桜庭メル、カチコむ
賽寶会はペスカトピアに古くから存在しているヤクザだ。
主な収入源は違法賭博の開帳。その手口は非常に巧妙であり、賽寶会が開帳した賭場が治安維持局に摘発されたことは未だかつて1度もない。
治安維持局は違法な賭博場が存在すること自体は認識しているが、具体的な会場の場所は把握できておらず、賽寶会が違法賭博場を開いている物証も見つけられていない。
長きに亘って違法賭博場を取り仕切ってきた賽寶会の手口は、治安維持局の目をほぼ完全に欺くほど巧妙なのだ。
そしてこれまで1度も摘発されていないという実績から、賽寶会が取り仕切る賭博場は往々にして、違法賭博以外の犯罪行為の場として使われることがある。
例えば闇金融。例えば賭博場の客を標的とした詐欺行為。例えば――違法薬物の取引。
それらの副次的な犯罪に、賽寶会は一切関与しない。賽寶会は推奨も抑止もすることなく、自らの賭博場で行われる犯罪を黙認している。
故にカベンの取引が賽寶会の賭博場で行われている可能性は充分にあり、賽寶会がその取引に関与している可能性もまた充分にある。
……というのが、メルがカミノールから聞き出した治安維持局の見解だった。
「わぁ……派手な看板がいっぱい……」
六番通りにやってきたメルは、帽子が風に飛ばされないよう手で押さえながら、口の中で小さく呟いた。
歓楽街である六番通りに軒を連ねるのは大半が酒場や風俗店であるため、七番通りに比べると全体的に看板のデザインが煌びやかだ。
ただ今はまだ日の出ている時間帯なので開いている店はほとんど無く、通りにも人気が少ない。
「これだと着替えてきた意味あんまりないな……」
わざわざ1度帰宅してまで着替えた正体を隠すための深層の令嬢スタイルだが、そもそも人がいないのでは正体を隠すも何もない。
これからメルがやることを考えると人気が無いのはむしろ好都合なのだが、メルとしては適度に人がいてくれた方が嬉しかった。
「えっと……こっちかな?」
メルは六番通りを少し歩くと、すぐに道を逸れて細い路地へと侵入する。
やけに長いその路地を抜けると、そこには六番通りよりも道幅が狭く暗い通りがあった。
その暗い通りをしばらく道なりに歩いたメルは、前方にくすんだ色の屋根が特徴的な大きな建物を発見する。
「あれかな?」
その建物の特徴は、メルの目的地と一致している。
メルはその建物に駆け寄ろうとしたが、自分が今は深層の令嬢を装っていることを思い出し、しずしずと建物に向かって歩いて行く。
ある程度の距離まで近付くと、メルは建物の入口に掲げられている看板の文字を判別できるようになった。
看板にはペスカトピアの文字で、「賽寶会」と書かれている。
「あれだ」
あのくすんだ屋根の建物こそが、メルの目的地である賽寶会の事務所に他ならなかった。
ヤクザの事務所なんぞに一体何の用事が、というと、メルは治安維持局が賽寶会に向けている疑念の真偽を確かめに来たのだ。
即ちカベンはの取引は賽寶会の違法賭博場で行われているのではないか、という疑念である。
「治安維持局はルールを守って捜査しなきゃだから大変だよね~」
治安維持局は賽寶会の違法賭博場開帳の証拠を掴めていないため、「違法賭博場で行われている麻薬の取引」の捜査を行うことはできない。強引に捜査をしようものならどうしても違法捜査になってしまうため、この件に関して治安維持局はまだ動くことができない。
しかし治安維持局の人間ではなく、存在そのものが違法捜査と言っても過言ではないメルであれば、無理矢理賽寶会に突撃して調査をすることも不可能ではない。
当然規則には違反しているが、それはもうメルが勝手に調査をしている時点でそうなので、メルはもう気にしないことにした。
どうせ横紙を破るなら1枚破っても2枚破っても変わらないよね、という理論である。
賽寶会の事務所の前には、見張りの役割を務めているのか、数人の構成員と思しき男がたむろしている。
彼らは全員、地球で言うところのビジネススーツによく似た服装をしていた。
「わぁ……地球もペスカトピアもヤクザの見た目って変わらないんだなぁ……」
妙な感心を覚えながらも、メルはお淑やかに彼らに近付いていく。
「もし。わたくし、チェリーと申します」
「あぁ?」
メルが偽名を名乗りながらカーテシーをすると、構成員達は一斉にメルを威圧する。
「わたくし、こちらの事務所の方にお話があるのですが……」
折角お嬢様らしい服を着ているということで、口調もお嬢様らしいものにしてみるメル。
「……入ってもよろしいでしょうか?」
構成員達は互いに顔を見合わせる。
「おい、誰か何か聞いてるか?」
「何も聞いてないっす」
「俺もっす」
