桜庭メル、誘惑される
「なぁこれ何の騒ぎ?」
「なんかディラージさんとメルちゃんが戦うらしいぞ」
「マジで!?メルちゃんって天寵個体討伐した子だよな!?」
「どうしてそんな流れに……?」
「知らないけどこれは見逃せねぇな!」
メルとディラージとの模擬戦を聞きつけた狩猟者達によって、闘技場の観客席は瞬く間に超満員となった。
「暇人が多いのねぇ」
観客席を見回し、ディラージが一言そう零す。
「それだけディラージさんが人気ってことじゃないですか?」
「あらぁ?お世辞が上手いじゃない」
メルの褒め言葉に、ディラージは満更でもない様子だった。
「あんたが模擬戦をやりたがるなんて珍しいじゃないか」
闘技場の舞台の脇に、局長が現れる。
「それも相手がこの小娘たぁ……新人潰しかい?」
「人聞きが悪いわね。私は天寵個体を討伐した新人の実力に興味があるだけよ」
「そうかい。まあ何でもいいが、あくまでも模擬戦ってことを忘れるんじゃないよ。殺しは禁止だからね」
「分かってるわよ。バカにしないで」
「小娘の方も、殺しはするんじゃないよ」
「分かってますよ~」
「ふん、分かってるならいいさ。ところであんた達、武器はどうするつもりだい?」
「武器?」
そう言われてメルは、ディラージが武器を携えていないことに気が付いた。
これまでメルが模擬戦で戦った相手はズーロとカミノールの2人だが、2人とも模擬戦の際には模擬戦用に刃を潰した剣を使用していた。
「ディラージさん、武器は使わないんですか?」
「私の武器はこれよ」
メルの質問に、ディラージは得意気に左手の薬指に嵌っている指輪を掲げる。
指輪には小さな宝石がいくつも散りばめられ、非常に精緻な細工が施されている。一目見て高級品と分かる代物だ。
「結婚指輪ですか?」
「違うわよ何言ってるの。この指輪には装着者の魔法の発動を補助する機能があるの」
ディラージはそう言ってから、局長の方へ顔を向ける。
「直接殺傷能力のある武器じゃなかったら、模擬戦でも使っていいのよね?」
「試験の時でなければ構わないさね」
「そういう訳だから、私はこれを使わせてもらうわ。メルは武器は使わないの?」
「私は大丈夫です。素手が得意ですから」
メルは素手での戦闘能力をアピールするように、右手の拳を左手に当てる。
それに対しディラージは首を傾げた。
「拳闘士でも使える武器はあるじゃない。拳鍔とか」
「でも模擬戦用のそういう武器、ここは置いてないじゃないですか」
「模擬戦用のじゃなくても、あなたが持ってる武器があるならそれ使っていいわよ」
「えっ?でも危ないですよ?」
一応天寵手羅を持ってきているメルだが、それを人間相手に使うと殺してしまう恐れがある。
だがディラージはメルのそんな懸念を見抜いた上で、不敵に笑って見せた。
「私を誰だと思っているの?あなたが武器を使ったところで、私の命が脅かされることなんてありえないわ。いいわよね、局長?」
「まあ、対戦相手のあんたがいいっていうなら、あたしからは特に何も言わないさね」
「そういう訳だから、武器を持ってるなら使っていいわよ」
「ホントですか?じゃあお言葉に甘えて……」
メルはいそいそと天寵手羅を取り出し、両手に装着した。
実を言うと、睡眠時間を削ってまで練習した天寵手羅を、実戦で使ってみたくてうずうずしていたのだ。
「審判はあたしがやらせてもらうよ」
局長がそう言って舞台の側に移動する。
「メルさん……」
観客席の最前列では、カミノールがメルに心配そうな視線を向けている。その視線はまるでプロボクサーの息子の試合を見守る母親のようだ。
メルが手を振ると、カミノールも小さく手を振り返した。
「それじゃあ……始め!」
局長の戦闘開始の合図と同時に、メルは握り締めた両手を強く打ち合わせた。
するとその衝撃で天寵手羅から雷の魔力が迸り、メルは左右の拳に雷を纏う。
「へぇ、天寵個体の素材を使った武器という訳ね」
「あっ、分かります?」
