【短編】水神の聖女 ~死に戻り聖女が恋したのは水神様でした。何度忘れても、わたしはきっとまた恋をする~
ぽちゃん。
音がした途端、私の世界が凍った。
重力に引きずり込まれる感覚とともに、冷たい水が全身を包み込む。
肌を刺すような冷たさに縮み上がり、頭まで沈んで、光が消えた。
冷たい水が、鼻の奥にまで一気に押し寄せ、ツンとした痛みが、頭の奥にまで響く。
喉が焼け、肺がひっくり返ったみたいに痙攣しながら、空気を探して暴れる。
でも、息はできない。
吸えない。吐けない。
ただ、水が喉に、胸に、無理やり押し込まれていく。
手足を必死に動かしているのに、足首が重い。
何かが絡みついてる。
冷たく、硬く、離れない。
怖い――。
水の中は、こんなにも冷たくて、暗くて、音すら聞こえないのに。
なのに、どうしてか知っていた。
ああ、まただ。
また、だ。
なんでだ。なんで「また」なの?
こんなの、初めてのはずなのに。
でも違う。身体が知っている。
死ぬ。このまま、死ぬ。
それでも――終わらない。
助けてなんて、もう言えない。
喉で溜まった泡が破裂していくだけ……。
耳の奥で、遠い誰かの声が囁いた。
――また、おいで。
なぜか懐かしい、聞き覚えのある声。
でも、もう遅かった。
私は、また死んだ。
*
次の瞬間。
ぽちゃん。
また、冷たい水の感触が全身を包んでいた。
冷たい。苦しい。
足首は変わらず重く、呼吸はできない。
肌に絡みつく水は、まるで氷のようだった。
何度沈んでも、この凍える感覚だけは消えてくれない。
どうしてだろう。
さっき、私は確かに死んだはずだ。
なのに、また――水の中だ。
身体が勝手に、上を目指す。
でも足首が痛い。引っ張られるような感覚。
必死に蹴っても、重いまま。絡んでる何かはちっとも外れてくれない。
(誰かのために……私は、沈んだの?)
そんな気がして……でも、思い出せない。
苦しい。苦しい。
またあの水底からの声が響いて、
そのたびに、黒が私を飲み込んでいく。
ぽちゃん。
また、だ。
何度も、何度も。
死んでも、また生き返って水に沈んでいく。
冷たさも、痛みも、恐怖も、消えていないのに。
足首は変わらず重く、呼吸はできない。
そして、また死ぬ。
だけど、何度目かの死の中で、
私は水面に浮かぶ何かを見た。
――小舟?
そこに、たくさんの人影があった。
祈るように、じっと手を合わせている。
どうして? なんで、ただ祈ってるの?
お願い、助けて。
声を出そうとしたけれど、
水の中では、喉が音にならなかった。
その人影の奥で、何かが歪んだ気がした。
世界が、滲んで、くずれていく。
ふと、目に入った自分の姿。
白い――装束。巫女のような……。
どうして? なんでこんな格好をしてるんだろう。
それに、わたしは誰?
記憶があいまいだった。
もう一度、意識が沈んでいく。
だけど、その暗闇の奥で、
誰かが泣いている気がした。
ぼんやりと、脳裏に浮かぶ記憶。
「やだよ、お姉ちゃん」
か細い声。必死に縋るような、泣き声。
あれは……わたしの妹?
どうして泣いてるの?
どうして、そんな声を私に向けるの?
わからない。
わからないまま、私はまた死んだ。
*
ぽちゃん。
そして、また水の中。
ぽちゃん。
また、だ。
どれだけ繰り返したのだろう。
わからない。ただ、確かなのは――
このままでは、また死ぬ。
それだけだ。
私の足首には、何かが巻き付いている。
重く、硬い。
きっと、重り。
私を水に沈めるためのもの。
――どうして?
――なんのために?
