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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【短編】水神の聖女 ~死に戻り聖女が恋したのは水神様でした。何度忘れても、わたしはきっとまた恋をする~

ぽちゃん。


音がした途端、私の世界が凍った。


重力に引きずり込まれる感覚とともに、冷たい水が全身を包み込む。

肌を刺すような冷たさに縮み上がり、頭まで沈んで、光が消えた。


冷たい水が、鼻の奥にまで一気に押し寄せ、ツンとした痛みが、頭の奥にまで響く。


喉が焼け、肺がひっくり返ったみたいに痙攣しながら、空気を探して暴れる。


でも、息はできない。

吸えない。吐けない。

ただ、水が喉に、胸に、無理やり押し込まれていく。


手足を必死に動かしているのに、足首が重い。

何かが絡みついてる。

冷たく、硬く、離れない。


怖い――。


水の中は、こんなにも冷たくて、暗くて、音すら聞こえないのに。

なのに、どうしてか知っていた。


ああ、まただ。

また、だ。


なんでだ。なんで「また」なの?

こんなの、初めてのはずなのに。


でも違う。身体が知っている。


死ぬ。このまま、死ぬ。

それでも――終わらない。


助けてなんて、もう言えない。

喉で溜まった泡が破裂していくだけ……。


耳の奥で、遠い誰かの声が囁いた。


――また、おいで。


なぜか懐かしい、聞き覚えのある声。


でも、もう遅かった。


私は、また死んだ。



次の瞬間。


ぽちゃん。


また、冷たい水の感触が全身を包んでいた。

冷たい。苦しい。


足首は変わらず重く、呼吸はできない。


肌に絡みつく水は、まるで氷のようだった。

何度沈んでも、この凍える感覚だけは消えてくれない。


どうしてだろう。

さっき、私は確かに死んだはずだ。

なのに、また――水の中だ。


身体が勝手に、上を目指す。

でも足首が痛い。引っ張られるような感覚。

必死に蹴っても、重いまま。絡んでる何かはちっとも外れてくれない。


(誰かのために……私は、沈んだの?)


そんな気がして……でも、思い出せない。


苦しい。苦しい。


またあの水底からの声が響いて、

そのたびに、黒が私を飲み込んでいく。


ぽちゃん。


また、だ。


何度も、何度も。

死んでも、また生き返って水に沈んでいく。

冷たさも、痛みも、恐怖も、消えていないのに。


足首は変わらず重く、呼吸はできない。

そして、また死ぬ。


だけど、何度目かの死の中で、

私は水面に浮かぶ何かを見た。


――小舟?


そこに、たくさんの人影があった。

祈るように、じっと手を合わせている。


どうして? なんで、ただ祈ってるの?

お願い、助けて。


声を出そうとしたけれど、

水の中では、喉が音にならなかった。


その人影の奥で、何かが歪んだ気がした。

世界が、滲んで、くずれていく。


ふと、目に入った自分の姿。

白い――装束。巫女のような……。

どうして? なんでこんな格好をしてるんだろう。


それに、わたしは誰?

記憶があいまいだった。


もう一度、意識が沈んでいく。

だけど、その暗闇の奥で、

誰かが泣いている気がした。


ぼんやりと、脳裏に浮かぶ記憶。


「やだよ、お姉ちゃん」


か細い声。必死に縋るような、泣き声。

あれは……わたしの妹?

どうして泣いてるの?

どうして、そんな声を私に向けるの?


わからない。

わからないまま、私はまた死んだ。



ぽちゃん。

そして、また水の中。


ぽちゃん。

また、だ。


どれだけ繰り返したのだろう。

わからない。ただ、確かなのは――


このままでは、また死ぬ。

それだけだ。


私の足首には、何かが巻き付いている。

重く、硬い。

きっと、重り。

私を水に沈めるためのもの。


――どうして?

――なんのために?


