桜庭メル、熊を殺す
「どどどどどどどどどどーしましょう!?異世界転移しちゃった時ってどうすればいいんですか!?」
『落ち着けって』『掘削音みたいな声出してたぞ』
「今からでも入れる保険ってありますか!?」
『ある訳ねぇだろ』
激しい混乱状態に陥るメル。
ドラゴンを目撃し、異世界転移の可能性が浮上したとなれば、混乱するのも無理はない。
『少し落ち着けって』『まだ異世界転移って決まった訳じゃないだろ』
ただメルにとって幸運だったのは、今も配信が続いていることだ。
配信が継続していることで、メルは配信を見ている視聴者とコメント欄を通じて双方向のやり取りができる。
顔も名前も知らない相手とはいえ、ひとりぼっちではないというだけでメルの精神的負担はいくらか軽減されていた。
『さっきのドラゴンってフェイク動画でしょ?』『これって視聴者へのドッキリ?』『メル演技上手いね』
視聴者の中には、この配信がメルの狂言ではないかと疑う者もいる。
「あんなに凄いドラゴンをフェイク動画で作れる編集技術があったら、わざわざ心霊スポット探訪なんて体張った企画でストリーマーやる訳無いじゃないですかぁ……」
『……確かに』『一理あるな』
だが大半の視聴者は、異世界転移を信じる信じないに関わらず、メルに非常に親身になってコメントを書き込んでくれていた。
「メル、これからどうすればいいんでしょう……?」
『とりあえず人の住んでる街を目指した方がいい』
途方に暮れるメルのために、視聴者からアドバイスが書き込まれる。
『異世界転移したんだったら、とにかく現地の人間に会わないと何も始まらないから。さっきドラゴンが飛んでたのを見るにそっちの世界には魔物がいると考えてよさそうだし、魔物がいるならそれを倒して生計を立ててる冒険者みたいな職種の人間もいるかもしれない。そういう人間なら森の中で活動しててもおかしくないから、メルが接触できる可能性はある。でももし運良く人間に会えても、メルが異世界人だってことは簡単には言わない方がいい。異世界人が迫害されてたり問答無用で処刑されてたりする可能性も無くは無いから』
「すっごい詳しい視聴者さんの方がいる……もしかして異世界転移の経験者の方ですか?」
『そんな奴いねぇよ』『異世界転移経験者が視聴者の中にいたら面白過ぎるけどな』『ただの異世界モノが好きなだけのオタクです……』
アドバイスをくれるのがただのオタクでも、今のメルにとっては有難かった。
その助言が的確かどうかはともかく、少なくとも行動の指針にはなる。
「じゃあメルはとりあえず、じっとしないで動いた方がいいってことですか?」
『俺はそう思う』『でも遭難した時ってその場でじっとしておいた方がいいとか聞かない?』『救助が来る見込みがあるならそうだろうけど異世界じゃなぁ……』
メルは視聴者の助言を信じ、森の中を歩き出した。
森の地面は木の根や石で凹凸が激しかったが、かといってメルの歩行が妨げられることは無かった。
「でも……運良く街が見つかったり、こっちの世界の人に会えたりできたらいいですけど……さっきのドラゴンみたいなのに襲われたらどうしましょう?」
『まあ逃げるしかないんじゃない?』『メルさっき100kgくらいある地蔵片手で持ち上げてたしドラゴンに勝てたりしないの?』
「ん~……戦ったこと無いので何とも……」
『まさか勝てないって即答しないとは思わなんだわ』『なんでちょっと自分がドラゴンに勝てる可能性感じてるの?』
不安を紛らわすために、メルは視聴者と雑談しながら森の中を進む。
『ところで異世界転移って言ったらチート能力が付き物だけど、メルはそういうの無いの?』
ここで先程長文のアドバイスを書き込んだ視聴者から、メルへの質問がコメントされた。
