43. 悪魔の化身なのか?
夕食をたらふく食べて寝室に戻ると、僕は誰もいないことをいいことに豪快にベッドに倒れ込んだ。すでに部屋着に着替えているので、身体が吸い込まれるようにベッドに沈む。
自衛のため敷地内に引きこもっているので食も細くなるかと思いきや、最近は剣の訓練に明け暮れているため食欲が増している。突如「悪い虫を追い払うためには、お前も武器を持つべきだ」と言い出したクリフォードが、訓練場の使用を許可してくれたのだ。
結果的に体調はすごぶる良い。
「幸せですわぁ。このまま寝ちゃってもいいかしら~♪いいですよ~♪」
――カツン。
僕の至福の鼻歌が不協和音に遮られる。
気のせいだろうか?小石が窓に当たったような音だったのだが。そう、ちょうどバルコニーへと続く窓の方から……。
――カツン、カツン、カツン。
気のせいであって欲しかった。
ぎりぎりと歯を食いしばりながら、重たい瞼を開いて起き上がる。いまだカツンカツンと続く音が、人為的なものであることは明白だ。早速出番だなと、クリフォードから貰ったばかりの短剣を胸に、素早い足取りで窓へと近づいた。
ここまで音を出すということは十中八九、刺客ではない。
刺客ではない――のであれば何なんだろう?少し緊張気味にバルコニー側の片窓を細く開くと、素早く視線を左右に走らせた。そして、大きな黒猫の姿を瞳が捕らえる。
「冗談でしょう?」
月がぼんやりと浮かぶ闇夜へ躍り出ると、手が届きそうなほどの木の上に、ユージーン・アーガイルの姿があった。日没から数刻が経過しているため、周囲はかなり薄暗い。目を凝らさなければ、黒い外套で身を包むこの男を見つけることはまず難しいだろう。
「なにを賊のような真似事を……」
「今夜は満月ですよ、お嬢さん。俺と一緒に月夜の散歩でもいかがですか?」
「間に合ってますわ。何やらご機嫌のようですけど、ワタクシは眠いのです」
「この歳で木登りまでしたっていうのに、俺のレディはつれないな。……そっちに行っていいか?」
「いいわけないでしょう?ワタクシは眠……うぶっ」
「では、俺が寝かしつけてやろう。得意だからな」
まるで本物の猫のようにしなやかにバルコニーへと着地したユージーンが、勢いそのままに僕を抱きしめた。教会で襲われてからまだ数日しか経っていないのに、なんだか久しぶりに彼のぬくもりを感じる。いや、温くはない。かなり冷たい。
「会いたかった」
絞り出したような声音の割に、まっすぐに僕を見つめるブルーグレーの瞳がいつもより穏やかだ。よく分からないが彼にとって喜ばしいことがあったのだろう。僕は「うん」と返すと、大人しくユージーンの冷えた身体に収まった。
「なんだその格好は、風邪をひくだろ」
自分の腕の中の少女が部屋着であることに気付いたユージーンは、自分の冷えきった身体を棚に上げ、僕にぐるぐると外套を巻き付けて抱きかかえた。そして、何の躊躇もなくスタスタと部屋へと押し入る。こんな夜更けに、未婚の、乙女の部屋にだ。
僕の激しい抵抗の末、ベッドへの直行は免れたが、二人並んでソファに腰を下ろすことになった。どれだけの間、木の上にいたのだろう。温かいお茶を用意させようとしたら無言で止められたので、代わりに頭から毛布をかぶせてやる。
「もう夜は凍える季節でしょうに、随分と無茶をなさるのね」
「仕方がないだろう。正面から行っても門前払いだからな」
そう言えば、夕食時にクリフォードがかなり遅れて来たな。
「俺の婚約が白紙に戻る、そう伝えても聞く耳を持たないんだ」
え?と反射的に顔を上げると、優しく笑うユージーンの瞳とぶつかった。あの王女様がすんなりと撤回するとは思えなかったが、彼の様子を見る限り嘘ではないらしい。
それ以上何も言おうとしない目の前の男は再び僕を抱き寄せ、熱を奪うかのように冷えた頬を僕のにくっつけた。部屋には煌々と明かりは灯っていたが、僕もユージーンの毛布の中に収まってしまったので、お互いの顔がよく見えない。
それでも彼の荒い息遣いがすぐ近くまで迫っていることは肌で感じ取れた。ゆっくり、とてもゆっくりと彼の熱が僕の唇に触れた――ので、突き飛ばした。
「白紙に戻るということは、まだ白紙ではないのでしょう?」
「……お前は、悪魔の化身なのか?」
「ジーン様はまだ婚約中ということですわよね?」
「書類上はそうだが、雰囲気ってもんがあるだろう」
痛いところをつかれたのか、険しい顔のままユージーンが不貞腐れている。
