第60話(最終話):「余り物」のない食卓
西の空を黄金色と茜色の濃密なグラデーションが染め上げる、初夏の穏やかな週末の夕暮れ時。
マンション『メゾン・ド・フルール』の三〇一号室のサッシを開け放つと、心地よく冷まされた夕暮れの薫風が、レースのカーテンをふわりと膨らませて通り抜けていった。遠くから微かに聞こえる夕焼け小焼けのチャイムの音。街全体が家路を急ぐ穏やかな気配に包まれる中、文乃の部屋のキッチンには、一日の中で最も温かく、甘美な生活の匂いが満ち満ちていた。
トントントン、トントン……。
まな板の上で、小気味よい木製の反響音を立てて包丁がリズムを刻んでいる。
薄水色の清潔なエプロンを身につけた瀬戸文乃のすぐ隣。
ネイビーの綿麻エプロンをピシッと身につけ、ワイシャツの袖を肘の上まで逞しく捲り上げた佐伯航平が、真剣な眼差しでピーラーを操り、春人参の薄皮を器用に剥き落としていた。
「航平さん、手つきが本当にプロ並みになりましたね。皮の剥き残しが全然ありません」
「ふふ、文乃さんの厳しいご指導のおかげですよ。面取りの角度も、すずの口に当たらないよう丸く整えるコツがようやく分かってきました」
「もう私の指導なんていりませんよ。最初の頃、換気扇の掃除をしてくれた時の豪快さと違って、お料理の時はものすごく几帳面なんですから」
「エンジニアですからね。ミリ単位の狂いがない方が落ち着くんです」
航平が眼鏡の奥の切れ長な目を柔らかく細めて笑う。
二人の立ち位置には、もはや一ミリの遠慮も、ぎこちなさも存在しなかった。
肩と肩が触れ合うほどの狭いキッチンの動線の中で、文乃が調味料の瓶に手を伸ばせば、航平が阿吽の呼吸で一歩身体を引いてスペースを空け、航平が切り終えた野菜をボウルに入れれば、文乃が自然な手つきでそれを受け取って鍋へと滑り込ませる。
三ヶ月前。
他人の部屋に足を踏み入れることすら怯え、タッパーをドアノブに掛けては逃げるように去っていったあの男と、冷えた玄関先で「余り物ですから」と下手な言い訳を繰り返していた女が、今、ひとつの台所に並び立って、当たり前のように同じ夕食の仕込みに没頭している。
リビングの方へ目を向ければ、さらに胸の奥底を温かく締め付ける光景が広がっていた。
「ふきふき〜♪ ごはんの準備〜♪ すずのお仕事、ふきふき〜♪」
パステルイエローの小花柄のワンピースを着たすずが、小さな両手でしっかりと清潔な布巾を握りしめ、つま先立ちをしながらダイニングテーブルの上を一生懸命に拭いていた。
自分で作ったリズムに乗せて、鈴を転がすような愛らしい歌声を響かせている。
テーブルの上には、すでにお気に入りの三枚のランチョンマットが綺麗に並べられていた。
文乃の生成りのリネン。
航平のインディゴブルー。
そして、すず自身のパステルイエロー。
かつて、偏食に泣き叫び、冷たいコンビニ弁当のプラスチック容器を前にして食卓から逃げ出していた四歳の少女の姿は、ここにはもう微塵も存在しなかった。
すずは拭き終えたテーブルの上を見回すと、「よし、ピカピカ!」と誇らしげに胸を張り、文乃と航平の方へと駆け寄ってきた。
「パパ! あやのちゃん! テーブル、ぜんぶ拭けたよ! ランチョンマットも置いたよ!」
「ありがとう、すず。すごく綺麗に拭けてるな。大助かりだよ」
航平が腰を落とし、すずの小さな頭を大きな掌で優しく撫でる。
「すずちゃん、ありがとうね。じゃあ、お箸とスプーンも並べてくれるかな? すずちゃんの分は、大好きなリスさんのスプーンね」
「はーい! リスさん並べる!」
すずは嬉しそうにカトラリースタンドから三人分の箸とスプーンを受け取り、またタタタッとテーブルへと駆けていった。
その愛らしい背中を見送りながら、航平と文乃は自然と顔を見合わせ、声を出さずにふっと微笑み合った。