「チート能力……?って何ですか?」
『ズルみたいにとんでもなく強い能力のこと。どんな魔法でも使いこなせるとか、どんな攻撃も全く効かないとか、そんな感じの。そういうチート能力を持ってるのが異世界転移モノのお決まりなんだけど、メルもそういう能力手に入ってたりしないかなって』
「そういうのってどうやって分かるんですか?」
『専用の魔法道具みたいなので調べたり、感覚的に理解できたり、それこそそういう能力で調べたりとかかな?』
「そうなんですね~。ん~……少なくとも自分ではチート能力持ってる感じはしませんね~……」
少なくともこの森にやってくる前と後とでは、メルには何かが変わったような自覚は無かった。
「あっ!でも異世界転移してもこうして皆さんとお話しできるのは、ちょっとチート能力じゃないですか?」
『確かにそうかも』『世界が違うのに通信できてるってことだもんな』『でもそれはどっちかって言うとメルのスマホのチート能力なのでは?』
「じゃあメルにとっては皆さんがチート能力ってことですね!」
『嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか』『言うほど嬉しいこと言われてるか……?』『まあ嬉しいこと言われてるような雰囲気はある』
「っ!?」
その時メルは嫌な気配を感じ、素早く背後を振り返った。
するとメルの視線の先から、バキバキと木の枝を踏み潰すような音が聞こえてくる。
「何でしょう……何かが来ます……」
『何かって?』『もしかして第1現地人じゃない?』
「多分人間じゃないです……魔物、かも……」
『じゃあヤバいじゃん』『早く逃げないと』『メルちゃん早く逃げて!』
「いや……もう間に合いません」
直後、腹の底が震えるような咆哮が一帯に響く。
そして木々を薙ぎ倒すようにして、黒い獣が姿を現した。
「く……熊っ!?」
それは巨大な熊だった。体高はメルの身長の2倍以上。ヒグマよりも更に巨大な怪物だ。
熊は鼻息荒く、鋭い牙を剥き出しにしながらメルを見下ろしている。
熊がメルを獲物と認識していることは、火を見るよりも明らかだった。
「えっ……とぉ……」
メルはクマの巨体を見上げて冷や汗を流す。
「視聴者の皆さん、その……森の中で熊に会った時にはどうしたらいいのか、ちょっと教えてもらえませんか?」
『ええ……』『荷が重いよ……』『急にメルの命が俺達のコメントに託されたんだが?』『異世界の熊デカすぎるだろ……』
「死んだフリがいいんでしたっけ……?」
『いや死んだフリは絶対ダメ、ただの迷信だよ』『でも確か逃げてもダメだよな?』『熊の習性的に逃げるものは追いかけるって聞いたことある気がする』『死んだフリもダメ逃げてもダメって割と詰んでない?』
熊に遭遇した時の対処法について、コメント欄で情報が錯綜する。
そんな中、メルはとある1つのコメントに目を留めた。
『熊に遭遇した時、鼻面をぶん殴ったら熊が驚いて逃げてったみたいなエピソード聞いたことある』
「鼻面を……」
それを見たメルは、唇を固く結んで覚悟を決める。
「てやっ」
そしてメルは地面を蹴って跳び上がると、近くに生えている木の幹を足場にしてもう1度跳躍。
2段階のジャンプで5m以上もの高さにまで到達したメルは熊の巨体を見下ろし、
「てやぁっ!!」
熊の鼻面目掛けて、落下の勢いをも利用した強烈な右足の蹴りを叩き込んだ。
『何してんの!?!?!?』『バカバカバカバカ!!』『戦うなんて選択肢あるかよ!?』
熊は名状しがたい悲鳴を上げ、両腕で顔を押さえながら身悶えする。
「さて、こうなった以上もう戦いは避けられませんね」