記憶はまだぼんやりしている。

けれど、確信だけはあった。


これを外さないと、私はこのまま、何度も何度も死ぬ。

死んで、また水の中に投げ込まれる。

それは、嫌だった。


私は足元に手を伸ばす。

冷たく、硬い何か。

皮の帯に、何か重い塊。


爪が剥がれそうになる。

でも、構わなかった。

どうせ、死ぬのだ。だったら――。


「生きたい……」


水の中で、声にならない声を絞る。

もがき、掴み、引っ張る。

爪が割れ、血が滲む。

でも、何度死んでも、同じ場所を、同じように攻める。


ぽちゃん。


身体が水に包まれた瞬間、息を止める。

肺に水を入れてはいけない。

その方が長く戦える。


でも、耐え切れず空気を求めて口を開けばいつも――

容赦なく水が喉に、肺に流れ込む。


そしてまた――ぽちゃん。


一度死ねば、体も重りも元通り。

でも、何度だって。


指がちぎれそうになっても、

皮膚が裂けても、

爪が剥がれても、

歯を食いしばって、ただただ重りに挑み続けた。


何度目の死だったろう。

ついに、帯の留め具が緩んだ。


重たい塊が足元から外れ、沈んでいく。


――外れた。


水面を目指す。

胸が、痛い。

けれど、苦しさを押しのけて、必死に手足を動かす。


あの光の方へ。

水面へ。


見上げる水面は、果てしなく遠い。


でも、私は、生きたい。

生きたい。

ただそれだけの想いで必死にもがく。


やがて、水面が目の前に近づいてきた。


もうすぐだ。

もうすぐ――


まだ、水をかく手は水面に届かない。

まだ? まだなの?


届きさえすればきっと、小舟の人たちが助けてくれる。


ぱしゃん、と音を立てて、水面を割った。

その瞬間、肺が勝手に空気を吸い込んだ。


冷たい空気が、焼けた喉を一気に通り抜け、

肺の奥に溜まっていた水が、ごぼっと音を立てて吐き出される。


むせて咳が出る。


呼吸。

それが、こんなにも痛くて、苦しいなんて。


何時間ぶりなのか。

何十回ぶりなのか。

私は今、やっと、生まれ落ちたばかりの赤子のように空気を吸った。


喉が裂けそうだ。

肺も焼ける。

でも、それでも。

空気は、甘美だった。


冷たいのに、熱い。

吸っても、吸っても、まだ足りない。


目の奥が痛い。

眩しい光が、空から降り注いでいる。


生きている。

ついにやったんだ。

私は、確かに生きてる!