「……さて、メインに取り掛かりましょうか」
「はい。ハンバーグの空気抜きですね」
文乃が冷蔵庫のチルド室から取り出したのは、しっかりと寝かせてあった大きなステンレスボウルだった。
今夜の主菜は、三人の絆を決定づけた思い出の味――『ふっくら手ごねハンバーグ』。
牛と豚の合い挽き肉に、出汁を含ませて水気を絞った木綿豆腐と、すずの大好物になった細かく刻んだ芽ひじき、そして飴色になるまでじっくり炒めて完全に甘みを引き出した玉ねぎが練り込まれている。
幼児特有の味覚過敏を考慮し、スパイスのナツメグは極微量にとどめ、代わりに隠し味として少量の白味噌と一番出汁を肉だねに抱き込ませてある。
文乃は肉だねを三等分に分けた。
大人の手のひらほどもある大きな塊が二つ。
そして、子どもの小さな手のひらにぴったり収まるサイズの、可愛らしい丸い塊がひとつ。
ペチッ、ペチッ、ペチッ……。
文乃と航平が並び、両手の平の間で肉だねをリズミカルに往復させながら、中の空気を丹念に抜いていく。手のひらの体温が肉に伝わりすぎないよう、手早く、けれど確実に。
中央を指先で少しくぼませ、熱したフライパンの油の海へと滑り込ませた。
――ジュワァァァァッッ!!
心地よい爆音とともに、牛肉の香ばしい脂の香りと、玉ねぎの甘やかな湯気が立ち上る。
強火で表面に一瞬で焼き色をつけ、肉汁を閉じ込めた後、文乃はすかさず料理酒をひと回し注ぎ、重たいガラス蓋をパチンと閉めた。
ジュウジュウという音が、フツフツという蒸し焼きの穏やかな音へと変わる。
極弱火で七分。
豆腐の水分と蒸気の力で、ハンバーグはまるで小さなクッションのように、内側からふっくらと見事に膨らみ上がっていく。
その隣のコンロでは、副菜とスープが完璧なタイミングで仕上がりを迎えていた。
小さな雪平鍋の中では、星型に型抜きした春人参と、鮮やかな緑色のブロッコリーが、少量の出汁とバター、きび砂糖の中でコトコトと煮含められ、宝石のような艶を纏った『グラッセ』となって輝いている。
ブロッコリーの繊維はあらかじめ断ち切られ、下茹でで青臭さを完全に抜いてあるため、噛めばバターのコクと人参の甘みがジュワリと口いっぱいに広がる仕上がりだ。
そして、奥の深鍋の蓋を取ると――。
フワァッ……と立ち上ったのは、息を呑むほどに甘美で、どこか懐かしい大地の香りだった。
黄金色にトロリと輝く、『カボチャのポタージュスープ』。
文乃の実家から届いた、自然な甘みが凝縮された完熟カボチャを蒸籠で柔らかく蒸し上げ、裏ごし器で極限まで滑らかにペースト状にしたもの。
そこに、丁寧にアクを引いた昆布と鰹節の一番出汁を合わせ、新鮮な成分無調整牛乳と少量の生クリームで優しく伸ばしてある。
第一章の始まり。
偏食のすずが、生まれて初めて「……あまい」と目を丸くして完食した、あの思い出のカボチャ。
あの時はタッパーの中の「そぼろ煮」だったカボチャが、今夜は、ポタージュとなって、黄金色の優しい湯気を立ち上らせていた。
「文乃さん、ご飯が炊き上がりました」
航平が炊飯用土鍋の重たい木蓋を持ち上げた。
モワッ……と吹き出した純白の蒸気。
晴臣が運んできてくれたあの新米が、一粒一粒ピカピカとダイヤモンドのように直立し、極上の甘い香りを放っている。
「完璧な炊き上がりですね。航平さん、盛り付けをお願いできますか?」
「任せてください」
航平は大きめの平皿三枚に、ふっくらと膨らんだハンバーグを丁寧に盛り付けた。
肉汁の残るフライパンに赤ワインとみりん、極上醤油を煮詰めて作った特製の和風テリヤキソースをとろりと回しかけ、傍らに鮮やかなオレンジの星型人参と、艶やかな緑のブロッコリーを添える。
文乃がスープボウルに黄金色のカボチャポタージュを注ぎ、仕上げに純白の生クリームをスプーンの先でひと筋、マーブル模様に浮かべた。