記憶はまだぼんやりしている。
けれど、確信だけはあった。
これを外さないと、私はこのまま、何度も何度も死ぬ。
死んで、また水の中に投げ込まれる。
それは、嫌だった。
私は足元に手を伸ばす。
冷たく、硬い何か。
皮の帯に、何か重い塊。
爪が剥がれそうになる。
でも、構わなかった。
どうせ、死ぬのだ。だったら――。
「生きたい……」
水の中で、声にならない声を絞る。
もがき、掴み、引っ張る。
爪が割れ、血が滲む。
でも、何度死んでも、同じ場所を、同じように攻める。
ぽちゃん。
身体が水に包まれた瞬間、息を止める。
肺に水を入れてはいけない。
その方が長く戦える。
でも、耐え切れず空気を求めて口を開けばいつも――
容赦なく水が喉に、肺に流れ込む。
そしてまた――ぽちゃん。
一度死ねば、体も重りも元通り。
でも、何度だって。
指がちぎれそうになっても、
皮膚が裂けても、
爪が剥がれても、
歯を食いしばって、ただただ重りに挑み続けた。
何度目の死だったろう。
ついに、帯の留め具が緩んだ。
重たい塊が足元から外れ、沈んでいく。
――外れた。
水面を目指す。
胸が、痛い。
けれど、苦しさを押しのけて、必死に手足を動かす。
あの光の方へ。
水面へ。
見上げる水面は、果てしなく遠い。
でも、私は、生きたい。
生きたい。
ただそれだけの想いで必死にもがく。
やがて、水面が目の前に近づいてきた。
もうすぐだ。
もうすぐ――
まだ、水をかく手は水面に届かない。
まだ? まだなの?
届きさえすればきっと、小舟の人たちが助けてくれる。
ぱしゃん、と音を立てて、水面を割った。
その瞬間、肺が勝手に空気を吸い込んだ。
冷たい空気が、焼けた喉を一気に通り抜け、
肺の奥に溜まっていた水が、ごぼっと音を立てて吐き出される。
むせて咳が出る。
呼吸。
それが、こんなにも痛くて、苦しいなんて。
何時間ぶりなのか。
何十回ぶりなのか。
私は今、やっと、生まれ落ちたばかりの赤子のように空気を吸った。
喉が裂けそうだ。
肺も焼ける。
でも、それでも。
空気は、甘美だった。
冷たいのに、熱い。
吸っても、吸っても、まだ足りない。
目の奥が痛い。
眩しい光が、空から降り注いでいる。
生きている。
ついにやったんだ。
私は、確かに生きてる!
その実感が、焼けつく肺の奥から、全身へと広がっていく。
焼け付く感覚の中――
霞んだ目に映る小舟に向けて、私は血だらけの手をせいいっぱい差しのべた。
助けて。お願い。
ここにいるの。私は、生きてる。
早く、誰か――
そのとき、声が飛んできた。
「聖女様が上がって来たぞ!」
「……どうしてだ! 重しが外れたのか!?」
驚愕と怒気が混じった叫び。
え?と呟いたその瞬間、何かが私に向かって飛んできた。
頭に、鈍い衝撃。
一瞬の、痛み。
世界がぐらりと傾いて、私はまた、暗闇に落ちた。
暗闇に落ちる寸前、またあの、どこか懐かしい声が聞こえた。
――また、おいで。
そして、ぽちゃん。
冷たい水が、また、全身を包んでいた。
やっと、空気を吸えたのに――。
まただ。
また――だ。
*
けれど、もうわかっていた。
重りは外れる。
死んで、目を覚まして、外して――浮かぶ。
私は何度も繰り返し、今や迷いなく手を伸ばし、
帯を解き、鉄の塊を蹴り落とす。
水面へ。
光を目指して、手足を動かす。
苦しさはある。痛みもある。
それでも、今度こそ。
水面を割って顔を出す。
肺に空気を吸い込む。
喉が焼けるように痛いけれど、それでも。
生きている。
私は、また、生きている。
水面から顔を上げる。
前回よりは余裕があった。
周囲を見回すと、岸辺と、小さな島が見える。
ここは湖ね。
それもそこそこ大きい。
そして、あの小舟。
小さな木の船。そこにいる、何人もの人影。
その誰もが、こちらを見ていた。
驚きに目を見開き、口を半開きにして。
その中には、記憶の中泣いていた女の子。
今も泣いている彼女の姿が目に飛び込んだ。
私を「お姉ちゃん」と呼んだ、そう、あの子は私の妹。
いつも裾を引き引き「お姉ちゃん、大好き」と言ってついてくる大事な妹。
その横で、中年の男女が泣き晴らした顔でこちらを見ていた。
きっと、あれは私の――。
「……お、お前……」
すると、ボートに乗る人々のひとりが、震える声を漏らす。
その声に、周囲がざわついた。
「まさか、聖女様が戻ってきたのか」
「そんな、そんなはずが……」
「戻っちゃいけないんだ!」
祈るように手を合わせていた者たちが、今度は私を指差して罵った。
「どうして! 重しが外れたのか!?」
「聖女様を捧げなければ……村は守ってもらえない……!」
「水神様への冒涜だ!」
「沈めろ、沈めなきゃ!」
(聖女を捧げる? 水神への冒涜?)