その実感が、焼けつく肺の奥から、全身へと広がっていく。


焼け付く感覚の中――

霞んだ目に映る小舟に向けて、私は血だらけの手をせいいっぱい差しのべた。


助けて。お願い。

ここにいるの。私は、生きてる。

早く、誰か――


そのとき、声が飛んできた。


「聖女様が上がって来たぞ!」

「……どうしてだ! 重しが外れたのか!?」


驚愕と怒気が混じった叫び。


え?と呟いたその瞬間、何かが私に向かって飛んできた。


頭に、鈍い衝撃。

一瞬の、痛み。

世界がぐらりと傾いて、私はまた、暗闇に落ちた。


暗闇に落ちる寸前、またあの、どこか懐かしい声が聞こえた。


――また、おいで。


そして、ぽちゃん。


冷たい水が、また、全身を包んでいた。


やっと、空気を吸えたのに――。


まただ。

また――だ。



けれど、もうわかっていた。

重りは外れる。

死んで、目を覚まして、外して――浮かぶ。


私は何度も繰り返し、今や迷いなく手を伸ばし、

帯を解き、鉄の塊を蹴り落とす。


水面へ。

光を目指して、手足を動かす。


苦しさはある。痛みもある。

それでも、今度こそ。


水面を割って顔を出す。

肺に空気を吸い込む。

喉が焼けるように痛いけれど、それでも。


生きている。


私は、また、生きている。


水面から顔を上げる。


前回よりは余裕があった。


周囲を見回すと、岸辺と、小さな島が見える。

ここは湖ね。

それもそこそこ大きい。


そして、あの小舟。

小さな木の船。そこにいる、何人もの人影。


その誰もが、こちらを見ていた。

驚きに目を見開き、口を半開きにして。


その中には、記憶の中泣いていた女の子。

今も泣いている彼女の姿が目に飛び込んだ。


私を「お姉ちゃん」と呼んだ、そう、あの子は私の妹。

いつも裾を引き引き「お姉ちゃん、大好き」と言ってついてくる大事な妹。


その横で、中年の男女が泣き晴らした顔でこちらを見ていた。

きっと、あれは私の――。


「……お、お前……」


すると、ボートに乗る人々のひとりが、震える声を漏らす。

その声に、周囲がざわついた。


「まさか、聖女様が戻ってきたのか」

「そんな、そんなはずが……」

「戻っちゃいけないんだ!」


祈るように手を合わせていた者たちが、今度は私を指差して罵った。


「どうして! 重しが外れたのか!?」

「聖女様を捧げなければ……村は守ってもらえない……!」

「水神様への冒涜だ!」

「沈めろ、沈めなきゃ!」


(聖女を捧げる? 水神への冒涜?)


誰かが石を投げた。

私の額に当たり、生暖かいものが頬を伝った。


また……なの?


痛みよりも、意外だった。


どうして、沈まないといけないの?