土鍋からよそわれた、艶やかな新米のご飯。
テーブルの上に、三人分の極上の晩餐が、美しく並べられた。
大きなハンバーグが二つ。
小さなハンバーグがひとつ。
鮮やかな温野菜。
黄金色のスープ。
部屋の明かりが灯り、窓の外の茜色の夕暮れが、ゆっくりと深い群青色へと溶け込んでいく。
「わあぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!」
すずが子ども用の椅子の上で身を乗り出し、両手をパチパチと叩いて飛び跳ねた。
「ハンバーグ! お星さまの人参! カボチャのスープ! すずの大好きなの、ぜーんぶある!」
「ふふ、すずちゃんがお手伝いしてくれたから、最高に美味しくできたんだよ」
文乃が優しく目を細め、すずの首元にエプロンを掛けてあげる。
航平がインディゴブルーのマットの前に腰を下ろし、文乃がその向かい側、生成りのマットの前に腰を下ろした。
卓上を見つめる。
そこには、もうタッパーはひとつもなかった。
「余り物」という欺瞞の言葉も。
「迷惑をかけてはいけない」という自制の鎖も。
「都合のいいお隣さんなんじゃないか」という冷たい疑念も。
すべては、通り過ぎた嵐の雨とともに完全に洗い流され、今、ここにあるのは、互いを深く慈しみ、愛し合う者たちだけが分かち合える、確かな食卓の光だった。
航平が、愛おしそうに文乃の瞳を見つめた。
その眼鏡の奥の切れ長な瞳には、少年のように悪戯っぽく、けれど大人の男としての深い情熱を秘めた光が宿っていた。
航平はテーブルの上の皿を指差し、からかうように低く囁いた。
「文乃さん」
「はい?」
「……今日も、作りすぎましたか?」
その懐かしい問いかけに、文乃はクスリと悪戯っぽく口元を緩めた。
出会ったあの日から、何度も何度も口にしてきた、あの嘘の言い訳。
けれど今夜、文乃は背筋を真っ直ぐに伸ばし、航平の瞳を逃げずに見つめ返した。
そして――世界で一番誇らしく、世界で一番幸せな笑顔を咲かせて、はっきりと答えた。
「いいえ」
澄み切った、確かな文乃の声。
「今日は、最初から――ぴったり三人分です」
「…………っ」
航平の喉仏が、感極まったように大きく動いた。
ぴったり三人分。
その一言の重みに、航平の胸の奥底で、熱い熱い感動の波が込み上げてくる。
もう、誰一人として余計な人間などいない。
誰一人として、境界線の外側に立っている人間などいない。
最初から、この三人が寄り添い、共に生きるために用意された、完全なる愛の食卓。
すずが、小さな両手を胸の前でパチンと合わせた。
「パパ! あやのちゃん! すず、お腹ぺこぺこだよ! 早くいただきますしよ!」
「ああ、そうだな」
航平が静かに両手を合わせた。
文乃もまた、柔らかく両手を揃える。
三つの影が、部屋の柔らかな照明の下で、寄り添うように重なり合った。
そして――。
「「「せーの……いただきます!」」」
重なり合った、三つの温かな声。
すずがリスのスプーンを手に取り、小さなハンバーグに刃を入れた。
ジュワリ……と溢れ出す、透明な肉汁。
すずはそれを大きな口でパクリと頬張り、瞳を零れ落ちそうなくらいに見開いて、満面の笑顔で叫んだ。
「おいしぃぃぃぃぃっ! ふわふわで、お肉がじゅわ〜ってして、世界一おいしい!」
航平も箸を運び、噛み締めるように目を閉じた。
「……美味い。本当に……美味しいです、文乃さん」
「ふふ、いっぱい召し上がってくださいね」
立ち上る温かな湯気。
響き渡る子どもの無邪気な笑い声。
壁一枚隔てた隣人の「余り物」から始まった物語は。
食べることは生きること。
そして、誰かと分かち合うことは、愛すること――。
そのかけがえのない真実を胸に抱きながら、世界で一番温かい、永遠の幸せに満ちた食卓となって、最高の幕を閉じたのだった。




