私を捨てたあなたの結婚式で、どうして私が祝辞を?
「君から祝福してくれれば、誰も彼女を責めないだろう」
フェリクス様は、私の前に一枚の紙を置いた。三週間前に婚約を破棄されたときも、同じ席に座っていた。今日はその膝に、新しい婚約者の手が重なっている。
「結婚式で、これを読んでほしいんだ」
紙の端にあるのは、私の名前だ。見慣れない筆跡の祝辞を、最初の行から読んでみる。
『私たちは、互いの幸せを願って婚約を解消いたしました』
そんな話はしていない。別の人を好きになった。君との結婚はできない。そう告げられ、分かりましたと答えるまでに、どれだけ時間がかかったか覚えていない。お茶が冷めていたことと、帰ったあとで手袋の縫い目がほつれていたことだけは覚えている。
「……私に、祝辞を?」
「人前で話すのは得意だろう。父の誕生祝いでも、皆が感心していた」
あの挨拶には、何日もかけている。嫁ぐ家の人たちに喜んでもらいたくて、彼のお父様が育てている薔薇を調べ、長くなりすぎないよう侍女に聞いてもらって練習もした。得意だからすらすら言えた、というわけではない。
「ラウラが、気に病んでいるんだ。君から僕を奪ったように思われている、と」
隣のラウラ様が俯いた。淡い桃色の帽子から、細いリボンが垂れている。その先で揺れる飾りは、私が結婚式で着けるはずだった真珠に似ている。
「本当に、申し訳なく思っております」
私は紙へ目を戻した。
『ラウラ様は、私の大切な友人です。お二人の門出を、誰より嬉しく思っております』
彼女と会うのは、今日で三度目だ。初めては春の夜会で、二度目は婚約を破棄されたあの日。フェリクス様は、一人で待たせるのは可哀想だからと、彼女を隣室に残していた。
「これは、どなたがお書きになったのですか」
「僕だ。君の負担にならないように、用意してきた」
フェリクス様が、気が利くだろうと言いたげに微笑む。私は紙を折らず、そのまま茶卓に戻した。
「読めません」
彼の笑みが止まった。
「長すぎるか? そこは直して構わない」
「書いてあることが、私の気持ちと違います」
ラウラ様が彼の袖をつかむと、フェリクス様はその手を一度撫でてから私に向き直った。
「君は、理解してくれたと思っていた」
私は膝の上で手を重ねた。今日は手袋をしていない。爪が掌に食い込む前に、指を開いた。
「結婚しないことは、受け入れました」
「だったら」
「お二人を祝福するとは、お約束していません」
静まった部屋に、廊下を歩く使用人の足音が聞こえる。扉の前で一度止まり、すぐ遠ざかっていく。私は茶器へ伸ばしかけた手を膝に戻した。何かをして、この沈黙を埋めたくなってしまう。
「あなたたちの結婚式には、出席いたしません。祝辞も、お断りします」
フェリクス様は長く息を吐いた。
「もう、君が祝辞を読むと父に伝えてあるんだ」
「私には、今お尋ねになりましたよね」
「引き受けてくれると思っていた。君は、こういうことで揉める人ではないから」
帰ってくださいと言うまで、また少し時間がかかった。けれど、今日は言えた。
*
二人が帰ったあと、応接間の窓を開けると、椅子に残った香水の匂いに庭の空気が混ざった。卓上には、置き去りにされた祝辞がある。私の名前を指で隠してみる。そうすると、少しだけ読みやすい。
「エヴァ様。こちらは、お下げしましょうか」
侍女のマリーに尋ねられ、私は紙を裏返して頷いた。
「捨てないで。引き出しに入れておいて」
どうして残したいのか、自分でもよく分からない。明日になったら、あんなふうには言われなかった気がしてしまいそうだ。彼は困っていただけで、私が意地悪をしたのではないか。もう、そんなふうに考え始めている。
「それから、ノエル様がお越しです。贈り物を届けるだけだから、お加減が悪ければお顔は見なくてよいと」
私は窓枠から手を離した。ノエル様はフェリクス様の古いご友人で、侯爵家の次男にあたる。人の集まる席では聞き役に回ることが多く、私も最初は無口な方だと思っていた。けれど本の話になると、帰りの馬車を待たせてしまうことがあった。
「お通しして」
ノエル様は、ずいぶん重そうな包みを抱えて入っていらした。卓上に置いた拍子に、茶匙が小さく鳴る。
「遅くなってしまいました。ようやく届いたので」
包みから現れた深い緑色の表紙に、思わず手が伸びる。背表紙の題名を確かめると、あの古い植物図譜だった。