生きたいだけなのに。

家に帰りたいだけなのに。


次々に石が飛んできて、私の身体を打った。

水面に浮かんでいた身体は、痛みに耐えられず、徐々に沈んでいく。


でも、私は見た。

最後に、水面すれすれから。


――父と母。いつも微笑んで私の成長を見守り、誕生日を祝ってくれた父と母。


ふたりの目は、涙で真っ赤に腫れあがっていた。

母はボートから身を乗り出して、「クララ!」と叫びながら水面に手を伸ばしていた。

いくら伸ばしても届かないのに、それでも、私を掴もうとしてた。


そして、見えたのはほんの一瞬だったけれど――

父は、石を投げた人のひとりにつかみかかっていた。

その腕を振り払うように、必死に、何かを叫んでいた。


なのに、間に合わなかった。

石が、次々に飛んできて、最後に大きな石が目に映り……。


ぐしゃり……。


次の瞬間、視界が真っ赤になり、意識も薄れていく。


沈みながら、私は思った。

やっぱり、ここでは生きられないんだ、と。


目の奥で、妹の泣き声が、まだ、響いていた。


そして、思い出した。


村の風習。

水神に村を守ってもらうための生贄。

年に一度、うら若き、清らかな乙女を聖女として水神に捧げる儀式。


そして、今年選ばれたのは――妹だった。


私は――


妹には秘密で、身代わりを申し出た。

まだ私の半分しか生きてない妹が――そんなの耐えられなかったから。


だから、私は死ななければならない。

そう、決めたはずだった。

妹を守るために。


でも――

私は、何度死んでも、こうしてまた水の中に戻ってくる。

何度も、何度でも。


それには、きっと訳がある。


その理由を知らないまま、ただ死に続けるなんて。

それは、嫌だった。


理由があるなら、確かめたい。

どうして私は、生き返ってしまうのか。

なぜ、この苦しみは終わらないのか。


だから私は、もがく。

確かめるまでは――終わるわけにはいかない。


再び、深い水の底から声が聞こえた。


――また、おいで。


そして、また黒い闇に飲み込まれていった。



ぽちゃん。

また、冷たい水の中。


でも、私はもう迷わなかった。

手早く足元の重りを外し、重たい塊が沈むより早く蹴り落とす。


水面へ。

光を目指して、何度目かわからない浮上。


だが、ボートの近くに浮かんではいけない。

そうすれば、また石を投げられて沈められるだけだ。


私は、横へ泳いだ。

装束がまとわりつき、身体は冷たくて重い。

でも、繰り返すうちに、少しは泳ぎが上手くなっていた。


息が続く限り、遠くへ。

少しでも、遠くへ。


水面から顔を出すと、遥か向こうにボートの影が見えた。

怒号と、石が近くに落ちる音。

でも、もう石も、その声も――遠く届かない。


私は、大きく息を吸って、また水を掻く。

遠く、湖の中央には、朽ちた小さな島が見えていた。


目的地はこの島。


そこには、何かがあった気がする。

覚えていないけれど、行かなくちゃいけない気がしていた。


湖の水は冷たく、何度も身体が沈みかけた。

でも、繰り返してきた死のおかげで、私の手足は覚えていた。


こうすれば、前に進む。

こうすれば、沈まずにいられる。


少しずつ、少しずつ島が近づいてくる。

私の身体は限界に近かったけれど、気力だけで前へ進んだ。


ようやく、手が岸に届いた。


指が泥に埋まり、引きずるようにして身体を岸に乗せる。


はぁ、はぁ、と息が漏れる。

肺が焼けるほど苦しかった。


私は這うようにして、島の奥へと進んだ。


そこにあったのは、朽ちた祠だった。

苔むした石の祠。

古い、滅多に人が訪れなくなったような場所。


その前には、ひとつの舞台があった。


薄汚れた木の床。しかし、真ん中のあたりにだけ光沢がある。

ここで誰かが舞ったのだろうか――きっと、生贄の少女が自ら。


だったら、私は、この場所を知っているはず。


そう、確かに、知っている。


その瞬間、聖女の装束を纏って舞う、自分の姿が重なった。


確かに、この場所で水神様に舞いを捧げ――そして小舟に乗った。


私は祠の前で、膝を折った。

冷たい風が吹き抜けた気がした。


そして、私は気づいた――

祠の前、舞台の奥の池の水面に、誰かが立っている。


池の中央、水の上に揺らめく人影。

その姿に、私は――見覚えがある。


そこには、ひとりの青年が立っていた。


まるで、そこが地面であるかのように、微動だにせず、水の上に。


「神……様?」


でも、その姿を、私は知っている気がした。

いつ、どこで、どうして――そこまでは思い出せない。

けれど、彼の佇まいはなぜか懐かしくて、胸を締めつけた。


「あなたは……誰?」


風が吹く。

水面を渡る風の音に混じって、彼の声が届いた。


「僕かい? 僕は水神だよ。愛しい人」


彼のその深い水のような瞳は、流れる水のように揺れていた。


「さっき、君が舞台に現れたときは……正直、僕も驚いてしまったよ」


静かで、寂しげな声だった。


(さっき……。わたしにはずっと前の出来事のよう……。

 それに……愛しい人って……?)


その言葉になぜだか、胸の奥がきゅっとした。

それよりも、この人が神様なら聞きたいことがある。


「なぜ、わたしは死ねないのでしょうか?

 何度でも生き返ってしまうのは、なぜなんでしょうか?」


そう訊いたはずなのに、私の声は掠れていて、彼には届かなかったかもしれない。

それでも、彼はゆっくりと、私の方を見た。


「それは、クララ。君が僕が選んだ”本物の聖女”だからだよ。

 ”本物の聖女”は死なないんだ。

 他の”仮初の聖女”とは違ってね」


「わたしが……神様に選ばれた……”本物の聖女”?」


今は、彼の瞳は深い湖の底のようだった。


その中に、私の姿が映っていた。

嬉しいのか、哀しいのか、わからない顔。


彼は微笑んだ。

とても、悲しい笑顔で。


「君との時間は、僕にとって、大切なものだった。

 君だけが僕を畏れず、まるで一人の人間のように愛してくれたんだ。

 だから、僕は君を、”本物の聖女”に選んだんだ」


その時、わたしは思い出した。

彼のことも、彼との思い出も……。


彼と水辺で出会ったのは偶然だった。

たわいもない話、時に笑って、時に黙って。


ふらりと湖畔を訪れれば、そこにいる不思議な人。


花冠を被せて笑いあったり、光る貝殻を集めたり。

水辺に一緒に腰掛けて、静かに夕陽を眺めたり。


でも、一度、二度、三度――ー何度も逢瀬を重ねるたびに想いが募った。


そしてあの日――


妹が村の”聖女”に選ばれ、私が身代わりを申し出た、あの日のこと。


私は心ここにあらずで、ぼんやりと湖畔に向かった。

不思議と、そこに行けば会える気がして。


もう彼に会えなくなる――それよりも、ただ会いたくて。


そして、彼は本当にいた。

変わらず、静かに私を待っていた。


私は、ただ会いたかっただけなのに――

彼は、ふいに私を抱きしめ、口づけた。


柔らかくて、少しだけ冷たい唇。

胸が跳ねた。どうしていいかわからなくて、でも、なぜだか満たされて。


何も言えなかった。お別れの言葉さえ。


あれが、私の最初で最後の口づけ。

そして、きっと――最初で最後の恋。


――でも、その彼が水神様だったなんて……。


そうだ、私は、あのとき確かに恋をしていた。

たとえ、相手が誰であっても。


思い出すたび、胸の奥がじんと痛くなる。

生まれて初めて感じた、あの淡く、愛おしい気持ち。


「わたし、あなたにお別れを言えなかった……」


けれど、言葉はそこで途切れた。


彼にお別れを言う?

