桜庭メル、蹴り上げる
「ここは……」
ディラージによってブラックホールのような穴へと引きずり込まれたメルは、気が付くと荒野のような場所に立っていた。
起伏の無い平らな地面が地平線まで続いており、空は不気味な赤色に染まっている。1人で数時間放置されたら発狂してしまいそうな空間だ。
「ようこそ、私の<無間匣>の世界へ」
「っ!」
背後から聞こえた声。振り返るとそこには案の定ディラージの姿があった。
「ディラージさん……ここ、何なんですか?」
「<無間匣>っていう魔法を使って私が作り出した世界よ。といっても何も無くてただ広いだけの異空間なのだけど」
「そんなことまでできるんですか!?」
疑似生命体の創造に加えて、異空間まで作り出せるとなると、ディラージの能力はますます神懸っている。
「ここなら観客のことも狩猟局の建物のことも気にする必要は無いわ。私とあなたが戦うための舞台として、これ以上相応しい場所は無いでしょ?」
そう言って笑うディラージの表情は、まるで遊び相手を見つけた子供のように無邪気だった。
「さあ、メル。この<無間匣>で、心行くまで戦いましょう?」
ディラージの頭上に、再び玉虫色の二十面体が出現する。
「――<万魔殿>」
瞬間、ディラージの周囲から疑似生命体の大群が出現した。
メルが先程戦った、豹の怪物にクラゲの怪物。それ以外にも象に似た巨大な怪物や、翼竜のような空を飛ぶ怪物の姿もある。
出現した怪物の総数は、少なく見積もっても100を優に超える。
「嘘でしょ……」
怪物の軍勢を前に、メルは思わず言葉を失う。
「天寵個体を討伐したあなたなら、これくらいは余裕でしょ?」
怪物達の向こう側から、ディラージの挑発的な声が聞こえてくる。
「当たり前じゃないですか!」
挑発されたら乗らずにいられないのが、桜庭メルという人間である。
最初に動き出したのは豹の怪物達だった。それに少し遅れて空中の翼竜の怪物達が、メル目掛けて急降下を開始する。
「てやっ!」
メルは先頭の豹の怪物へと鋭いアッパーカットを繰り出し、その豹の顎をかち上げると同時に天寵手羅から雷の魔力を発生させる。
そのまま2体3体と豹の魔物を殴り飛ばすと、その衝撃の度にメルの両手に纏う雷の魔力は量を増していく。
「てやぁっ!」
そのタイミングで急降下してきた翼竜がメルの間合いに入ったので、メルは右の拳で翼竜を迎撃する。
メルの拳が翼竜の顔面に叩き込まれると同時に、雷の魔力がビームのように放出され、翼竜の体に大穴を開けた。
「わっ、ビーム出た」
練習の時には見られなかった天寵手羅の挙動に、メルは一瞬ビクッと肩を竦ませる。
その隙にクラゲの怪物がメルへと触手を射出し、同時に1体の豹がメルの背後へと回り込もうとした。
「っと、させませんよ!」
メルは回り込もうとした豹の頭を、左手で鷲掴みにして食い止める。左手を使うと自分でつけた噛み跡が痛むが、痛むだけならメルは大して気にしない。
左手に溜まった雷の魔力が豹を焼き殺す前に、メルはクラゲが射出した触手に向けて豹の体をぶん投げた。
豹は複数の触手に串刺しにされ、そのまま粒子となって消失する。そして豹に刺さったことで触手は威力が減衰し、メルにまでは届かなかった。
「そう簡単に後ろは取らせませんよ!」
一対多数の戦闘において最も警戒すべきは、囲まれて袋叩きにされることだ。
逆に言えば常に正面のみから敵が襲い掛かってくるように立ち回れば、相手が何体いようと大きな不利にはならない。
「てやっ!てやぁっ!」
その後もメルは敵が常に正面から向かってくるように立ち回りながら、着実に軍勢の数を削っていく。幸い豹もクラゲも翼竜もあまり頑丈ではなく、雷の魔力を纏った拳で一撃入れれば確実に葬ることができた。
