桜庭メル、駆け抜ける
「雨も止んで風邪も治ってよかった~!」
翌日。ペスカトピアの空は昨日の豪雨が嘘のように青く晴れ渡り、メルの体調も昨晩風邪気味だったのは夢だったのではないかと思うほど万全だった。
燦燦と照り付ける陽光の下、メルはペスカトピアの街を歩く。
メルの目的地は隔壁の門、その先にある未踏領域だ。
一昨日の狩りで既に狩猟局職員の給料3ヶ月分に相当する金額を稼いだメルだが、金はいくらあっても困ることはない。今日もまた稼げるだけ稼ぐつもりだった。
「あれ?」
門までやってきたメルは、そこに10人ほどの集団を発見する。
全員が鎧を身に着けて武装していることから、それが狩猟者の集団であることが分かる。
そしてその集団の中に、メルは見知った顔を2人発見した。
「ズーロさんにカミノールさん。おはようございます」
「ああ、おはよう」
「おはよう、メルさん」
メルは集団に駆け寄り、ズーロとカミノールと挨拶を交わす。
「何かあったんですか?」
ズーロもカミノールも他の狩猟者達も、どことなく緊張した面持ちだった。
何かトラブルでもあったのかと思いメルが尋ねると、ズーロは首を横に振る。
「いや、そういう訳じゃない。今朝狩猟局で緊急の依頼があってな。有志で未踏領域の調査を行うことになったんだ」
「調査?」
「昨日の雷雨で天寵個体が発生していないか、それを調査するのよ」
「あ~、そういうことですか」
魔物に雷が落ちると、天寵個体と呼ばれる非常に強力な魔物になる。メルも昨日説明を受けたばかりだ。
「メルは狩りに行くのか?」
「そのつもりでしたけど……調査の邪魔になりますか?」
「いや、そんなことはない。俺達以外の狩猟者は普通に狩りに行っているしな。ただ不自然な燃え跡とかを発見した場合は、天寵個体の兆候として門の守衛所か狩猟局に報告してくれ」
「分かりました。じゃあ私、お先に失礼しますね」
ズーロ達調査団は守衛所で何かの手続きがある様子だったので、メルは一足先に門をくぐって未踏領域へと踏み入れる。
未踏領域内に整備された石畳の道、狩猟者道を軽快に走り、メルはみるみるペスカトピアから遠ざかっていく。
「……人間ってのは魔法も無しにあんな速度が出せるものなのか?」
「むしろメルさんが人間であることを疑うべきでは……?」
ズーロとカミノールは、メルの背中を遠い目で見送った。
「さて、と……」
ある程度街から離れたところで、メルは狩猟者道から森へ入り、そこでスマホを起動して配信を開始した。
「皆さんこんにちは、異世界系ストリーマーの桜庭メルで~す」
『メルちゃんこんにちは!!』『風邪大丈夫?』『元気そうでよかった』
「風邪ならすっかりよくなりましたよ~。ほらっ!」
メルは元気になったことを視聴者にアピールするために、近くに生えていた木の幹を駆け上がる。
そして地面から5mほどの高さの太い枝に腰掛け、メルはカメラに笑顔を向けた。
「ね?」
『ね?じゃねぇよ』『誰がそこまでしろと』『当たり前みたいに地面からほぼ垂直の面を走るのやめてくれよ』
「よっ、と」
『そんな高さから当たり前みたいに飛び降りるな』
地面に華麗に着地したメルは、手櫛で軽く髪を整えてから本題に入る。
「今日もまた狩猟者のお仕事をしようと思うので、その様子を配信しま~す。一昨日と同じような内容になっちゃうとは思うんですけど、よかったら見て行ってくださ~い」
『見る!!!!!!』『全肯定さんは今日も元気だなぁ』
「じゃあ早速魔物探しますね~」
メルは瞑想するように目を閉じ、魔物の所在を聴覚で探る。
「ん~……あっちの方にブラシオン、猿の魔物が2匹か3匹いそうな感じがしますね」
『耳が良すぎるのはもういいとして、なんで魔物の種類と数まで分かるの?』
「ブラシオンが2匹か3匹いそうな感じの音がしてるからです」
『うん、分からん!』『2匹か3匹いそうな感じの音……?』『耳にセンサーでも積んでるんか?』
メルは一昨日の狩猟を経て、いくつかの魔物を聴覚だけで判別できるようになっていた。
魔物は体格や生態によってそれぞれ特有の生活音のようなものを立てるので、メルにはそれが区別できるのだ。
「早速行ってみましょう!」
メルが音の聞こえた方向に向かうと、そこには確かに2匹のブラシオンの姿があった。