誰かが石を投げた。
私の額に当たり、生暖かいものが頬を伝った。
また……なの?
痛みよりも、意外だった。
どうして、沈まないといけないの?
生きたいだけなのに。
家に帰りたいだけなのに。
次々に石が飛んできて、私の身体を打った。
水面に浮かんでいた身体は、痛みに耐えられず、徐々に沈んでいく。
でも、私は見た。
最後に、水面すれすれから。
――父と母。いつも微笑んで私の成長を見守り、誕生日を祝ってくれた父と母。
ふたりの目は、涙で真っ赤に腫れあがっていた。
母はボートから身を乗り出して、「クララ!」と叫びながら水面に手を伸ばしていた。
いくら伸ばしても届かないのに、それでも、私を掴もうとしてた。
そして、見えたのはほんの一瞬だったけれど――
父は、石を投げた人のひとりにつかみかかっていた。
その腕を振り払うように、必死に、何かを叫んでいた。
なのに、間に合わなかった。
石が、次々に飛んできて、最後に大きな石が目に映り……。
ぐしゃり……。
次の瞬間、視界が真っ赤になり、意識も薄れていく。
沈みながら、私は思った。
やっぱり、ここでは生きられないんだ、と。
目の奥で、妹の泣き声が、まだ、響いていた。
そして、思い出した。
村の風習。
水神に村を守ってもらうための生贄。
年に一度、うら若き、清らかな乙女を聖女として水神に捧げる儀式。
そして、今年選ばれたのは――妹だった。
私は――
妹には秘密で、身代わりを申し出た。
まだ私の半分しか生きてない妹が――そんなの耐えられなかったから。
だから、私は死ななければならない。
そう、決めたはずだった。
妹を守るために。
でも――
私は、何度死んでも、こうしてまた水の中に戻ってくる。
何度も、何度でも。
それには、きっと訳がある。
その理由を知らないまま、ただ死に続けるなんて。
それは、嫌だった。
理由があるなら、確かめたい。
どうして私は、生き返ってしまうのか。
なぜ、この苦しみは終わらないのか。
だから私は、もがく。
確かめるまでは――終わるわけにはいかない。
再び、深い水の底から声が聞こえた。
――また、おいで。
そして、また黒い闇に飲み込まれていった。
*
ぽちゃん。
また、冷たい水の中。
でも、私はもう迷わなかった。
手早く足元の重りを外し、重たい塊が沈むより早く蹴り落とす。
水面へ。
光を目指して、何度目かわからない浮上。
だが、ボートの近くに浮かんではいけない。
そうすれば、また石を投げられて沈められるだけだ。
私は、横へ泳いだ。
装束がまとわりつき、身体は冷たくて重い。
でも、繰り返すうちに、少しは泳ぎが上手くなっていた。
息が続く限り、遠くへ。
少しでも、遠くへ。
水面から顔を出すと、遥か向こうにボートの影が見えた。
怒号と、石が近くに落ちる音。
でも、もう石も、その声も――遠く届かない。
私は、大きく息を吸って、また水を掻く。
遠く、湖の中央には、朽ちた小さな島が見えていた。
目的地はこの島。
そこには、何かがあった気がする。
覚えていないけれど、行かなくちゃいけない気がしていた。
湖の水は冷たく、何度も身体が沈みかけた。
でも、繰り返してきた死のおかげで、私の手足は覚えていた。
こうすれば、前に進む。
こうすれば、沈まずにいられる。
少しずつ、少しずつ島が近づいてくる。
私の身体は限界に近かったけれど、気力だけで前へ進んだ。
ようやく、手が岸に届いた。
指が泥に埋まり、引きずるようにして身体を岸に乗せる。
はぁ、はぁ、と息が漏れる。
肺が焼けるほど苦しかった。
私は這うようにして、島の奥へと進んだ。
そこにあったのは、朽ちた祠だった。
苔むした石の祠。
古い、滅多に人が訪れなくなったような場所。
その前には、ひとつの舞台があった。