他の怪物と比べて巨大な体躯を持つ象の怪物は特別耐久力が高いかと思われたが、特にそのようなことも無く象も一撃で始末できている。
「てやああっ!!」
何十体目かの豹の腹へと右拳を叩き込んだ瞬間、蓄積され続けた雷の魔力が一気に炸裂する。
雷の魔力はメルの前方へ放射状に拡散し、数十体もの怪物を纏めて呑み込み消し去った。
そして怪物が一気に数を減らしたことで、怪物の軍勢に守られていたディラージの姿が露わになる。
「ディラージさんっ!」
メルは弾かれたようにディラージに向かって走り出す。
どれだけ怪物を倒したところで、ディラージを倒さない限り怪物は無尽蔵に生み出される。
取り巻きの怪物が激減し、ディラージの姿が露出した今は、この戦いに終止符を打つ絶好の機会だ。
迫り来る敵から主人を守ろうと、雷の魔力を生き延びた怪物達がメルの進路に立ち塞がる。
「邪魔です!」
しかしメルは無造作な左腕の一振りで、怪物達の妨害を蹴散らして見せた。
「<万能障壁>!」
怪物達ではメルを止めることは不可能と悟り、ディラージが防御を展開する。
「ぶち壊してやりまるぅあああああ!!」
高揚のあまり呂律が怪しくなりながらも、メルは自らの拳を渾身の力で<万能結界>へと叩きつけた。
メルの拳と<万能結界>が接触した瞬間、これまでで最大規模の雷の魔力が発生する。
無差別に拡散した雷の魔力は障壁を砕き、近くにいた怪物を焼き払い、更にディラージの頭上に浮かぶ二十面体をも破壊した。
そして二十面体の破壊と同時に、残存していた怪物の軍勢が一斉に跡形も無く消え去った。どうやら二十面体が消滅すると、二十面体から出現した怪物も連動して消失する仕組みらしい。
「あっ、ラッキー」
図らずもディラージ側の戦力を大幅に削ることに成功し、メルは小さく呟く。
だが肝心のディラージには<万能障壁>のせいでほとんどダメージが通っておらず、雷の魔力の余波で僅かな傷を与えたのみだった。
「ふふっ……あはははははははっ!!」
すると突然高笑いを始めるディラージ。
「えっ……ど、どうしました?」
急に笑い出したディラージが怖くなったので、メルは一旦ディラージから距離を取った。
「あはははははっ!!メル、あなた最高!!最っ高よ!!」
ディラージは恍惚とした官能的な表情を浮かべながら、しきりにメルを褒め称える。
「は、はぁ……どうも……」
メルからすれば何を褒められているのか分からず、そもそも何故急にディラージのテンションが上がったのかも分からず、「ディラージさんってクスリやってるのかな……?」と思い始めていた。
「<媚薬体質>も<万能障壁>も、<万魔殿>まで攻略されるなんて!!こんなのいつ以来かしら!?あっはははははははは!!」
「カミノールさぁん……」
怖すぎるあまりカミノールの名前を呟くメルだが、当然カミノールが助けに来ることはない。
「あなたとなら、過去最っ高に愉しく戦えそうだわ……<魔王闘体>!!」
ディラージは<万魔殿>を再展開はせず、代わりに黒みがかった紫色のオーラを全身から立ち昇らせた。
「実は私、殴り合いが1番好きなの!」
ディラージが地面を蹴り、メルとの距離を詰める。その速度はメルに勝るとも劣らない。
「へ~、偶然ですね」
メルはその並外れた動体視力でディラージの動きを正確に捉えながら、ディラージを迎え撃つべく拳を構える。
「私も戦うなら、これが1番分かりやすくて好きですよ」
メルとディラージがほぼ同時に、相手の顔面を狙って拳を繰り出す。
より拳の速度が速いのはメルの方だった。硬く握った拳がディラージの左頬に突き刺さり、その衝撃で天寵手羅から雷の魔力が迸る。
「ぐ、っ……」
顔面で雷の魔力が爆ぜたというのに、ディラージは一切怯まない。
顔の半分を焼かれて尚、ディラージはメルに殴りかかる手を止めない。