「ほら、いましたよ!」
『マジでいるじゃん……』『耳良すぎてちょっとキモいわ』『メルちゃんがキモい訳ないでしょ!!!!!!』『やべ全肯定さんがキレた』『鎮まりたまへ』
ブラシオンはメルに気付くなり歯を剥き出しにして威嚇し、魔法で生み出した石礫をメルへと投擲する。
「てやっ!」
メルは石礫を躱しながら右の太腿のナイフホルダーからナイフを取り出し、メルから見て右のブラシオンへと投擲。
ナイフは吸い込まれるようにブラシオンの左目へ深々と突き刺さった。
断末魔を上げたブラシオンの体がぐらりと傾き、枝から落下する。
片割れが狩られたことで、もう片方のブラシオンは激昂した。
「もう1本買っておいてよかった~」
メルは左の太腿のナイフホルダーからもう1本の取り出す。
これは昨日狩猟局に報酬を受け取りに行った後で、カミノールの絵札と一緒に購入したものだ。
「てやっ!」
残ったブラシオンが行動を起こすよりも先に、メルは2本目のナイフを投擲する。
真っ直ぐに空気中を突き進んだナイフは、寸分違わずにブラシオンの左目を貫いた。
「よし、終わりです」
『早いって』『作業みたいに仕留めるじゃん』『作業配信か?』
メルは地面に落ちた2体のブラシオンの死体に近付き、ナイフを回収してから死体を貯蔵札に収納する。
「さて、あと8体ですね~」
次なる獲物を探そうとメルが耳を澄ませたその時。
「……ぁぁぁぁぁ」
メルの鋭敏な聴覚は、人間の悲鳴のような音を捉えた。
「っ!」
メルは反射的に悲鳴の聞こえた方向へと走り出す。
『どうした?』『何かあった?』
「悲鳴みたいなのが聞こえたんです。もしかしたら……」
悲鳴の主が魔物に返り討ちにされた狩猟者のものならまだいい。まだ生きていたら助けに入り、もう死んでいたら遺品を回収して冥福を祈れば済む話だ。
ただメルが引っ掛かったのは、その悲鳴がズーロのもののように聞こえたことだ。
いくらメルの聴覚でも、微かに聞こえた悲鳴らしき声だけで個人を判別することは難しい。故に悲鳴の主がズーロというのはメルにも確証が持てない。
だが仮に本当に悲鳴の主がズーロだった場合、事態はかなり深刻であることが予測される。
ズーロは狩猟局で5本の指に入る実力者。加えて今日は天寵個体が発生していないかを調査するために10人程度の集団で行動している。
そんなズーロが悲鳴を上げたのだとすれば、ズーロやカミノールを含む腕利きの狩猟者集団でも対処できないような事態が発生したということ。
即ち、
「……天寵個体?」
狩猟局が想定した最悪の事態の発生が考えられる。
『テンチョウコタイって何?』『店長がどうかしたの』『関係ないけどバイト先のクソ店長思い出して腹立ってきた』
メルの呟きを耳聡く拾った視聴者達が次々とコメントを書き込む。
「天寵個体っていうのは雷が落ちた魔物のことで、すごく強くて危険だそうです。昨日は雷雨だったので、ズーロさんとかカミノールさんとかが森に天寵個体がいないか調査してるはずなんですけど……」
メルは視聴者達に事情を説明しながら、足を止めずに走り続ける。
メルの耳には今も断続的に悲鳴や呻き声が届いている。それらの声はメルが聞いた限りでは複数人分のものであり、声の主がある程度多人数で行動していることが分かった。
「きゃあっ!?」
メルの耳にまた新たな悲鳴が聞こえる。
「カミノールさん!?」
先程よりも距離が近付いたことで、メルはその悲鳴をはっきりと聞き取ることができた。
それは紛れもなくカミノールの悲鳴に違いなかった。
これで調査団に何かトラブルが起きたのはほぼ確定的だ。
「っ!」
メルは森から狩猟者道に出ると、整備された石畳の上を全速力で走る。
程なくしてメルの前方数百m先に、巨大な影が見えてきた。
「何あれ……ゴリラ……!?」
それはメルには巨大なゴリラのように見えた。
ゴリラの体長は5m近く、地球の熊より大きいウルサージよりも更に巨大だ。それが並大抵の魔物でないことは一目で分かる。
ゴリラの周囲には10人前後の狩猟者が死屍累々と言った様子で倒れている。彼らの武器や鎧は派手に損傷しており、彼ら自身も生死ははっきりとしない。
倒れている狩猟者の中には、ズーロの姿もあった。
そんな中で唯一未だ倒れずに巨大ゴリラと対峙しているのがカミノールだ。
