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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

桟橋で手を振る子ども

 港の朝は、塩と油の匂いが混ざる。私は三ヶ月前にこの町へ越してきて、魚市場の片隅で働くようになった。夜明け前に戸を開け、桶を洗い、氷を砕き、最初の船が戻るのを待つ。


 その一番の船が岸に並ぶころ、いつも桟橋の先に小さな影が立つ。赤いニット帽に、薄い青の上着。痩せた腕を精一杯振って、船に向かって「おはよう」とでも言っているみたいに、ぶんぶん手を振る。


 最初の朝は、ほほえましいと思った。二日目も、三日目も。寒い日も雨の日も、子は同じ板の上へ出て行き、漁師たちはじゃれあうみたいに声をかける。


「元気な子だねえ」


「風邪ひくなよ」


 みんな笑う。手は振らない。誰も、手は振らない。


 市場の女将の初江さんが、私の肩を軽く叩いた。


「見てるぶんには、いいからね」


「知り合いの子ですか?」


「さあね。なんだかんだ、港は家族が多いから」


 返事は曖昧だった。私はそれ以上を聞かなかった。早朝の港は忙しい。魚を受け取り、氷に埋め、札を打ち、包む。手を動かしていると、子どもの存在は背景に溶けた。


 ある日、観光客の母子が桟橋のほうへ歩いていくのが見えた。母は大きなカメラを提げ、子どもは新しい靴を履いて、跳ねるように歩いている。桟橋の先の赤いニット帽の子が、いつもの場所で手を振る。観光客の母子は、それに応えるように、ぱっと手を挙げた。


 すぐそばで網を畳んでいた古株の漁師、源さんが、わずかに顔をしかめた。けれど何も言わなかった。観光客の母子は笑って写真を撮り、すぐに帰って行った。


 その日の夕方、沖の遊覧船が一隻、戻らなかった。エンジンの故障か、舵の不具合か。結局、船は見つかった。転覆も沈没もしていなかった。ただ、舵輪の近くに、濡れた手形がいくつか残っていたという話を耳にした。


 翌朝も、子どもは桟橋にいた。赤いニット帽。青い上着。痩せた腕を、ぶんぶん振っている。私は胸の奥が少し冷えるのを感じながら、桶を洗い続けた。


「元気な子だねえ」


 初江さんは、やっぱり同じ言い方をした。私は同じように頷いた。手は振らない。誰も、手は振らない。


 港の暮らしに慣れるにつれ、私は些細な違和感に気づくようになった。市場の男たちは子どもに声をかけるが、名前では呼ばない。船大工の弥三郎さんは、桟橋の先端の板だけを、他より一枚分長く突き出すように打ち直した。そこに子どもが立っている。


「危なくないですか」と私が訊くと、弥三郎さんは釘をくわえたまま、「危ないからこそ、あそこなんだ」と濁した。


 ある日の帰り道、港の小さな祠の鈴を鳴らすと、神社のおばあさん——皆が「おかみ」と呼ぶ人——が掃除をしていた。石段の苔を落とし、紙垂を取り替え、私を見ると優しく笑った。


「ようこそ。お参りかい」


「はい。いつもお世話になっているので」


「この町は、水の機嫌で暮らしてる。礼を言える人は、いい」


 私は賽銭箱に小銭を入れ、手を合わせた。帰ろうとしたとき、おかみがふと、私の手元を見た。


「港で手は、あんまり振らないほうがいいよ」


「え?」


「合図は声と笛で十分。手は重い」


 意味がわからなかったけれど、私は頷いた。おかみはそれ以上何も言わず、さっさとほうきを持って行ってしまった。


 次の日、私はついに子どもと目が合った。桟橋の先で手を振る小さな影。薄い顔立ち。遠いから、目の色まではわからない。けれど、視線がまっすぐこちらに飛んでくるのが、はっきりとわかった。