「うっ!?」
ディラージの殴打を左腕で防いだメルは、その威力に目を見開いた。
ミシミシと左腕の骨が軋み上げるのを感じながら、メルはディラージの攻撃の威力をどうにか受け流す。
あと少し判断が遅れていたら、メルの左腕の骨は確実に圧し折られていただろう。
「あっはははは!!」
ディラージは恍惚と笑いながら、間髪入れずに2撃目3撃目を繰り出してくる。
その拳が骨を砕くに足る威力を秘めていることを、メルは身を以て知ったばかりだ。メルはディラージの攻撃を「防ぐ」のではなく「弾く」ことに注力しながら、メルの方からも攻撃を仕掛けていく。
キャットファイト、と呼ぶにはあまりにも血生臭い殴り合いの音が、赤い空の荒野に響く。
「あっはははは!!いい!!いいわ!!あなたの拳とっても素敵よ、メル!!」
「何で笑ってるんですか……!?」
殴り合っていてメルが感じたのは、<魔王闘体>という魔法を使ったディラージの、異様なまでの頑丈さだ。
殴り合い始めてからのディラージは、<万能障壁>はおろか通常の防御行動すら取っていない。つまりメルの攻撃とそれに伴う雷の魔力を、ディラージは既に何度もその身に受けているのだ。
にもかかわらずディラージの動きは一向に鈍らない。体中から出血しながら、それでも恍惚とした表情のままメルと戦い続けている。
スピードではメルが勝り、攻撃力も天寵手羅を加味すれば同程度。だが耐久力に関しては、メルはディラージの足元にも及ばない。
そして2人が交わした拳の数が100を超えた頃、とうとう耐久力の低さというメルの弱点が露呈してしまった。
「ぐぅぅっ!?」
ディラージの拳を弾いた左腕から、ミシッと嫌な感触が伝わってくる。
攻撃の威力を捌き切ることができず、骨が折れてしまった。
メルが防御に失敗したのではない。ディラージの戦闘技術が優れているのだ。
メルが痛みに顔を顰める暇も無く、ディラージは立て続けに攻撃を繰り出してくる。
体勢を崩していたメルは防御も回避も間に合わず、ディラージの拳が胸のど真ん中、心臓の直上に突き刺さる。
「かは、っ……!?」
衝撃で肋骨が砕け、更に心臓が一瞬停止する。
それでもメルの心臓はすぐに鼓動を再開したが、その隙にディラージはメルの腹部や右肩にも重い拳を次々と叩き込んだ。
「がふっ!?」
激しく吐血するメル。腹部への打撃によって、内臓が損傷した可能性がある。
加えて右肩を破壊されてしまったため、メルは両腕が動かなくなってしまった。
「あら……」
満身創痍のメルを見て、ディラージが寂しそうな表情を浮かべる。
「もっともっと愉しみたかったのだけれど……残念ね」
その言葉は決して嘲りや挑発などではなく、ディラージが心の底から残念がっていることがメルには分かった。
「そう、ですね……そろそろ、終わり、ですね……がふっ!」
メルが言葉を発する度に、喉の奥から血が込み上げてくる。
未だに倒れることなく2本の足で立つことができているのが不思議なほどの重傷だ。
「恥じることは無いわ、メル。あなたはこのディラージ相手に、ペスカトピアの最強を相手にこれ以上無いほど善く戦った。断言してあげる、私が戦った中で、最高の相手はあなたよ」
ディラージはメルを称賛する言葉を並べながら、1歩1歩メルとの距離を詰める。
これ以上は戦えないメルに、名誉ある引導を渡すために。
「……勘違いしてますよ、ディラージさん」
だが。
「この戦いが終わるのは……」
これ以上戦えないというのは、あくまでもディラージの主観に過ぎない。
「私が勝つ時です!!」
「え……」
瞬間、ディラージの顔を下方向からの強い衝撃が襲う。
蹴られた、とディラージが認識した時には、既に顎を強く揺らされたことによる脳震盪がディラージを襲っていた。