だがカミノールも身に着けている鎧はボロボロになり、体中から血を流し、立っているだけでやっとの様子だ。
剣の切っ先をゴリラに向けてはいるものの、その剣を振るうだけの力が残っているのかも怪しい。
そんなカミノールを叩き潰そうと、ゴリラは丸太を束ねたかと思うほど太い両腕を振り上げた。
「カミノールさんっ!!」
メルは咄嗟にナイフを投擲。
ダーツの矢のように空気中を猛スピードで突き進んだナイフは、そのまま見事ゴリラの左目に突き刺さった。
ゴリラは左目を潰された苦痛にのたうち、空気がビリビリと震えるような悲鳴の咆哮を上げる。
「大丈夫ですかカミノールさん!?」
ゴリラが悶えている隙にメルはカミノールの下に駆け寄り、満身創痍のカミノールを支えた。
「メル、さん……?」
「大丈夫ですか!?」
「ええ……」
メルの顔を見たことで緊張の糸が切れたのか、カミノールがその場にくずおれる。
「あのゴリラ、もしかして天寵個体ですか?」
「ええ……ブラシオンの天寵個体だと思うわ……」
「ブラシオン!?あれが!?」
メルは改めてゴリラに視線を向ける。
目の前のゴリラもブラシオンも猿の魔物という点は共通している。
だがブラシオンは人間より少し小さい、チンパンジーに似た魔物だ。こんな縮尺を誤ったような巨大ゴリラとは似ても似つかない。
天寵個体となった魔物は体格が成長するというのはメルも聞いていたが、まさかこれほどの変化が生じるとは思っていなかった。
「メルさん、逃げて……」
カミノールがメルの腕の中で訴える。
「あの天寵ブラシオンは調査団を一瞬で壊滅させた。きっとメルさんでも敵わないわ……」
ピクッ、とメルの眉が動く。
「メルさんは逃げて……天寵ブラシオンの発生を街へ伝えて……」
「……申し訳ないですけど、お断りします」
メルは天寵ブラシオンからカミノールを庇うように立つ。
「メルさん……!?」
「仮にメルがここから逃げて街に天寵個体のことを伝えに行ったとして、それでカミノールさんはどうするつもりですか?」
「それは……」
カミノールが言葉に詰まる。
「少しでも天寵個体を足止めするために、死ぬまで戦おうとでも思ったんですか?」
「…………」
カミノールは答えないが、その表情が図星だと物語っていた。
「今のカミノールさんがあれに立ち向かったところで、何の時間稼ぎにもなりません。ただ無駄死にするだけです」
「でもそうするしか無いじゃない!街に天寵個体のことを伝えられるのはもうメルさんしかいないの!お願いだから私のことは放っておいて街に向かって!こうして議論をしている間にも時間の猶予は……」
「そうするしかない?変なこと言いますね。もっと簡単で誰の犠牲も要らない方法があるじゃないですか」
メルは背後のカミノールを振り返り、悪戯っぽく笑う。
「メルがあの魔物を殺しちゃえばいいんです」
「なっ……無茶よ!」
「無茶じゃないです。メルは強いですから」
その時天寵ブラシオンの咆哮が、悲鳴から怒りへと変化した。
ナイフが刺さったままの左目から血を流しながら、残った右目でメルを憎々しげに睨みつける。
最早メルの意思に関わらず、天寵ブラシオンがメルを逃すことはないだろう。
「カミノールさん」
メルはカミノールの手の中に、撮影用のスマホを押し付けた。
「メルは絶対にあの魔物をここで殺しますし、カミノールさんのことも絶対に守ります。だからカミノールさんは、これでメルのことを撮ってください」
「これは……?」
「メルの地元の撮影道具です。この黒いところをメルに向けておいてくれればいいです」
カミノールに強引に撮影係を押し付けると、メルは改めて天寵ブラシオンと向かい合う。
天寵ブラシオンは牙を剥き出しにして怒りを露わにする。
すると天寵ブラシオンの全身から、バチバチと電気のようなエネルギーが迸った。
「あ~、あれが雷の魔力ですか」
天寵個体は雷の魔力を放出する特殊能力を持つ。ズーロから聞かされていたことだ。
「いいですよ。雷よりも地雷系の方が強いってこと、見せてあげます」
メルはもう1本のナイフの切っ先を天寵ブラシオンに突き付け、力強くそう宣言した。
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