薄汚れた木の床。しかし、真ん中のあたりにだけ光沢がある。
ここで誰かが舞ったのだろうか――きっと、生贄の少女が自ら。
だったら、私は、この場所を知っているはず。
そう、確かに、知っている。
その瞬間、聖女の装束を纏って舞う、自分の姿が重なった。
確かに、この場所で水神様に舞いを捧げ――そして小舟に乗った。
私は祠の前で、膝を折った。
冷たい風が吹き抜けた気がした。
そして、私は気づいた――
祠の前、舞台の奥の池の水面に、誰かが立っている。
池の中央、水の上に揺らめく人影。
その姿に、私は――見覚えがある。
そこには、ひとりの青年が立っていた。
まるで、そこが地面であるかのように、微動だにせず、水の上に。
「神……様?」
でも、その姿を、私は知っている気がした。
いつ、どこで、どうして――そこまでは思い出せない。
けれど、彼の佇まいはなぜか懐かしくて、胸を締めつけた。
「あなたは……誰?」
風が吹く。
水面を渡る風の音に混じって、彼の声が届いた。
「僕かい? 僕は水神だよ。愛しい人」
彼のその深い水のような瞳は、流れる水のように揺れていた。
「さっき、君が舞台に現れたときは……正直、僕も驚いてしまったよ」
静かで、寂しげな声だった。
(さっき……。わたしにはずっと前の出来事のよう……。
それに……愛しい人って……?)
その言葉になぜだか、胸の奥がきゅっとした。
それよりも、この人が神様なら聞きたいことがある。
「なぜ、わたしは死ねないのでしょうか?
何度でも生き返ってしまうのは、なぜなんでしょうか?」
そう訊いたはずなのに、私の声は掠れていて、彼には届かなかったかもしれない。
それでも、彼はゆっくりと、私の方を見た。
「それは、クララ。君が僕が選んだ”本物の聖女”だからだよ。
”本物の聖女”は死なないんだ。
他の”仮初の聖女”とは違ってね」
「わたしが……神様に選ばれた……”本物の聖女”?」
今は、彼の瞳は深い湖の底のようだった。
その中に、私の姿が映っていた。
嬉しいのか、哀しいのか、わからない顔。
彼は微笑んだ。
とても、悲しい笑顔で。
「君との時間は、僕にとって、大切なものだった。
君だけが僕を畏れず、まるで一人の人間のように愛してくれたんだ。
だから、僕は君を、”本物の聖女”に選んだんだ」
その時、わたしは思い出した。
彼のことも、彼との思い出も……。
彼と水辺で出会ったのは偶然だった。
たわいもない話、時に笑って、時に黙って。
ふらりと湖畔を訪れれば、そこにいる不思議な人。
花冠を被せて笑いあったり、光る貝殻を集めたり。
水辺に一緒に腰掛けて、静かに夕陽を眺めたり。
でも、一度、二度、三度――ー何度も逢瀬を重ねるたびに想いが募った。
そしてあの日――
妹が村の”聖女”に選ばれ、私が身代わりを申し出た、あの日のこと。
私は心ここにあらずで、ぼんやりと湖畔に向かった。
不思議と、そこに行けば会える気がして。
もう彼に会えなくなる――それよりも、ただ会いたくて。
そして、彼は本当にいた。
変わらず、静かに私を待っていた。
私は、ただ会いたかっただけなのに――
彼は、ふいに私を抱きしめ、口づけた。
柔らかくて、少しだけ冷たい唇。
胸が跳ねた。どうしていいかわからなくて、でも、なぜだか満たされて。
何も言えなかった。お別れの言葉さえ。
あれが、私の最初で最後の口づけ。
そして、きっと――最初で最後の恋。
――でも、その彼が水神様だったなんて……。
そうだ、私は、あのとき確かに恋をしていた。
たとえ、相手が誰であっても。
思い出すたび、胸の奥がじんと痛くなる。
生まれて初めて感じた、あの淡く、愛おしい気持ち。
「わたし、あなたにお別れを言えなかった……」
けれど、言葉はそこで途切れた。
彼にお別れを言う?