着地したメルは素早く後退し、悶える熊から距離を取った。
『自分から仕掛けておいて何言ってんだ』『先制攻撃仕掛けた奴の台詞じゃないんだよなぁ』『てかなんだよあの滅茶苦茶な高さのジャンプ』『もうその身体能力がチート能力だろ』
「これは自前です」
メルは近くに落ちていた長さ50cmほどの木の枝を拾う。
「蹴ってみた感じ鼻は弱点みたいですけど、鼻だけを攻撃して倒すのは多分無理です。胴体の方は毛皮の下に筋肉と脂肪がいっぱいあって、そっちを攻撃してもほとんど効かなさそうです」
『なんでそんな冷静に分析できるの?』『戦闘のプロの方?』
「だから狙うなら……目、一択ですよね」
メルが犬歯を覗かせて笑う。
ちょうどその時、激昂した熊がメルに襲い掛かってきた。
丸太のように太い熊の右腕が、メルに向かって振り下ろされる。その一撃は人間の頭など軽くもぎ取ってしまうほどの威力を秘めている。
だがそれは、あくまでも命中すればの話だ。
メルは跳躍して熊の攻撃を回避すると、逆に熊の右腕を足場にして再び2段階の跳躍を披露する。
そして熊の顔の直上に位置を取ったメルは、先程拾った木の枝を両手で構えると、
「てやぁっ!!」
熊の右目に深々と木の枝を突き立てた。
木の枝は眼窩を貫通して頭の奥深くまで突き刺さり、熊は喉がはち切れんばかりの断末魔の悲鳴を上げる。
「ひゃあっ!?」
あまりの断末魔の音量にメルは両耳を手で塞ぎ、熊の顔を蹴って熊から大きく距離を取る。
メルが離れた地面に着地するのと同時に、熊の巨体がぐらりと傾く。
そして地響きを立てながら熊はその場に倒れ、そのままピクリとも動かなくなった。
「ふぅ……勝った」
『何で勝ててんだよ』『人が熊に木の枝で勝つな』『木の枝武器にして魔物と戦うとかRPGの勇者か何かか?』『RPGの勇者でも木の枝じゃ熊にはそうそう勝てないだろ』
熊の討伐に成功したメルは、緊張した体を解すように長い息を吐く。
だが安心したのも束の間、メルは再び何かが近付いてくる気配を感じた。
「また魔物……じゃ、なさそうですね」
メルの耳に微かに聞こえてくる律動的な足音。それは獣ではなく人間のもののように思えた。
「もしかしたら第一異世界人の方かも……?」
『マジ?』『ラッキーじゃん』『でも言葉通じるのかな?』
「……あっ、確かに!」
事ここに至るまで、メルはそのことをまるで考慮していなかった。
もしここが本当に異世界だった場合、この世界の住人がメルと同じ言語を使っている可能性はほぼゼロに等しい。考えてみれば当たり前のことである。
「ど、どうしましょう……異世界転移モノの物語だと、言葉の問題ってどうしてるんですか?」
『異世界転移モノだとまあ、何故か言葉が通じるパターンが大半かな?』
「何故か言葉が通じるパターン!?じゃあもう完全に運じゃないですか!」
メルは両手を組み、自分も何故か言葉が通じるパターンでありますようにと天に祈る。
そしてメルが必死に祈っている間に、遂に足音の主がメルの視界に現れた。
それは紛れもなく人間だった。少なくともメルにはそのように見えた。
性別は男性。年齢は推定30代前半。それなりに整った顔立ち。
首から下には鈍色の鎧を身に着け、腰には全長1m弱の剣を提げている。
『第一異世界人だ!』『中世ヨーロッパの騎士みたい』『え、中世ヨーロッパの騎士ってこんな感じなの?』『知らん、勝手なイメージ』
「あ、えっと……」
メルは現地人と出会えたことには喜びを感じつつも、どのようにコミュニケーションを切り出すべきかが分からず言葉に詰まる。
するとメルが話しかけるのに先んじて、男性がパチパチと拍手を始める。
「見事な戦いぶりだった」
男性の称賛の言葉は、メルにも理解することができた。