メルの来訪に関して小声で相談を交わす構成員達。
そして最終的に彼らは、メルが正式にアポイントを取ってやってきた来客ではなく、突然事務所に押しかけて来た不審者であると結論付けた。
「ここはお前みたいな世間知らずの嬢ちゃんが来るような場所じゃねぇ。さっさと帰りな」
彼らの中のリーダー格の男が、メルを追い払うように手を振る。
だがこれで大人しく引き下がるようなら、わざわざ素性を隠して事務所前に突撃したりはしない。
「そこを何とか通していただけないでしょうか?」
「おいおい嬢ちゃん、俺らが優しく言ってる内に帰らねぇと怪我するかもしれねぇぜ?」
しばし構成員達と押し問答を繰り広げるメル。
至極当然のことだが、彼らはメルを決して通そうとはしなかった。
「しつけぇな!いいからさっさと帰れよ!」
痺れを切らした構成員の1人が、メルの肩を強く押した。
狩猟者ではないごく普通の女性であれば、確実に転倒してしまうほどの強い力だ。
「……仕方ありませんわね」
次の瞬間、メルを突き飛ばそうとした構成員が膝を折って崩れ落ちる。
「なっ!?」
「何だ!?」
「おい、どうした!?」
突然倒れた仲間に、構成員達に動揺が走る。
メルが素早く繰り出した拳が彼の顎を揺らしたのを、この場の誰もが認識できなかった。
「通していただけないのでしたら、無理矢理通らせていただきますわ」
「っ、てめぇ何しやがった!?」
「ふざけやがって!」
「舐めんじゃねぇぞ!」
ようやく仲間の昏倒がメルの仕業であることに気付いた構成員達が、それぞれ刃物を取り出して一斉にメルへと襲い掛かる。
が、
「失礼いたしますわ」
メルがスカートの裾を軽く持ち上げながらくるりとその場で1回転すると、次の瞬間には構成員達全員が意識を刈り取られていた。
彼らは自分がメルの蹴りを受けたことすら気付けなかっただろう。
「さて、と」
見張りを全員打ち倒したメルは、悠々と事務所の入り口前の階段を上り始める。
すると表の騒ぎを聞きつけたのか、事務所の中から次々とスーツ姿の構成員が飛び出してくる。
「何だお前!?」
「カチコミか?」
「上等じゃやったろうやないけぇ!」
新手の構成員達はメルの姿と倒れている見張り達とを見比べ、混乱する者といきり立つ者とに分かれる。
そしていきり立った側の構成員数名が、刃物を手に先陣を切ってメルに襲い掛かってくる。
「ごめんあそばせ~」
浅いお嬢様ムーブをしながら、メルは迫り来る構成員達を次々と一撃で沈めていく。
「何だあの女強いぞ!?」
「ダメだ俺達じゃ歯が立たたない!」
「おいお前カシラ呼んで来い!」
「は、はい!」
様子を見ていた構成員の内の1人が、カシラという人物を呼びに建物の中へと戻っていく。
そして残りの構成員達はカシラが来るまでの時間を稼ぐために、各々武器を取り出してメルに立ち向かった。
「何人でいらっしゃっても同じことですわ!」
だが構成員が束になって掛かろうと、メルには手も足も出なかった。
5秒と経たずして事務所の前には、気を失った構成員達の山ができ上がった。
「カシラ、こっちです!早く!」
しかし賽寶会にとって、彼らが稼いだ5秒は決して無駄ではなかった。
メルが彼らと戦っている間に、建物へと戻っていた若い構成員が、カシラを連れて戻ってきたのだ。
「……へぇ」
現れたカシラを見て、メルは感心したように小さく声を漏らす。
カシラは20代後半から30代前半と思われる男性で、黒い髪をオールバックに固めている。
一見するとやり手のサラリーマンのような印象を受けるが、纏っている雰囲気が明らかに堅気のそれではない。
そしてカシラがかなりの戦闘能力の持ち主であることを、メルは一目で看破した。
「……これは、これは」
カシラは構成員の山とその横に立つメルとを見比べて、感情の読めない表情で口を開く。
「随分と派手にやってくれたみたいですねぇ、お嬢さん……」
1歩1歩、メルを威圧するようにゆっくりと距離を詰めるカシラ。
「あなたは一体何者ですか?我々と敵対する組の刺客か、或いは我々に恨みを抱く何者か、といったところでしょうか」
「いいえ、そのどちらでもありませんわ。わたくしはただ、賽寶会の皆様にお聞きしたいことがあるだけですの」
「聞きたいこと、ねぇ……それにしては随分手荒なようですが?」
それに関してはメルは何も言い返せない。
相手はヤクザだから多少手荒でもいいかという考えがメルの根底にあったのは、否定しようのない事実だ。
「まあいいでしょう。あなたが目的について素直に口を割るとは、私も思っていません」
「いえ、目的は正直にお話しているのですが……」
「あなたがどこの誰なのか、何の目的があって我々の事務所を襲撃したのか、それはあなたを制圧してからゆっくりお伺いすることにしましょう」