でも、彼が水神で――わたしは生贄。
何を言えばいいのかわからなかった。
だけど、胸の奥が、なぜだか温かく、そして痛かった。
彼は言った。
「もし、それを言ったら、君は、もう戻ってこれなくなるかもしれないよ。
それでも、いいのかい?」
その声に、私は小さく頷く。
そうだ、もう。
もう、いいんだ。
私は、生きたいと願って、何度も死んで生き返った。
そうやってここまで来た。
けれど――この人に会えたなら、それで。
私の胸に、もう答えは浮かんでいた。
それに、もしわたしが拒否したら、きっと次は妹が……。
「一つだけ。もう生贄の儀式をやめてくださるなら――」
答えは決まってる。
そして、私は自分の瞳が熱く、潤んでいくのを感じながら、
喉の奥から、かすれた声をそっと絞り出した。
震える唇を通して零れた言葉は――
「――わたしを……食べて」
彼の目が、わずかに見開かれた。
けれど、すぐに静かな色に戻る。
「君の願いを叶えよう、愛しい人。本当にいいんだね?」
「うん。もう、いいの。わたし、全てを思い出したから」
彼の声も、表情も、そしてあのときの口づけも――
それらが確かに、私の中にあったのだと信じられる。
それだけで、もう十分だった。
「そうか」
彼は、ぽつりと呟いた。
そして、静かに言った。
「それなら、僕からも一つ約束しよう。
君の想いは、僕の中で永遠に生きると」
彼の姿が揺らめく。
そして、池の周りを巡るように風が立ち上り、静かに、巨大な龍へと変わっていった。
水面に浮かぶ大きな龍の身体。
うねる身体、広がる鱗。そして大きな口と、並んだ牙。
不思議と怖くなかった。
その瞳だけは、あの青年と同じように優しかったから。
(もう、怖くない。ひと思いに……)
でも、ほんの少しだけ。
もう一度、あの光の中で、父と母と、妹と、笑いたかったな……。
私は、静かに瞼を閉じた。
膝をつき、祈るように両手を胸の前で組む。
ひと粒の涙が頬を伝った。
これで報われる。そう思うと、不思議と穏やかな気持ちになる。
死はもう怖くなかった。
むしろ、これで終わるなら、愛する人の手で終われるなら、幸せだとさえ思った。
そして最後に浮かんだのは――
湖畔での口づけの後、はにかんだように微笑む、私の愛する人。
そう、それはあなた。
目の前にいる、大きな、大きな水神様。
あの一瞬は。私にとっては――永遠だったよ?
私はそっと、瞼を閉じた。
睫毛が微かに震えて、胸の奥がじんと熱くなる。
愛してる。
こんなにも、あなたが愛しい。
愛してます、私の水神様。
そう胸の内で何度も繰り返しながら、
私は静かに、その言葉だけでは足りないほどの想いを確かめた。
「……さようなら、愛しい人……」
龍の口がゆっくりと開かれる。
その巨大な顎が、私を包み込むように近づく。
暗闇が、迫る。
その気配はひんやりと冷たく、真冬の夜風にさらされるようだった。
でも、不思議とそれは優しい闇だった。
まるで、愛する人の胸の中に沈んでいくように。
身体が、池の水ごと暗闇に飲み込まれていく。
優しく、けれど、容赦なく。
そして、全てが、黒に染まった。
*
ぽちゃん。
水に波紋が立つような感覚――そして意識が浮かび上がる。
――ふわり、と風が頬を撫で、私は思わず胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
空気っておいしい……。
そして、まぶたを開けると、
そこには青く澄んだ空があった。
私は、湖のほとりに横たわっていた。
思い出せないけど、さっきまで大変な目に遭っていたような気がして――
でも、いつもの服は乾いているし、冷たさも、痛みも、何もない。
――夢を見ていたのかな?
「お姉ちゃーん、ごはんだよ!」
遠くから、声がした。
小さな女の子が、草を踏みしめて駆けてくる。
「はやくしないと冷めちゃうよ!」
私はゆっくりと身体を起こした。
不思議な気持ちだった。
何か、忘れてはいけないことがあったような、そんな感覚。
「わたし……」
ぽつりと呟く。
そうだ、私は――誰?