 私は無意識に、腰のエプロンを握りしめた。手を挙げそうになる。指が浮く。浮いた指を、源さんが横から押さえた。


「やめとけ」


 低い声だった。驚いて彼を見ると、源さんは目を細めたまま、桟橋ではなく、遠くの水平線を見ていた。


「転ぶぞ」


「ここで、ですか」


「そういうもんだ」


 私は手を下ろした。指先が痺れている。桟橋の先の子は、変わらず手を振っている。笑っているのかどうか、笑っていてほしいような、笑っていてほしくないような。


 その日の夜、私は初江さんに「名前で呼ばないのはどうしてですか」と訊いてみた。女将は手を止めずに、魚の腹を流しながら答えた。


「呼ぶと、来るから」


「何が、ですか」


「“何か”、だよ」


 言い直す声は静かだった。女将は包丁を置き、布で手を拭き、少しだけ目を伏せた。


「数年前にね、あんたと同じくらいの若い人が、この町に新しく来た。よく働いて、よく笑って、港のことをすぐ覚えた。毎朝、桟橋で手を振る小さな子を見て、可愛いって言って、ある日、手を振り返した」


 そこで、女将は言葉を切った。私の喉が、自然と渇く。


「どうなったんですか」


「その日の夕方、沖で風がぱたっと止んだ。海は穏やかだった。穏やかすぎて、滑った。誰も見ていなかったのに、誰も驚かなかった。落ちるとき、人はだいたい、手を上げるからね」


 言い方はあくまで静かだった。話が店じまいの手順の一部みたいに、淡々としている。


「その子は」と私は尋ねた。「どこの子なんですか」


「昔、海難で親とはぐれた。桟橋で手を振るのが好きだった。船に、家族に、町に、全部に。だから皆、手を振らない。声はかける。『元気か』って。『風邪ひくな』って。うんと当たり前の言葉だけ」


 私は、その当たり前の言葉が、急に重く聞こえた。


 それから、私は意識して手を使わないようにした。港では声を出し、合図は笛に頼り、誰に対しても、手を振らなかった。桟橋の先の子は、それでも毎朝そこにいた。季節が少し進み、赤いニット帽の色が濃く見えるようになった。


 ある朝、風が強く、波が荒かった。船は遅れ、市場は退屈だった。私は桶の縁に腰かけて、桟橋の先を眺めていた。子どもはやはり、そこにいた。風に煽られることもなく、板の先に立って、手を振っている。


 ふと、子の手の角度が変わった。私のほうではなく、少し右上——市場の二階の窓のほう。私がいつも寝泊まりしている、小さな部屋の窓。その窓に干してある、青いタオル。


「……」


 胸の奥で、何かが小さく揺れた。子が見ているのは、私ではない。私の背中についてくるもの。私が昨日、窓に干したタオルの揺れ。その青と、子の視線が重なっている気がした。


 夜、私は祠へ行き、おかみにもう一度会った。鈴を鳴らすと、おかみは振り向かずに言った。


「今日は、誰かの手が、重かったね」


「ええ」


「手は道だ。上げると、つながる」


「つながると、来るんですか」


「行くのさ」


 おかみはそこで振り返り、私の目を見た。


「行かないために、手は下げておく。昔からのやり方だよ」


「でも、子は、ずっと振っている」


「そうだね」


「止めることは」


「できないよ。誰にも」


 風が鈴を鳴らした。私は口を閉じ、頭を下げた。


 週末、市に出る荷の準備で、夜更けまで市場に灯りが残った。皆が帰ったあと、私は片付けをして、一人で戸を閉め、裏口から外へ出た。潮が満ちて、桟橋の板の下まで水が上がっている。月は薄く、風は弱く、音は少ない。


