桜庭メル、縋りつかれる
その後程なくして、2人の治安維持局員がメル達の下へ駆けつけた。どうやら野次馬達の誰かが呼んできたらしい。
治安維持局員がやってきた時には既にスリの男性は喉から血を流しながら昏倒していたため、下手をすればメルの方が暴行犯として逮捕されてもおかしくはなかった。
だがメルとスリの男性とのやり取りの目撃者が多かったために、メルが誤認逮捕される事態は回避され、スリの男性は暴行未遂と麻薬所持の現行犯で意識を取り戻すや否や連行されていった。
そして軽い事情聴取を経てすぐに解放されたメルとカミノールは、七番通りの脇道にある隠れ家的雰囲気の喫茶店にやってきた。
「災難だったわね、メルさん」
「ホントですよ、もうっ」
メルは憤然としながらジュースに口を付ける。
薬物中毒の男に財布をスられかけたのだ。災難以外の何物でもない。
「ところでカミノールさん。あの男の人が持ってた麻薬のことなんですけど……」
内容が内容だけに、メルは声を潜めた。
店内の客はメル達だけで、店主も今は厨房に籠っているので聞き耳を立てられる心配はあまりないが、それでも念のためだ。
「……あの麻薬は『カベン』と呼ばれているものよ。ここ数年で若年層を中心に広まっていて、治安維持局も対応に追われているわ」
カミノールもメルと同じように声を低くして囁く。
「メルさんも見たと思うけれど、カベンは飴玉に似た形態で取引されているわ。使用する際には飲み物に溶かしたり、砕いて粉末状にして吸引したりするの」
「ああ、使い方は私の知ってる麻薬と同じ感じなんですね……」
「悲しいことにこの街では数種類の麻薬が流通しているけど、カベンはその中でも群を抜いて安価なの。カベン1粒がアマダイト1個と変わらない値段で取引されていることも珍しくないわ」
「え、安っ!?」
アマダイトは地球で言うところのみかんやオレンジに似た柑橘系の果実で、その価格もみかんやオレンジと大差ない。
それと同じ金額で麻薬が取引されているなど、考えるまでも無く異常だ。
「そんなに安かったら誰でも買えちゃうじゃないですか!?」
「ええ。その上カベンは依存性がとても高いわ。誰でも簡単に手を出せて、1度手を出したら2度と抜け出せない、そんな悪夢のような麻薬よ」
聞いているだけで背筋がゾッとするような話である。メルも思わず身震いした。
「カベンを使用すると高揚感や多幸感、幸せな幻覚などが得られるそうよ。ただそれが持続する時間はとても短くて、すぐに感情の不安定化や関節の痛み、被害妄想などの禁断症状が現れるわ」
「それでその禁断症状を解消するために、また麻薬を使うってパターンですね」
麻薬ではお決まりの悪循環だ。
「さっきの男は窃盗の動機について、カベンを買うためのお金が欲しかったと証言しているそうよ」
「果物と変わらない値段なのに、それを買うお金にも困ってたんですか……?」
「それだけ高い頻度でカベンを使用していた、ということなのでしょうね。きっとカベンに夢中で働くことすらできなかったんだわ」
ふぅ、とカミノールが物憂げに溜息を吐く。
「実のところ、狩猟局でも過去に何度かカベンが原因の事件が起きたことがあるのよ。狩猟者がカベンの所持で逮捕されたなんていうのはマシな方で、酷いものだと自分が命を狙われているという被害妄想から狩猟局の中で剣を振り回したなんて事件もあったと聞くわ」
「えっ……それって大丈夫だったんですか?」
「幸い死者は出なかったそうよ。取り押さえようとした何人かの狩猟者が、引退を余儀なくされるほどの重傷を負ったそうだけど」
「うわぁ……」
何とも救いの無い話である。巻き込まれた狩猟者達のことを思うと、メルは胸が痛くなった。
「治安維持局は何とかカベンの流通を阻止しようと手を尽くしているけれど、現状流通経路の影も形も掴めていないそうよ」
「そうなんですね……あの、カミノールさん。1つ聞いていいですか?」
「ええ。何?」
「カミノールさんなんでそんなに麻薬のこと詳しいんですか?」