でも、彼が水神で――わたしは生贄。


何を言えばいいのかわからなかった。

だけど、胸の奥が、なぜだか温かく、そして痛かった。


彼は言った。


「もし、それを言ったら、君は、もう戻ってこれなくなるかもしれないよ。

 それでも、いいのかい?」


その声に、私は小さく頷く。


そうだ、もう。

もう、いいんだ。


私は、生きたいと願って、何度も死んで生き返った。

そうやってここまで来た。


けれど――この人に会えたなら、それで。


私の胸に、もう答えは浮かんでいた。


それに、もしわたしが拒否したら、きっと次は妹が……。


「一つだけ。もう生贄の儀式をやめてくださるなら――」


答えは決まってる。


そして、私は自分の瞳が熱く、潤んでいくのを感じながら、

喉の奥から、かすれた声をそっと絞り出した。


震える唇を通して零れた言葉は――


「――わたしを……食べて」


彼の目が、わずかに見開かれた。

けれど、すぐに静かな色に戻る。


「君の願いを叶えよう、愛しい人。本当にいいんだね?」


「うん。もう、いいの。わたし、全てを思い出したから」


彼の声も、表情も、そしてあのときの口づけも――

それらが確かに、私の中にあったのだと信じられる。


それだけで、もう十分だった。


「そうか」


彼は、ぽつりと呟いた。

そして、静かに言った。


「それなら、僕からも一つ約束しよう。

 君の想いは、僕の中で永遠に生きると」


彼の姿が揺らめく。

そして、池の周りを巡るように風が立ち上り、静かに、巨大な龍へと変わっていった。


水面に浮かぶ大きな龍の身体。

うねる身体、広がる鱗。そして大きな口と、並んだ牙。


不思議と怖くなかった。


その瞳だけは、あの青年と同じように優しかったから。


(もう、怖くない。ひと思いに……)


でも、ほんの少しだけ。

もう一度、あの光の中で、父と母と、妹と、笑いたかったな……。


私は、静かに瞼を閉じた。

膝をつき、祈るように両手を胸の前で組む。


ひと粒の涙が頬を伝った。

これで報われる。そう思うと、不思議と穏やかな気持ちになる。


死はもう怖くなかった。

むしろ、これで終わるなら、愛する人の手で終われるなら、幸せだとさえ思った。


そして最後に浮かんだのは――


湖畔での口づけの後、はにかんだように微笑む、私の愛する人。


そう、それはあなた。

目の前にいる、大きな、大きな水神様。


あの一瞬は。私にとっては――永遠だったよ?


私はそっと、瞼を閉じた。

睫毛が微かに震えて、胸の奥がじんと熱くなる。


愛してる。

こんなにも、あなたが愛しい。


愛してます、私の水神様。


そう胸の内で何度も繰り返しながら、

私は静かに、その言葉だけでは足りないほどの想いを確かめた。


「……さようなら、愛しい人……」


龍の口がゆっくりと開かれる。

その巨大な顎が、私を包み込むように近づく。


暗闇が、迫る。

その気配はひんやりと冷たく、真冬の夜風にさらされるようだった。

でも、不思議とそれは優しい闇だった。


まるで、愛する人の胸の中に沈んでいくように。


身体が、池の水ごと暗闇に飲み込まれていく。

優しく、けれど、容赦なく。


そして、全てが、黒に染まった。



ぽちゃん。


水に波紋が立つような感覚――そして意識が浮かび上がる。


――ふわり、と風が頬を撫で、私は思わず胸いっぱいに空気を吸い込んだ。


空気っておいしい……。


そして、まぶたを開けると、

そこには青く澄んだ空があった。


私は、湖のほとりに横たわっていた。


思い出せないけど、さっきまで大変な目に遭っていたような気がして――

でも、いつもの服は乾いているし、冷たさも、痛みも、何もない。


――夢を見ていたのかな?