王族との婚約が白紙に戻るということは、王家の都合で破談になるということだ。今回の場合、エリザベート王女に新たな婚約者が現れるという「都合」がない限り、本当に白紙になることはない。
しかもお相手は、大公家と同等もしくは上位の家格でなければならない。プライドを重んじる貴族の中の貴族なのだ。万が一にも、王女より先にユージーンが新しい婚約者を迎えることは許されるはずもない。
「撤回されるまでには、しばらくかかるでしょうね」
「ああ、国内だけでなく近隣諸国まで視野に入れるだろうからな」
「では、ワタクシたちも良い友人関係を築きましょうね」
「俺は悪魔がこんなに可愛いとは知らなかったよ」
完全に油断していたのだろう。見事にひっくり返ったままそう吐き捨てると、もそもそと毛布をかき分けたユージーンが、僕の腕を掴んで引き寄せた。
「きゃあっ」
「これぐらいはいいだろう?寝かしつける約束だったしな」
たった今、友人宣言をした男とソファの下で折り重なっていいわけがない。
そう抗議しようとしたが、手を付いたユージーンの胸板の冷たさに、少しぐらいは彼の努力に報いてもいいかと思い直した。結局、絨毯の上で二人毛布にくるまることになったわけだが、僕の下敷きにされている男は心底幸せそうだ。
「こうしていると、本当に眠ってしまいそうですわ」
「なんだ、もう悪夢は見なくなったのか?」
「悪夢?何のことですの?」
「……あのホラ吹き野郎。まあ、お前が元気ならそれでいい」
僕の頭を撫でる大きな手が、頬をつたって顎まで伸びる。そして、まるで唇の形を記憶するかのように、何度も親指でなぞられた。はっきりと顔は見えないが、ユージーンの瞳だけがドロリと熱を帯びた肉食獣のように見えた。「お気をつけなさい、ご令嬢」とパメラの声が聞こえた気がした。
「……ジーン様?」
「お前の匂いを嗅ぐと正気を保つのが難しい」
「お兄様を呼びます?」
「俺を殺す気か。……大丈夫、何もしない」
「当然ですわ」
「当然じゃない。お前は本当に前世の記憶があるのか?俺がどれだけ我慢しているか推して知るべきだ」
「……だから離れればいいでしょう」
「ダメだ。お前が大人しく腕の中にいないと安心できない。俺のレディは、本当に何をしでかすか分からないからな」
片手だけで僕の顔の半分以上を包み込むと、耳元でそう呟かれた。ぞくりと背中が反応してしまったことを隠すように、僕はきつく目を瞑った。
「あ、そうだ。俺と子作りできるぞ、キティ」
気がつくと、再びユージーンを突き飛ばしていた。
テーブルの脚で頭を打つほどに。
* * * * *
一刻もの間、王宮での出来事を聞いた僕は、思わず大きく息を吐き出した。想像以上に壮大な話で、何をどう言っていいのか分からない。ただ、グレース夫人が頑なに婚約を否定していたことと、エリザベート王女が引かざるをえなかった理由に合点がいった。
「これはワタクシが聞いてはいけない話では?」
アーガイル家でも口にしたことのある問いに、ふっと僕の頭上で息を洩らしたユージーンは、返事の代わりに僕のこめかみに唇を落とした。……ダメって言ったのに。
「確かに幼少期の王太子と王妃は、数年ほど王都を離れて療養されていましたわ」
「エドワード・ローズベリーの記憶か?」
「ええ。エディはジーン様よりも年上でしたのよ」
「なるほど、俺が手玉に取られるわけだ」
まるでキャスリン・リッチモンドの存在を確かめるように抱きしめた腕に力を入れると、ユージーンは僕の後頭部に何度もキスの雨を降らせた。たぶん、唇にしなければ許されると思っているのだろう。
「ちょっと、いい加減に……」
「いつか、ローズベリー領を案内してくれないか?」
唐突に告げられた申し出に、相反する返事が頭に浮かんだが、しばらく考えて「それもいいですわね」とだけ答えた。そんな日が来るのも悪くない、素直にそう思った。
「もう眠れ。良い夢を」
再びキスを落とされた瞼をゆっくりと閉じる。
温もりを取り戻したユージーンの厚い胸板が枕になって非常に心地よい。誰もいない部屋で年頃の男女が二人きりという状況にも関わらず、すでに彼のことは信用してしまっている。もうしばらくはこんな関係性も悪くはない……そう考えながら、僕は薄れゆく意識を手放した。
「忘れてた、ガコガン!外交官だ、キティ!」とユージーンが叫ぶまで。
【今話のクマ子ポイント】
最近のクリフォード君は、キティが心配なので屋敷に帰宅しています。
けど、まんまと悪い虫を侵入させてしまっています。ʕ๑•ɷ•ฅʔ