「わたしは……誰?」
そう呟いたとき、女の子は目を丸くして笑った。
「なに言ってるの、お姉ちゃん?
クララお姉ちゃんはクララお姉ちゃんだよ? 変なお姉ちゃん!」
「わたしは……クララ?」
女の子は私の手を掴んで、ぐいぐいと引っ張る。
その手の温もりが、妙に懐かしく感じた。
「ねえ、早く行こうよ!」
「あ……うん」
私は立ち上がり、手を引かれるままに歩き出す。
ふと振り返った。
湖は穏やかで、空の青をそのまま映していた。
その向こう、湖の中央にぽつんと浮かぶ小さな祠。
その前に、ひとりの不思議な青年が立っていた。
白い服、柔らかな髪。
遠すぎて顔は見えない。
でも、その姿に、なぜか胸がきゅっと痛んだ。
彼は私に手を振っていた。
まるで、別れのように。
まるで、またね、のように。
「誰……?」
私が呟いたとき、青年の唇が静かに動いた。
「もう、思い出せないだろう?」
そう言った気がした。
でも、聞こえたかもしれない声も、次の瞬間には風にさらわれていた。
私の手を引く小さな手の温もり。
私は前を向き、歩き出す。
何か大切なものを、失った気がする。
でも、もう思い出せない。
たぶん、家路へと続く道を、私は小さな手を引かれて歩いていく。
村の方から誰かの笑い声が零れ、鳥たちが羽ばたいていった。
そのとき。
――また、おいで。
そんな、なぜだか懐かしく感じる声が聞こえた気がして、ふと振り返った。
あの不思議な人はもういない。
湖は、相変わらず穏やかだった。
風が水面をさらい、きらきらと光っている。
波紋はすぐに消え、
水の底が、どこまでも静かに見えた。
ただ、胸の奥が、ほんの少しだけ、寂しくて。
自然と唇が動き、紡いでいた。
「わたし、きっとまた恋をするのかな」
*
湖の深い底では、ひとつの影がじっと静かに、うたたねするようにうつぶせていた。
その巨大な影がゆっくりとまぶたを開く。
その目は、大きく、深く、優しい光を湛えていた。
(食べたのは、君の記憶だけ。
今日までの痛みも、悲しみも、苦しみも、恋い焦がれた気持ちも全部、ね。
それに、村の儀式も、”聖女”だった娘たちの嘆きも、すべて君の記憶と一緒に――
まるごと食べて、無かったことにしたよ。ちゃんと約束通りだろ?)
(そういう、過酷で、甘くて、どうしようもなく強い記憶こそが僕の大好物だけど――
君の記憶はいつだって最高に美しく、甘美な味わいだ。
そう君は、そんな最高の御馳走を僕のために集めて、そして食べさせてくれるんだ)
彼は姿勢を変えるように少しみじろぎをすると、瞼を半分だけ閉じた。
(クララ、僕の愛しい人。
また君がその甘美な記憶を胸に、この湖のほとりに立つ日を待っているよ)
(なぜ、何度でも繰り返すのかって?
簡単だよ。君は僕が愛する、たった一人の本物の”聖女”だからね。
愛する者の甘美な記憶を喰らう。それ以上の美食を僕は知らない。
だから、君は僕に永遠に愛されるんだ。
たとえ寿命が尽きて、生まれ変わってもね)
(だから、君が忘れても、また恋をしよう。
また君と出会って、また恋に落ちよう。
それだけが、僕が永遠を生きる理由だから)
(永遠に生きるなんて、退屈なものだからね。
次の御馳走を楽しみに、少し休むことにしよう)
そして、静かに目を閉じ、満足げに眠りについた。
湖は、今日も静かだ。
記憶を食べ、すべてを水底に沈めながら。
だって、人は恋の痛みも、焦がれた思いも、
忘れるからこそ、また恋をしてしまうのだから。
おしまい。
※最後までお読みいただき、ありがとうございました。
実は冒頭のシーン、自分が溺れかけた実体験が元になってます(=^・^=)
評価やブクマ、感想などいただけますと励みになります。