麻薬に対して正しい知識を持つことは重要だ。麻薬の恐ろしさを知る事は、麻薬から自分を守ることにも繋がる。
ただカミノールの場合、やけに流暢に薬物の知識を諳んじているので、メルは何だか怖くなってきたのだ。
「……えっ、ちょっと待って。まさかメルさん私が薬物中毒者だと思ってる?」
「いやそんなこと思ってないですよ!?そんなこと思ってないですけど……な~んでそんなにカベンの作用とか禁断症状とかのことまで詳しく知ってるのかなぁ……って」
「言っておくけどここまでの話に私の実体験なんて1つも無いわよ!?私がカベンのことを色々知ってるのは、私がただっ……!」
ここでカミノールは自分の声量が必要以上に大きくなっていることに気付き、1度咳払いを挟んでクールダウンする。
「私がカベンについて詳しいのは、私が父から詳しく教わったからよ」
「お父さんから?」
「私の父は治安維持局で働いているの。だから麻薬にも人一倍詳しいのよ」
「お父さん守秘義務とか大丈夫なんですか?」
「……流石に守秘義務に抵触するようなことは教わってないと思うわ」
そう言いつつカミノールは少し不安そうだった。
「まあ何にしても……嫌ですね、麻薬って」
「本当ね」
最後にはそんな一般論で、麻薬に関する話題は締めくくられた。
翌日、メルは昼頃狩猟局にやってきた。
「ああ、メル。こんにちは」
「こんにちはズーロさん」
「珍しいな、この時間に君がいるなんて」
メルが狩猟局に来る時間帯は朝と夕方が多い。こうして昼時に狩猟局にやって来るのは、ズーロの言う通り珍しかった。
「さっきまで治安維持局に行ってて、その帰りにちょっと寄ったんです。ご飯食べようと思って」
「治安維持局というと昨日の件か?」
「えっ、ズーロさん知ってるんですか?」
「自分で言うのもなんだが、これでも情報通なんでな」
「ホントに自分で言うのもなんですね」
昨日のスリの一件で、メルは今日も治安維持局で軽い事情聴取を受けてきたところだった。
一応、スリの件でメルが治安維持局に足を運ぶのはこれで最後になるとのことだ。
「ズーロさんの方はこんな時間にどうしたんですか?」
「俺は単純に仕事帰りだ。今日は早めに切り上げたんでな。メルも昼飯を食いに来たなら一緒にどうだ?」
「ご馳走してくれます?」
「……まあ、構わないが」
「やった1番高いの頼も」
「……いいけどな」
メルとズーロが並んで食堂に向かっていると、入口の方が俄かに騒がしくなった。
「おいあれマグじゃないか……?」
「ああ、本当だ。でも随分やつれたな」
「別人みたいだ……」
そんな囁き声が周囲の狩猟者達から聞こえてくる。
一体何事かとメルが振り返ると、狩猟局に入ってすぐのところに細身の男性が立っていた。
その男性は目の下に濃い隈があり、頬がガリガリにこけている。見るからに不健康そうだ。
「ズーロさん、あの人知ってますか?」
「ん?」
メルに尋ねられて振り返ったズーロは、不健康そうな男性を一目見ると、驚いた様子で僅かに目を見開いた。
「あいつは……マグか?」
「知ってる人ですか?」
「あ、ああ。あいつはマグと言って、それなりに腕のいい狩猟者なんだが、狩猟局に来るのはひと月ぶりくらいか」
「ひと月も来なかったんですか?」
狩猟者は狩猟局への出勤を義務付けられてはいない。
魔物資源を売却するには必ず狩猟局に足を運ぶ必要があるが、逆に言えば魔物を売るのでなければ狩猟局に来る必要は無い。メルだって普通に来ない日もある。
毎日狩猟局に来ている狩猟者など、食生活を狩猟局併設の食堂に完全に依存しているズーロくらいのものだ。
だがそれにしても、1ヶ月もの間全く狩猟局に顔を出さない狩猟者というのは流石に異常だ。
「というか俺の知っているマグは、筋肉が自慢の大男だったんだが……」
「えっ?そうは見えないですけど……」
「ああ、このひと月で随分と様変わりしたな」
マグという狩猟者の痩せこけた体からは、筋肉の気配などまるで感じられない。
「人違いってことは無いんですか?」
「顔を見れば流石に別人とは思えないが……」