「ええ。雷の魔力なんて、今の魔法技術では天寵個体由来の素材でしか実現できないもの」
ディラージは両手に雷を纏ったメルの姿を、興味深そうに眺めている。
「珍しいものを見せてもらったお礼に、私からも1つ見せてあげるわ」
そう言ってディラージは左手の親指と人差し指と中指を、「フレミングの左手の法則」のような形に伸ばし、それを顔に押し当てた。
どことなく中二病的な雰囲気を感じるポーズだ。
「私の家系には、悪魔の血が流れていると言われているの」
「悪魔の血?」
「もっともそれ自体は単なる根拠の無い噂に過ぎないわ。ただ……悪魔の末裔と噂されるような能力が私の家系に備わっているのは、紛れもない事実よ」
ディラージのルビーのような瞳が妖しく輝き、同時に美しい金髪の隙間から、悪魔のような一対の洞角が出現した。
「……<媚薬体質>」
ディラージが凛とした声で宣言すると同時に、ディラージの体からメルへと風が吹き始めた。
風によって運ばれてきた甘い香りがメルの鼻腔をくすぐった瞬間、メルはぐらりと眩暈のような感覚に襲われた。
「っ、これ、は……」
鼻に感じる香りには覚えがある。カミノールからあまり嗅がない方がいいと忠告された、ディラージの体臭だ。
だがメルが今感じているその香りは、これまでのディラージから感じたものとは比べ物にならない程濃厚で魅力的だ。
「私の家系は代々、他者を魅了することに長けた固有の魔法を宿しているの。それが<媚薬体質>。魅了する方法は顔だったり声だったりと様々だけれど、私の場合は体から放たれるこの香り」
「ぐっ、う……」
<媚薬体質>という魔法のせいか、メルにはディラージの声が先程よりもずっと魅力的に聞こえる。
生物としての最も根源的な欲求を、無理矢理引きずり出されているような感覚だった。
「普段は抑えている私の<媚薬体質>は、この角の出現と同時に完全に開放される。角を出した私の香りを少しでも嗅いだ魔物は、私を害することなんて未来永劫考えられないほど完璧に魅了されるわ」
滔々と自らの手の内を明かしながら、ディラージはメルに挑発的な笑みを向ける。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
メルの呼吸が自然と荒くなる。
体が火照り、まるで血液が沸騰しているかのようだ。
「この<媚薬体質>を乗り越えられなければ、私との戦いの舞台に上がることすらできないわ。果たしてあなたに乗り越えられるかしら、メル?」
「当たり前、じゃ、ないですか……」
額に脂汗を浮かべ、意識が朦朧としながらも、メルは犬歯を剝き出しにして笑う。
「私、知ってるんです……精神攻撃に対抗するには……!」
メルはブラウスの左腕の袖を捲ると、自らの手首に思い切り歯を突き立てた。
歯は皮膚を突き破って腕に刺さり、迸った血がメルの口元を赤く染める。
「メルさん!?」
その様子を目の当たりにした観客席のカミノールが悲鳴を上げた。
「ぷはっ、スッキリした」
メルが腕から口を離すと、<媚薬体質>による影響はほとんど消失していた。
「ほらね?精神攻撃には自傷行為で対処するのが鉄板なんですよ」
「どこの世界の鉄板よ、それ……」
メルの突然の自傷行為には、さしものディラージも困惑を隠せない。
「さて、と。これで私はディラージさんとの戦いの舞台に上がれた、ってことですよね?」
「え、ええ、そうね。流石は天寵個体を討伐しただけのことはあるわ」
流石は戴冠者というべきか、ディラージはすぐに困惑を隠して女王然とした振る舞いを取り戻す。
「<媚薬体質>を乗り越えたご褒美に、あなたには私の本当の戦い方を見せてあげる」
ディラージの左手の薬指に嵌められた指輪が、淡い薄紫色の光を放つ。
同時にディラージの頭上に、玉虫色の二十面体が出現した。
「<万魔殿>」
次の瞬間二十面体から、灰色の豹のような生物が飛び出してきた。
「は!?」
突然の豹にメルが驚いている間に、豹は舞台上を素早く駆け抜けて一気にメルへと迫る。