 桟橋の先に、子はいた。昼と同じ位置、同じ姿勢。手を振っている。誰もいない港に、手を振る相手なんて、いないはずなのに。


 私は、そのまま立ち尽くした。足を一歩出せば、板の上。二歩出せば、子の近く。私は出さなかった。足の裏に、地面の硬さを確かめ、両手を腰に当て、息を一つ吐いた。


「元気か」


 声だけを、投げた。子は、少し首を傾げた。表情は、遠くて読めない。


「風邪ひくなよ」


 子は、手を振るのをやめなかった。私は少し笑ってみせ、踵を返して、市場のほうへ歩いた。


 そのとき、背中のほうで水音がした。遠い音じゃない。私のすぐ後ろ、足元の板の隙間から、ぬるい手が伸びてきて、私の足首に触れて——いない。ただの錯覚。錯覚だと思った。私は振り向かなかった。


 翌朝、目覚ましの前に目が覚めた。窓の外はまだ暗く、風の音もしない。私は起き上がり、顔を洗い、いつものように市場へ出た。薄い霧が港を覆っている。桟橋の先に、赤いニット帽の子が、いる。


 その日、私は船に乗る用事があった。沖の養殖いかだの点検。船に道具を積み、弥三郎さんと、若い従業員の順平と、三人で出た。港を離れると、霧はもっと白くなった。笛を鳴らし、ゆっくり進む。


 いかだで作業をして、戻るころ、霧が切れ、港の輪郭が見えた。桟橋。市場の屋根。祠の鈴。赤いニット帽。子はいつもどおり、板の先に立って、手を振っている。


 私は足元のロープを束ねながら、その赤を見た。順平が舵を軽く切る。弥三郎さんが、前を見たまま言う。


「港に入るまで、手は——」


「振りません」


「そうだ」


 船はゆっくり進む。私は頷き、ロープを抱え、視線を落とした。


 そのとき、岸のほうから私の名前を呼ぶ声がした。初江さんの声。市場の入口から、片手を大きく振りながら「おーい」と呼んでいる。荷の件で確認があるのだろう。私は顔を上げた。初江さんの姿。彼女の手。遠くで、赤いニット帽の子の手。二つの手が、視界の中で、同じ高さに上がって見えた。


 反射だった。私は片手を、挙げた。


 弥三郎さんの手が、私の袖を掴むより早く、足元で船がふわりと軽くなった。重さがひとつ、私の手から抜ける。指先が、誰かに握られた気がした。冷たくはない。温度がない。雪解けの底、という感じ。


「——!」


 声は出なかった。舌が喉に貼りつく。身体は、倒れるほどの衝撃を受けていないのに、平衡感覚のどこかがすべって、私は甲板の上に手をついた。指の間に、細かい砂が入る。砂はないのに、砂の音がした。


 弥三郎さんが私の肩を掴み、順平が笛を鳴らす。遠くで誰かが「危ない!」と叫ぶ。私は顔を上げる。桟橋の先で、赤いニット帽の子が、手を振っている。いつもどおり。ぶんぶん。ぶんぶん。


 私は、手を振り返してしまった。


 港の音が、少し遠くなる。笛の音が薄くなり、波が板を叩く音だけが大きくなる。誰かの手が私の手を掴んでいるはずなのに、誰の手も、私の手を掴んでいない。私は、もう片方の手を甲板に広げ、爪で木を掻いた。木目が指に引っかかる。引っかかる。けれど、止まらない。


 視界の端で、祠の鈴が風もないのに揺れた。赤いニット帽が、少しだけ傾いた。その傾きは、さよならの角度に見えた。


 私は声を出そうとして、うまくいかなくて、代わりに、笑った。笑うしかないときの、薄い笑いだ。弥三郎さんの手がさらに強くなり、順平の笛が割れ、港が近づき、遠ざかり、近づき、遠ざかり——


 波が一度だけ高くなった。空が低くなった。手は、確かに挙がっていた。私の手も、子の手も。挙がって、つながって、どこかへ、伸びた。


 港はいつものように、朝の匂いがした。塩と油。魚と木。私の名前を呼ぶ声は、どこかで続いていて、私はそれが誰の声だったか、あまり自信がなかった。

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