「これ、北の修道院で作られた……」
「はい。以前、写しを見たことがあるとおっしゃっていたでしょう」
春の夜会で、庭の花の名が分からないという話をした。母の遺した画帳には花の絵がたくさんあって、名前のないものを調べていたのだ。葉の形まで詳しく描かれた図譜があれば、と話したことを覚えている。
「でも、見つからないと」
「知人が探してくれました。少し時間がかかりましたが、結婚のお祝いに間に合ってよかった」
私は表紙から手を離した。ノエル様は、まだご存じないのだ。
「……結婚は、なくなりました」
彼の視線が、私の手元から顔へ移った。
「フェリクス様は、別の方と結婚なさいます。ですから、これは」
包み紙を本にかぶせかけると、ノエル様が手を上げた。触れずに止めようとする、小さな仕草に手が止まる。
「あなたに、受け取っていただきたい」
「お祝いには、なりませんわ」
「では、お祝いというのは取り消します」
彼は本を見た。
「これは、あなたが欲しがっていたものだから」
涙が落ちそうになって、慌てて顔を背けた。この三週間は、届いた祝いの品を返すばかりだった。銀の食器も、対の燭台も、二人の頭文字を刺繍した布も。お詫びの手紙を書くたびに、私の結婚はなくなりましたと、もう一度知らされるようで。この本だけは、私の手元に残していいのだ。
「ありがとうございます」
声が掠れたけれど、ノエル様は聞き返さずに窓の方へ目を向けてくださる。その間に、私はハンカチを出した。
「先ほど、フェリクスの馬車とすれ違いました。お話の途中でしたか」
「結婚式の祝辞を、頼まれていたのです」
彼がこちらを向いた。
「あなたに?」
「私が祝福すれば、皆様が納得してくださるからと」
話してしまうと、さっきは口にできなかったことまで出てきた。
「私が泣かなかったから、平気だと思ったのかもしれません。分かりましたと申し上げたので、それで全部、済んだと思われたのかも」
ノエル様は、しばらく何もおっしゃらない。私はハンカチを畳み直した。困らせている。彼にとっては友人の話なのだから、どう返事をしてよいか分からないだろう。
「申し訳ありません。こんなお話を」
「引き止めなかったから、傷ついていないことにはなりません」
畳みかけた手が止まった。
「あなたが泣いて見せなければ、気遣う必要もないという話には、ならないでしょう」
私は何度か頷いた。うまく返事をしようとすると、また笑ってしまいそうだ。ノエル様が開いてくださった図譜の最初の頁には、紫の小さな花が描かれている。
「今日は、本を見ませんか。話したくなったら、また伺います」
その申し出がありがたくて、私は椅子を少し寄せた。母の画帳を持ってきてもらい、同じ花を探した。見つからないものも多かったけれど、葉の形を比べている間は、あの祝辞の続きを考えずに済んだ。
*
三日後、結婚式を取り仕切るフェリクス様の叔母、アデル夫人から手紙が届いた。記されているのは、祝辞の順番と到着時刻。私の席は新郎新婦の近くに用意されるという。結びには、気持ちよく引き受けてくださってありがとう、とまである。私はその手紙を二度読んだ。
「マリー。便箋をお願い」
断ったことが、なかったことにされている。フェリクス様には、もう一度話せば分かってもらえるのだろうか。そう考えてから、宛名にアデル夫人の名前を書いた。返事を待っているのは夫人だ。
『祝辞について、行き違いがあるようです。私はお引き受けしておりません。先日、ご本人にもお断りいたしました』
そこで一度、ペンを置いた。不快にさせないようにと書き始めると、私が気を変えたような手紙になる。体調が優れないと書けば、元気になったら読めることになる。私は祝辞の写しを取り、同封した。
『同封の原稿は、フェリクス様がお持ちになったものです。私が作成したものではなく、内容にも同意しておりません。私の名前で紹介したり、代読したりなさらないよう、お願いいたします』
封をする前に読み直すと、謝罪の言葉が一つもないのが気にかかった。それでも、書き足さずに封筒を閉じた。
翌日の返事には、祝辞を取り下げることと、勝手に名前を載せたことへのお詫びが記されていた。本人たちの話と食い違う点があるので、よければ事情を聞かせてほしいともいう。私は、伺いますと返事をした。