あまりにも人相が変わりすぎているため、ズーロも確信が持てていない様子だった。
「なあマグ、マグだよな?」
すると1人の狩猟者が、マグに近付いていく。
「お前最近何やってたんだよ?全然来ないから心配してたんだぞ?」
「……」
「まさかここひと月、1回も狩りに行ってないってことないよな?金は大丈夫なのかよ?」
「……」
熱心に声を掛けるその狩猟者に、マグは一切の反応を返さない。
口を半ばまで開き、虚ろな瞳で狩猟局の中をゆっくりと見回すその姿は、はっきり言って異様だ。
「ズーロさん……あの人、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないかもしれないな……」
他の狩猟者達も徐々にマグの様子のおかしさに気付き始め、狩猟局が俄かに騒がしさを増していく。
だがそんな騒めきもマグは全く意に介することなく、虚ろな視線を彷徨わせている。
「あ」
するとマグの澱んだ瞳が、メルの顔を真っ直ぐに捉えた。
その瞬間、マグは目玉が零れ落ちそうなほど大きく目を見開いた。
「アコレイド様!!」
嗄れた声で叫びながら、マグが一目散にメルに向かって走り始める。
「えっ、えっ?な、何?」
メルが困惑している間に、マグはメルの目の前まで駆け寄ってくると、そこで足をもつれさせた。
転びそうになった勢いそのままに、マグがメルの両足に縋りついてくる。
「ちょ、ちょっと!?」
「アコレイド様!!また俺の前に現れてくれたですね!!俺の前にまだ現れてくれるんですね!!やっぱりあなたは本物の女神様だ!!」
「何言ってるんですか!?ちょっ、離してください……!」
錯乱したように意味の分からない言葉を捲し立てるマグ。その異様さに、メルは咄嗟にマグを蹴り飛ばす判断ができなかった。
「おいマグ、お前何してるんだ!」
メルが動けないでいる間に、ズーロがマグを引き剥がしにかかる。
「うるさい、邪魔をするな!!」
するとマグは腰の剣を引き抜き、何の躊躇も無くズーロを斬りつけた。
「ぐあっ!?」
胴体に剣の一撃を受け、ズーロが後ろによろめく。
幸いズーロは狩猟帰りでまだ鎧を身に着けていたため、傷を負うことは無かった。だがもし鎧が無ければ、ズーロは重症では済まなかっただろう。
「お前っ、何してやがる!?」
「何やってんだマグ!?」
狩猟局内で他の狩猟者を斬りつけるという蛮行に、周囲の狩猟者達が色めき立つ。
だが彼らが動き出すよりも先に、メルの右膝がマグの顔面に突き刺さった。
「いい加減にしてください!」
「がはっ……」
膝蹴りを受けたマグは大きく仰け反ると、盛大に鼻血を噴き出しながら仰向けに倒れ込んだ。
「おい誰か局長呼んで来い!」
「局長よりも先に治安維持局だろ!殺人未遂だぞ!」
マグが鎮圧されたのを切っ掛けに、狩猟者や狩猟局の職員達が慌ただしく動き出す。
狩猟局の中で武器を抜き、他の狩猟者に襲い掛かる。マグのやったことは紛れもなく犯罪行為で、最早狩猟局ではなく治安維持局の領分だ。
「ズーロさん、大丈夫ですか!?」
「ああ、何とかな。マグの筋肉量が落ちていて助かった」
ズーロが何事も無く体を起こしたことで、メルはひとまず胸を撫で下ろした。
「何事だい、騒がしいね」
ここで騒ぎを聞きつけた局長が受付に現れた。
近くにいた狩猟者や職員達が、口々に局長へと事情を説明する。
「局内で剣をぶん回した?どこのどいつだいそんなバカは」
1人の職員に案内されて、局長がメル達の下へとやって来る。
「……こいつはまた面倒だね」
気絶しているマグを見下ろした局長が小さくそう呟くのを、メルは聞き逃さなかった。恐らくメル以外には聞き取れなかっただろう。
「治安維持局にはもう連絡したんだろうね?」
局長がそう尋ねると、職員が何度も首を縦に振る。
「そうかい。それなら小娘」
続いて局長は名前は呼ばずにメルに声を掛けた。
「あんた、今から私の部屋に来な」
読んでいただいてありがとうございます
次回は明後日の18日に更新する予定です