「お姉ちゃーん、ごはんだよ!」


遠くから、声がした。

小さな女の子が、草を踏みしめて駆けてくる。


「はやくしないと冷めちゃうよ!」


私はゆっくりと身体を起こした。

不思議な気持ちだった。

何か、忘れてはいけないことがあったような、そんな感覚。


「わたし……」


ぽつりと呟く。

そうだ、私は――誰?


「わたしは……誰?」


そう呟いたとき、女の子は目を丸くして笑った。


「なに言ってるの、お姉ちゃん?

 クララお姉ちゃんはクララお姉ちゃんだよ? 変なお姉ちゃん!」


「わたしは……クララ?」


女の子は私の手を掴んで、ぐいぐいと引っ張る。

その手の温もりが、妙に懐かしく感じた。


「ねえ、早く行こうよ!」


「あ……うん」


私は立ち上がり、手を引かれるままに歩き出す。


ふと振り返った。

湖は穏やかで、空の青をそのまま映していた。


その向こう、湖の中央にぽつんと浮かぶ小さな祠。

その前に、ひとりの不思議な青年が立っていた。


白い服、柔らかな髪。

遠すぎて顔は見えない。


でも、その姿に、なぜか胸がきゅっと痛んだ。


彼は私に手を振っていた。


まるで、別れのように。

まるで、またね、のように。


「誰……?」


私が呟いたとき、青年の唇が静かに動いた。


「もう、思い出せないだろう?」


そう言った気がした。

でも、聞こえたかもしれない声も、次の瞬間には風にさらわれていた。


私の手を引く小さな手の温もり。

私は前を向き、歩き出す。


何か大切なものを、失った気がする。

でも、もう思い出せない。


たぶん、家路へと続く道を、私は小さな手を引かれて歩いていく。

村の方から誰かの笑い声が零れ、鳥たちが羽ばたいていった。


そのとき。


――また、おいで。


そんな、なぜだか懐かしく感じる声が聞こえた気がして、ふと振り返った。


あの不思議な人はもういない。


湖は、相変わらず穏やかだった。

風が水面をさらい、きらきらと光っている。


波紋はすぐに消え、

水の底が、どこまでも静かに見えた。


ただ、胸の奥が、ほんの少しだけ、寂しくて。


自然と唇が動き、紡いでいた。


「わたし、きっとまた恋をするのかな」



湖の深い底では、ひとつの影がじっと静かに、うたたねするようにうつぶせていた。


その巨大な影がゆっくりとまぶたを開く。

その目は、大きく、深く、優しい光を湛えていた。


(食べたのは、君の記憶だけ。

 今日までの痛みも、悲しみも、苦しみも、恋い焦がれた気持ちも全部、ね。

 それに、村の儀式も、”聖女”だった娘たちの嘆きも、すべて君の記憶と一緒に――

 まるごと食べて、無かったことにしたよ。ちゃんと約束通りだろ?)


(そういう、過酷で、甘くて、どうしようもなく強い記憶こそが僕の大好物だけど――

 君の記憶はいつだって最高に美しく、甘美な味わいだ。

 そう君は、そんな最高の御馳走を僕のために集めて、そして食べさせてくれるんだ)


彼は姿勢を変えるように少しみじろぎをすると、瞼を半分だけ閉じた。


(クララ、僕の愛しい人。

 また君がその甘美な記憶を胸に、この湖のほとりに立つ日を待っているよ)


(なぜ、何度でも繰り返すのかって?

 簡単だよ。君は僕が愛する、たった一人の本物の”聖女”だからね。

 愛する者の甘美な記憶を喰らう。それ以上の美食を僕は知らない。

 だから、君は僕に永遠に愛されるんだ。

 たとえ寿命が尽きて、生まれ変わってもね)


(だから、君が忘れても、また恋をしよう。

 また君と出会って、また恋に落ちよう。

 それだけが、僕が永遠を生きる理由だから)


(永遠に生きるなんて、退屈なものだからね。

 次の御馳走を楽しみに、少し休むことにしよう)


そして、静かに目を閉じ、満足げに眠りについた。


湖は、今日も静かだ。

記憶を食べ、すべてを水底に沈めながら。


だって、人は恋の痛みも、焦がれた思いも、

忘れるからこそ、また恋をしてしまうのだから。


おしまい。

※最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 実は冒頭のシーン、自分が溺れかけた実体験が元になってます(=^・^=)

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