顎を大きく開いて食らいつこうとする豹に対し、メルは反射的に右の拳を繰り出す。
拳が豹の顔面に叩き込まれた際の衝撃によって雷の魔力が放出され、豹の頭部は瞬時に消し飛ぶ。
絶命した豹は、そのまま無数の灰色の粒子となって消失した。
「ふぅん、やるじゃない」
感心するディラージの頭上では、二十面体から次々と灰色の豹が生み出されている。
「ちょっ、何なんですかその魔法!?」
次から次へと襲い来る豹の群れを迎撃しながら、メルは悲鳴じみた質問をディラージに投げ掛ける。
「私が思い描いた疑似生命体を、思いのままに生み出す魔法。それが<万魔殿>よ」
「何ですかその神様みたいな魔法!?」
疑似とはいえ生物を思いのままにポンポン生み出すことができるのであれば、それはまさしく神の所業だ。
「戴冠者だもの。神業の1つや2つ、できて当然でしょ?」
「そんなにハードル高いんですか戴冠者って!?」
「想像を自在に形にできるから、こんなものも生み出せるわよ!」
二十面体から灰色の豹の出現が止まり、代わりに飛び出してきたのは豹と同じ色合いの触手の塊のような怪物だった。
その怪物は地球の生物で例えると、強いて言えばクラゲに近い。だが無数の触手をうねらせるその動きは、並大抵のクラゲよりも遥かに気持ち悪い。
「うわぁ……」
触手の動きに生理的な嫌悪感を覚え、メルは顔を顰める。
クラゲの怪物はメルに向かって触手を伸ばす。触手の速度からすると、「伸ばす」というよりも「射出する」という表現の方が適切かもしれない。
「触らないでくださいっ!」
見るだけで嫌悪感を覚える触手だ、触れられるなど以ての外である。
メルは触手を雷の魔力で焼き尽くそうと拳を構え……直後に考えを改め、触手に対して攻撃を加えることなく前に進み出た。
触手の僅かな隙間を縫い、触手を足場にしながらメルは前進し、目にも留まらぬ速さでディラージの下へと距離を詰める。
「……っ!?」
ディラージが気付いた時には、メルは既にディラージに手が届く距離にまで接近していた。
複雑に動く8本の長い触手を、メルは逆にディラージの不意を突いて接近するための目くらましとして利用したのだ。
「てやぁっ!」
メルが繰り出した拳が、ディラージの美しい顔面へと迫る。
「<万能障壁>!」
それに対しディラージは、メルと自分との間に魔法の障壁を展開した。
メルの拳は障壁に激突し、その衝撃によって凄まじい威力の雷の魔力が放出される。
雷の魔力によって障壁は粉々に粉砕され、その余波によってクラゲの怪物が焼き尽くされる。クラゲの怪物は粒子となって霧散した。
たが、メルの拳はディラージには届かなかった。
「っ、惜しい……!」
「やるじゃない、っ!」
障壁が展開されるのがあと一瞬遅ければ、メルの拳はディラージに届いていただろう。
だがディラージはその事実に怯えることなく、むしろ高揚したような笑顔を浮かべる。
「<万能障壁>を使わされたのなんていつ以来かしら!?メル、あなた素晴らしいわ!」
「それはどうも」
メルは冷静に一旦ディラージから距離を取ろうと地面を蹴る。
だがメルがバックステップをするよりも先に、ディラージがメルの右腕を掴んだ。
「えっ……」
「あなたとの戦いを愉しむには、この舞台じゃ狭すぎるわ」
ディラージの背後に、直径2mほどのブラックホールを思わせる黒い穴が出現する。
「さあ、心行くまでやり合いましょう」
ディラージはメルの腕を引きながら、黒い穴に向かって背中から倒れ込む。
「あ……」
不意を突かれたメルは抵抗することもできず、ディラージによって穴の中へと引きずり込まれていく。
「メルさんっ!」
カミノールの目の前で、メルの姿が穴の中へと消えていく。
そしてメルを呑み込むと同時に穴そのものも消失し、後には誰もいない舞台だけが残った。
拳鍔はメリケンサックの別名だそうです
読んでいただいてありがとうございます
次回は明後日の2日に更新します