昨日禁止法
ある朝、政府から通知が届いた。政府の命令は、いつも突然だ。
内容は、以下のようなものだった。
「本日より、昨日についての言及を禁じます」
「過去の記録は、国家記録管理庁により、安全に処理されました」
「円滑な社会秩序のため、ご協力をお願いします」
トオルは歯磨きをしながら、双方向モニターに映ったその通知を見ていた。
「おいおい、なんてふざけた話だ」小声でつぶやいた。
政府が突拍子もない通知を出すことは度々あったが、今回はさすがに悪い冗談だと思った。
それが冗談ではないと分かったのは、職場に着いてからだった。
上司との会話で、トオルは「昨日の件ですが」と切り出した。
その瞬間、上司も周りの同僚も、トオルから不自然に目をそらし、一斉に黙り込んだ。
これはまずい、と思った彼は話を変えた。すると、周囲の人々は何事もなかったように各々の作業に戻り始めた。
仕事中、周囲は「昨日」という言葉を避けるどころか、昨日という日が存在しなかったかのように、言及することを避けていた。
人々の会話も、書類の表記も、「今日」のことばかり語っている。
昼休みになって、トオルはテレビを見ていた。
ニュースでは、「昨日」や「前日」といった単語はすべてカットされていた。
代わりに、「つい最近起きた出来事」や「あの日」といったあいまいな表現が繰り返されている。
仕事が終わって、地下鉄に乗っていると、赤ん坊を抱いた女性が「昨日、病院で――」と口にしかけるのを見た。女性は慌てて口を押えて、静かにやり過ごしていた。
SNSを見てみると、検索も過去投稿も一斉に非表示になっていた。何事についても、「今」しか話題にならない。
会話に過去の言及が混じると、やんわりと話題を変えるか、「今が大事だから」とだけ言っている。
まるで、「昨日」が消えていくかのような感覚があった。
しかしトオルは、どうしても「昨日」に対して思いを馳せざるを得ない事情があった。
それは、昨日、恋人と別れたばかりだったからだ。
一年間連れ添った仲だった。
最初は相性がいいと思われたが、徐々に価値観のズレがあらわになり、ケンカも増えた。
最終的に彼女から別れを切り出され、了承した。それが、昨日のことだった。
「あっ!」
トオルは驚いた。
スマホを見たら、前日に撮ったはずの写真が消えていたのだ。
家に戻って確認したところ、彼女から受け取った手紙もなくなっていた。着信履歴さえ、一日前から消去されている。
記憶は確かにあるというのに、証拠がまるでなかった。
夕暮れ時、トオルは外に出て街を歩いた。
公園で、一人の少年に出会う。
「昨日ってホントにあったのかな……?」
少年がつぶやくのを聞いて、トオルは安堵した。「昨日」は人々の中にはあるのだ。
トオルは、近所の図書館に足を運んだ。昨日の痕跡を探したくなったのだ。
「ほとんど空っぽじゃないか……」
図書館には、あまり本がなかった。
以前から問題のある書籍は度々撤去されていたが、「昨日」が禁止されたことで、より多くの本が取り除かれることになったのだ。
呆然とするトオルの前に、年老いた図書館司書が現れた。
「何でしょうか?」
「……」
司書は、何も言わずトオルの目をじっと見つめる。
そして彼は、何かに納得したような様子で、懐から日記帳を取り出し、トオルに渡した。
「これは……?」
司書は何も言わず去っていった。
トオルが日記帳を開いてみると、こう書かれていた。
「昨日を語れないものは、明日を失う」
トオルは、図書館の外に出た。
そして、昨日別れた彼女に電話をかけた。
「……どうしたの?」
長い待ち時間の末に、彼女は電話に出てくれた。
「今から、会えないか……?」
◆◆◆
かつて一緒によく散歩していた公園に、彼女は来てくれた。
トオルは、「昨日ぶりだね」と言いそうになるのをこらえて、「やあ」とだけ言った。
それに対して、彼女はこう答えた。
「あなたと最後に会ったのは、今日ね」
トオルは愕然とした。
その言葉はまるで、「昨日までの彼女」が存在しなかったような響きだった。
しかし、彼女が右手にあるものを持っているのに気づいた。
それは、トオルが昨日、彼女の家に置き忘れていった折り畳み傘だった。
「はい、これ」
そう言って、彼女は傘をトオルに渡した。
「忘れてないじゃないか……!」
「その言葉、今ここでは使えないの」
彼女は静かに微笑んだ。トオルにとっては、それで十分だった。
◆◆◆
トオルは家に戻った。マンションの高層階だ。
窓から、「今日だけ」を繰り返す街を見下ろす。
記憶だけが昨日を証明している。しかし、もはや誰もそれを信じようとしない。
彼は静かにペンを取った。そして、図書館で司書から受け取った日記帳を開く。
双方向モニターから映らない場所に位置取り、密かに日記を書いた。
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2075年7月11日
昨日、僕は確かに誰かを愛していた。
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日記帳を閉じて、ベッドの下に隠した。
そしてトオルは、眠りについた。
彼の「昨日」は、まだ誰にも奪われていない。