不意討ちのサマーソルトキックを完全に決めたメルは華麗に着地。
そしてディラージが脳震盪から復帰するよりも先に再び地面を蹴って跳び上がると、
「てやぁっ!」
ディラージの側頭部に、強烈な跳び後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
「が、っ……」
2度に亘る頭部への強烈なキックによって、ディラージのルビーのような目がぐるりと裏返る。
「私、ホントはキックの方が好きなんです。だってパンチよりもキックの方が可愛いでしょ?」
「何よ……その……理由……」
その言葉を最後に、ディラージは意識を失った。
「ふぅ……」
メルは全身を弛緩させる。
ここまで天寵手羅のみで戦い、最も得意な蹴りをディラージに意識させなかったメルの作戦勝ちだ。
「っ、がふっ!?」
だが緊張が解けたのも束の間、何度目かの吐血と共にメルはその場に崩れ落ちる。
重症の体で無理な動きをした反動で、メルの意識は急速に薄れかけていた。
一方、術者であるディラージが昏倒したことで、<無間匣>の魔法で作り出された異空間も、徐々に崩壊を始めていた。
ジグソーパズルのピースが剥がれ落ちるように、異空間の赤い空がボロボロと剥離していく。
「おおおおおおおおおおおおっ!!」
そして周囲の光景が狩猟局の光景に戻ると同時に、メルの耳を大歓声が衝いた。
「メルちゃん戻って来たぞ!」
「ディラージさんもいる!」
「あれ!?ディラージさん気絶してないか!?」
「メルちゃんは倒れてないぞ!」
「ってことは……メルちゃんが勝ったのか!?」
「メルちゃんがディラージさんを倒した!?」
「戴冠者だぞ……!?」
「戴冠者が……負けた……?」
ディラージが倒れているのに対し、メルは膝をついてこそいるものの倒れてはいない。
<無間匣>の中で行われた戦いを知らない観客達は、舞台上の両者を見てあれこれと憶測を交わしている。
「あ……」
そこでメルの肉体が限界を迎え、意識を失い倒れ込む。
「メルさんっ!?」
それを見たカミノールが周囲の制止を振り切って舞台に上がり、メルの側へと駆け寄った。
「このバカども……模擬戦で殺しは無しって最低限のルールも守れないのかい」
審判を務めていた局長は、明らかに模擬戦の範疇を逸脱した重傷を負っているメルとディラージを見下ろし、呆れたように溜息を吐く。
「それに<無間匣>で戦ったりしたら、審判がいる意味がまるで無いじゃないか。何を考えてるんだいこのバカ娘」
そう言って局長は意識の無いディラージを軽く足で小突いた。
「まあ、こうなっちまったもんは仕方ないね……そこまで!この勝負、引き分け!」
局長が雑にそう宣言すると同時に、闘技場がより一層の大歓声に包まれた。
「引き分け!?」
「ディラージさん相手に引き分けたのか!?」
「嘘だろメルちゃん……」
「戴冠者だぞ!?」
「てかメルちゃんの方が後に倒れたから、引き分けじゃなくてメルちゃんの勝ちじゃね?」
「何だお前、局長の判定に文句あんのか!?」
「でももし本当に、メルちゃんがディラージさんに勝ってたんだとしたら……」
「……戴冠者が負けた、ってことになるよな?」
メルとディラージの模擬戦は、狩猟局に大きな波紋をもたらした。
いや、波紋は狩猟局に留まらない。
ペスカトピア最高戦力の1人である戴冠者ディラージ。そのディラージ相手に引き分けたメルという存在は、否が応でもペスカトピア中の人間が知ることになる。
「メルさん!?返事をして、メルさん!」
「あんまり揺するんじゃないよ小娘。その小娘は眠ってるだけさね」
だが当のメルは今後のことなど露知らず、カミノールの膝の上で安らかに眠りこけていた。
読んでいただいてありがとうございます
次回は明後日の4日に更新する予定です