 こよいが本業としている忍とは、依頼によって相手組織の内情を調査したり、機密書類を盗み出したりする民間の諜報員である。とはいえ、こよいの仕事は専ら依頼書の運び屋であった。本来アカシャのようなフリーのイレイザーに対する事変関係の依頼は、ヴンダーカンマー管理機構公認の口入屋を通すことになっている。しかし、個人的に信頼できるイレイザーがすでにおり、またその依頼を表に出す、つまり通常の運送手段を用いると都合が悪い場合は、こよいのような運び屋が直接そのイレイザーの許へ依頼書を届けることもあった。

「ならさっさと依頼書だけ置いて帰って、俺の息抜きに貢献してほしいもんだな」

 アカシャは対面のソファに腰を据えると、煙草を咥えた。テーブルの上のライターを取ろうとしたときには、すでにこよいが火を差し出していた。淀みないその動作に、アカシャは眼前のこよいとアルトの姿を重ねてしまう。

 アルト・タンホルダー──通称『一夜街の赤い狼』。かつて一夜街で最大の勢力を誇っていた不良グループの重鎮として暴力に明け暮れていた少女は、現在妓楼から依頼があればどんな相手のツケでも回収する掛廻を勤めている。アカシャに叩きのめされて以来、彼のことを「旦那」と呼び親う舎妹(しゃまい)と化したアルトだが、並みのイレイザーや魔道士なら導力(メディテーション)による肉体強化に頼らず拳闘のみでノックダウンできてしまうその実力は、今なお健在である。

「如何なさいました?」

 上目遣いのこよいにそう訊かれ、アカシャはようやく穂先を炙った。

「いいや……何でもない」

「大方小生の姿に赤狼(せきろう)様の幻を見たのでしょう。確かに胸のサイズは同じくらいでしょうが」

 こよいは、サラシのせいでいくらか控え目に映る胸の丸みを撫で付けながら、

「八五ですよ」

 アカシャが訊いてもいない情報を妖しげな笑みと共に伝えた。

「まあ、胸のサイズは一度揉みしだけばミリ単位でわかると豪語する一夜切っての好色漢──黒徨(こくおう)様には、余計な情報だったかもしれませんな」

「そうか。じゃあ若干アルトの方がデカいな」

 こともなげに吐かれたアカシャの言葉に、露骨に目を細めて見せるこよい。

「……何やら言い知れぬ敗北感です」

「サイズの話か?」

「いえ、そっちではなくて。むしろ小生がお尋ねしたいのは何故黒徨様が舎妹ポジに過ぎぬ赤狼様の──嗚呼、もういいです。このお話はまた、一夜最強のイレイザーとして多忙な毎日を過ごされていることで、幾層にも幾層にも蓄積なさっている黒徨様の疲労とストレスが幾分か解消されたときにでもおいおいすると致しましょう」

 こよいは袂から封筒を取り出した。テーブルに置かれたそれをアカシャが手に取る。

「依頼主は丸目(まるめ)居士朗(こじろう)様。御依頼の内容は、下尸かし地区にある然谷(ねんこく)の地下排水施設を棲家にしているBランク相当のギノー『人面樹』の『抹消』。抹消以外の掃討手段は認可せずとのことです」

 アカシャは封を切ろうとした手を止めると、眉を顰めた。

 丸目は、百々目鬼(どどめき)屋という口入屋を営んでいる中老の男だ。人を見る目は『橋姫』の番頭である庵並みに長けており、無能なイレイザーには決して仕事を斡旋しない。アカシャも当然丸目とは顔なじみで何かと世話になったからこそ、元魔道士であり現イレイザーである丸目の実力は身を持って知っている。イレイザーの口入に手間取る事変があれば、スレイブを連れて自ら解決に当たる、実質口入屋組合の長とも言える丸目がわざわざ自分に依頼をしてきた。それだけでもアカシャには引っかかる点である。しかし、アカシャが真に引っかかっていたのはそこではなかった。

「ちょっと待て。どうしてお前が依頼の内容を知ってる?」 

「おや、まさか運び屋ともあろうものが密書の中身を読んだのか、とでも言いたげな眼差しですね。小生はそれを受け取る際、直接聞かされたのですよ。こちらから御伺いするまでもなく、丸目様御本人の口から此度の依頼の中身を」

 こよいは、アカシャの訝しむような視線などどこ吹く風といった顔でコーヒーを啜る。

「ああ、ところで黒徨様。物は相談なのですがその人面樹討伐、僭越ながら小生めも御一緒して宜しいでしょうか?」 

「──それ、訊く相手間違ってるんじゃねぇか」

「丸目様よりすでに同行の許可はいただいております。無論イレイザーとしての『共闘』ではなく、あくまで見学者としての『同行』ですので、万が一小生が事変解決に加担するような結果になったとしても取り分を山分けしろなどと不届きなことを申したりは致しません。残すは黒徨様の御一存のみですな」

 アカシャは、手紙をテーブルに置いた。指に挟んだ煙草を口から離すと、細長い紫煙をゆっくりと吐いた。

「一つ教えてくれ」

 虚空に溶けゆく煙に向けられていた眼が、心持表情を固くしたこよいに据えられる。

「お前がこれに拘る理由は何だ?」

 こよいは居住まいを正した。やや間を置いて応えた。

「一夜街の地下河川にてガ族に酷似した〈異形(ヴァリアント)〉を目撃した──あの暗渠(あんきょ)を抗争の奇襲ルートとして用いている破落戸(ごろつき)連中より得た情報です。彼らの話によれば、自分たちを襲って来た異形の群れは皆一様に黄色く濁った眼をしており、大きく切り開かれた腹部は中身が花粉のようなもので薄く覆われていたそうです。小生はそれを人面樹によって操られている『ガ号』ではないか──と睨んでおります」

 ガ号──こよいが獣の尻尾を切除し、特技によって獣の耳を隠すことになった要因。

 単なる地下河川の調査なら、わざわざ依頼の機に乗じる必要はない。しかし、そこに自分よりも格上と思しきギノーが関係しているとあれば、こよいが慎重になるのも頷ける。

「人面樹は野良なのか?」

「丸目様は──コントラクトリングを見たとおっしゃっておりました」

 コントラクトリング──ギノーを隷属させるためにイレイザーが用いる、魔道文字によって構成された抑制の輪。これを装着したギノーは、主の命ある限り復活を続け、主の死と共に自身も消滅するというルールを課せられることになる。

「黒徨様……」

 こよいはそれきり何も言わない。ただ、真剣な眼差しをアカシャに注ぐばかりである。

 アカシャは心の中で苦笑した。こよいはわかっているのだ。アカシャが、例えここで相手に煽てられようが、懇願されようが、その相手が足手纏いになるなら決して連れて行かない、そういう男だということを。そして、アカシャもこよいについてわかっていることがある。この女は、何も忍としての腕が未熟だから運び屋という立場に甘んじているわけではないのだ。

 ──残すは黒徨様の御一存のみですな。

「丸目の考えがいまいち読めねぇのが気がかりだが──」

 アカシャは煙草を灰皿に押し付けると、こよいの望み通り飾らない言葉を口にした。

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