カシラが右手を開くと、そこに鍔の無い日本刀のような形状の武器が出現した。
「賽寶会の顔に泥塗った報いを受けさせてやる、このクソアマが」
「あら、そちらがあなたの本性ですの?」
メルはクスクスとお淑やかな笑みを浮かべながら、眼光鋭くカシラの一挙手一投足に目を配る。
「そちらの口調の方が、あなたのお仕事には合っているのではなくて?」
「……ほざけよクソアマ。<煉血>」
刀を構えたカシラの体から、血のようなオーラが湧き上がる。
「賽寶会若頭、エニス。推して参る」
「わたくしはチェリー。何者でもない、ただのチェリーですわ」
互いに名乗りを(メルは偽名だが)終えたところで、カシラことエニスが地面を蹴る。すると次の瞬間には刀の刃がメルの首の寸前にまで迫っていた。
「あら」
メルは素早く後方転回し、刀を交わすと同時にエニスの顎を蹴り上げる。
「がっ!?」
顎に強い衝撃を受けたエニスは短い悲鳴を上げながらよろめくが、倒れることはなく刀を手放すこともしなかった。
「あら、意外に打たれ強くていらっしゃるのね」
メルとしては今の一撃で決めるつもりだったので、エニスが立っているのは想定外だった。
顎への衝撃でかなり激しく脳が揺らされたはずなのだが、それでも倒れることすらしないのは相当な頑丈さだ。
「魔術で強化なさっているのかしら?」
エニスが先程使った、<煉血>という体に血のようなオーラを纏う魔術。メルはそれをズーロの<鉄鋼躯体>のような身体能力を強化する魔術だと推測した。
魔術によって強化されているのなら、メルの蹴りを耐えたことにも納得がいく。
「ってえ……なんて馬鹿力だ……」
エニスが口から血を吐き出しながら悪態を吐く。メルの蹴りで口の中を切ったらしい。
「あなたは確か、賽寶会の若頭と仰いましたわね?」
「……だったら何だ?」
「でしたらわたくしがお聞きしたいことは、あなたがご存知かもしれませんわ。あなたがわたくしの質問に答えてくださるのなら、私はすぐにでも退散いたしますけれど」
「ふざけたこと抜かしてんじゃねぇぞ!」
メルとしては本心からの提案だったが、それでエニスが激昂するのは当然だ。
賽寶会の構成員が10人以上もメルによって叩きのめされ、自らも顎を蹴り上げられた。これでメルをそのまま帰そうものなら、賽寶会の沽券に係わる。
「てめぇはここまで賽寶会をコケにしたんだ。生きて帰れると思うな!」
エニスが一気にメルとの距離を詰め、頭上目掛けて刀を振り下ろす。
しかしその刀は、メルが右手に持つ牙のナイフによって容易に受け止められた。
「なっ!?いつの間に……」
メルは最初にエニスの攻撃を後方転回で回避した際に、密かに太腿のホルダーから牙のナイフを1本取り出していたのだ。
その手際があまりにも巧みだったため、エニスはこの瞬間までメルが得物を手にしたことに気付けなかった。
「あら?この程度でわたくしを獲れると思いまして?」
「っ、クソが!」
メルの挑発を受け、エニスは刀の連撃を繰り出す。
<煉血>で強化された身体能力から繰り出される剣戟は1秒間に10回以上。加えてその刀身はエニス自身と同じく赤い血のようなオーラを纏っており、剣戟は巨樹を一刀両断できるほどの威力を秘めている。
だがそれらの高速かつ高威力の剣戟の嵐を、メルは牙のナイフで全て捌いて見せた。
「何なんだ……何なんだお前は!?」
メルの戦闘能力に、エニスのメルに向ける感情が徐々に怒りから畏怖へと移り変わっていく。
「……あなたは、かなりお強いですわ」
その言葉は決して嘘ではない。エニスの戦闘能力は少なくともズーロを上回っている。
「ですが、そろそろ終わりにいたしましょう」
「ぐあっ!?」
メルが牙のナイフをエニスの刀に叩きつけると、その衝撃に刀はエニスの手を離れて大きく後方へと吹き飛ばされる。
そして無手となったエニスの喉に、メルの強烈無比なハイキックが情け容赦なく突き刺さった。
「が、はっ……」
常人なら首の骨が折れて命を落としてもおかしくないほどの威力だ。魔法で強化されたエニスの肉体であっても、これを受けて意識を保つことなどできようもない。
そしてエニスが倒れて以降、事務所から新手が飛び出してくることは無かった。恐らく中にはまだ構成員が残っているだろうが、エニスを超える手練れはいないと見ていいだろう。
「さて……いよいよ会長さんにお目見えですわね」
もう周りに意識のある人間はいないというのに、メルは相変わらずの世を忍ぶお嬢様口調だ。
そしてメルはいよいよ、賽寶会の事務所へと足を踏み入れた。
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