アデル夫人の屋敷へ着くと、応接間にはフェリクス様とラウラ様もいた。事前に知らされていても、二人の姿を目にすると足が止まりそうになる。夫人は私のために立ち上がり、ご自分の隣の椅子を勧めてくださった。
「来てくださって、ありがとう。まず、こちらからお詫びをします。ご本人に確かめず、進めてしまいました」
茶卓には、私の手紙と、祝辞の写しが置かれていた。
「フェリクスからは、あなたが二人の相談に乗り、婚約解消も勧めてくださったと聞いていました」
向かいのフェリクス様を見る。彼の視線は、手紙に注がれたままだ。
「私は、お二人の交際を知りませんでした。別の方と結婚したいと告げられた日に、初めて知りました」
「エヴァ。そんな言い方をしたら」
「違いますか」
彼が口を閉じると、アデル夫人は祝辞を手に取った。
「では、この『互いの幸せを願って』というのは?」
「私の言葉ではありません」
「君は、分かったと言っただろう」
フェリクス様は、ようやく私を見た。
「責めることもしなかった。だから、君もこれでよかったと思っているのだと」
私は膝の上の手を見た。あの日の手袋は、マリーが内側に小さな布を当て、破れにくいよう縫い直してくれている。彼はその手袋を見ていない。
「責めれば、結婚してくださったのですか」
返事はなかった。
「泣いてお願いしたら、私を好きでいてくださったのですか」
「そういう話では」
「私には、分かりましたと申し上げるほかに、何ができたのでしょう」
声が震え、一度口を閉じて水を飲んだ。杯を戻そうとすると、アデル夫人が茶卓の上を空けてくださる。
「結婚できないことは、受け入れました。でも、嬉しくはありませんでした。いまも、お二人の結婚を祝う気持ちにはなれません」
ラウラ様が顔を上げた。目が赤い。
「私たちが、悪く言われても構わないのですか」
フェリクス様が彼女の肩に置いた手を見てから、私はラウラ様に答えた。
「悪く言われたくないお気持ちは、分かります」
いつものように、そこで終わりそうになった。分かります。大丈夫です。お気になさらないで。口にすれば、二人は安心するだろう。私は続けた。
「私も、傷つきたくありませんでした」
ラウラ様の口元が動いた。
「あなたが安心するために、私が嬉しかったことにしないでください」
彼女が膝の上でハンカチを握る。私も同じように握っていることに気づき、指を緩めた。アデル夫人は祝辞を卓上へ戻し、私に向き直る。
「分かりました。こちらの原稿は使いません。ご出席も、お願いしません」
「叔母上、それでは皆に何と説明するのです」
「あなたが説明なさい」
夫人の返事に、フェリクス様が顔を上げた。
「ですが、もう円満に話がついたと」
「私にも、そう言ったわね。エヴァさんが相談に乗り、祝辞まで申し出てくださったと」
彼が私を見る。どうにかしてほしいときの顔だ。私は首を振った。
「私から祝辞を申し出たという話は、訂正してください」
「そんなことをすれば、僕が嘘をついたことになる」
返事をせずに待っていると、彼は視線を落とした。
「……言い方が、正確ではなかった」
「では、正確にお伝えください。私は相談を受けていませんし、祝辞も引き受けていません」
アデル夫人が頷いた。
「私から話した方々には、私から訂正します。フェリクス、あなたもご両親とラウラさんのご家族に説明なさい。今後の準備は、それからです」
フェリクス様が何か言いかけたところで、ラウラ様が彼の袖を引く。初めて、二人は私のいない方へ顔を向けて話し始めた。私は椅子から立った。
「本日は、お時間をいただき、ありがとうございました」
玄関まで送ってくださった夫人にもう一度お詫びを言われ、私は訂正してくださることへのお礼を伝えた。馬車に乗り、深く息を吐く。結婚式で着る服を、もう考えなくていい。
*
訂正の手紙は、数日後に届いた。フェリクス様の署名があり、私が祝辞を引き受けた事実はないと書かれていた。双方の家族にも同じ説明をしたという。アデル夫人からも、夫人が話した招待客への訂正を終えたと知らせがあった。結婚式は、親族だけで行うことになったそうだ。
引き出しから最初の祝辞を出すと、その下に、お祝いの言葉を途中まで書いた便箋があった。断ったあとも、誰も傷つけない文章に直せないかと、一度だけ考えたのだ。二枚とも、暖炉に入れた。
ノエル様とは、その後も本の貸し借りが続いた。母の画帳の花を一つ見つけるたび、図譜の頁を添えて手紙を書く。彼は正しいと思うと返してくださることもあれば、葉の切れ込みが違うのではと別の本を貸してくださることもある。何でも褒められるわけではないのが、かえって話しやすかった。
ある日、図譜を開くと、白い小花の押し花が挟まっていた。添えられた紙には、彼の字で『実物は、思っていたより小さかったです』とある。花を傷つけないよう紙ごと持ち上げると、思わず笑みがこぼれた。次の手紙には、私も見てみたいです、と書き添えた。
その返事が、植物園への誘いだった。
約束の日は、いつもより早く支度が済んだのに、鏡の前から離れられない。髪飾りを二度替え、最後は最初に選んだものへ戻す。マリーは何も言わず、外した方を箱にしまってくれた。門の前で待っていたノエル様は、私を見ると帽子を取った。
「今日は、本を忘れずに持ってきました」
前に貸すと約束した本を、二度忘れた方の言葉だ。私は笑いながら、受け取るために手を出した。
「帰りにお渡しします。今日は、荷物を持たずに歩きましょう」
彼の腕に手を添え、温室へ向かった。低い鉢にまとまって咲く白い小花は、本で見た姿よりずっと小さい。屈み込んで葉を眺めると、ノエル様も隣にしゃがんでくださる。どちらが先に母の絵と同じ葉を見つけるか、しばらく言い合った。
「この花で、間違いありませんね」
「ええ。長い間、分からなかったのに」
私は立ち上がり、もう一度鉢を見た。母がこれを描いた場所も、きっと暖かかったのだろう。画帳の隅には、薄く、お茶の染みがあった。眺めながら描いていたのかもしれない。
「見つかってしまうと、少し寂しいですね」
ノエル様の言葉に、私は顔を向けた。
「まだ、分からない花はありますよ」
「よかった」
彼は笑い、それから少し黙って考える様子を見せた。
「いえ。花が全部分かっても、会っていただきたい」
私は腕に置いた手へ目を落とした。彼も歩くのを止め、通路を行く人の邪魔にならないよう、二人で窓際へ寄る。
「最初に図譜を探したのは、あなたが楽しそうに話していたからです。見つけたら喜ぶだろうと思った。それだけで満足するつもりでした」
彼は私を見た。
「けれど、手紙が届くのを待つようになりました。今度は何を見つけたのか、どんなふうに笑うのか、気になるようになった」
私も、返事が遅い日は郵便の音を気にしてしまう。花を見つけてすぐ手紙を書いたのは、名前を確かめるためだけではない。彼に話したかったのだ。細かいところを見ていると指摘されると、少し得意になれるから。
「エヴァさん。私は、あなたが好きです」
温室の暖かさとは違う熱が、顔に集まってくる。私は手を離さずに、彼を見上げた。
「私も、あなたからのお手紙を待っていました」
ノエル様は動かず、続きを急かすこともない。私が言うまで、待ってくださっている。
「お会いするのが楽しみで、今日は髪飾りを何度も替えたのです」
言ってから、恥ずかしくなった。もっと気の利いた返事があったはずなのに、彼は嬉しそうに笑っている。
「いまの髪飾りは、とてもお似合いです」
「……ありがとうございます。私も、あなたが好きです」
最後まで言うと、彼は長く息を吐いた。
「よかった。今日は、何度も言いそびれそうになりました」
私も笑った。途中で黙り、髪飾りの話までしてしまって、上手な挨拶とはいえない。それでも、言いたかったことは全部、自分の言葉だった。
*
翌年の春、アデル夫人から、私とノエル様の結婚式で短いお祝いの言葉を述べてもよいかとお手紙をいただいた。最後には、難しければ遠慮なく断ってほしいと添えられている。私は喜んでお願いしますと返事を書き、封をした。
式の朝、マリーが持ってきてくれた白い手袋に指を通す。新しく仕立てたものだ。掌を一度開き、着け心地を確かめた。
「きつくありませんか」
「ええ。ちょうどいいわ」
扉の向こうから、ノエル様の声が聞こえる。支度が済むまで廊下で待つつもりらしかったけれど、中へ入っていただいた。私を見るなり、彼は言いかけた挨拶を忘れたように黙ってしまう。
「どうしました?」
「……綺麗です」
私が笑うと、彼も笑って手を差し出してくださった。
「行きましょうか」
その手に自分の手を重ねてから、少し待ってとお願いした。まだ、伝えていないことがある。
「私、今日が来るのを、ずっと楽しみにしていました」
ノエル様は頷き、私の手を包み直した。
「私もです」
誰に頼まれた言葉でもない。私はそのまま、彼と一緒に扉を出た。




