42. それはさておき
自室に戻ってしばらく書類の整理に追われていると、ノックもないままエリザベート王女が飛び込んで来た。
「うわぁああ、嘘だ、嘘だよ、ユージーン。嫌だ、嫌だぁ」
こっちが嘘だろ?と思ったが、ただらならぬ王女の姿に思わず昔の口調で応えてしまった。
「どうしたんだ?リズ」
「お母様がユージーンとは結婚できないって」
「クレア王妃が?なぜ?」
「うう、うわぁあああ」
まったく埒が明かないが、泣きじゃくる幼馴染を放っておくこともできない。仕方なく抱き寄せると、よしよしと背中を叩いた。
「お兄様みたいなことは止めろ、うう……」
「大差ないだろう」
「違う!お前は兄なんかじゃない!」
「いや、まあそうですけど」
しかし、エリザベート王女の取り乱した姿を見るのは久しぶりだ。昔は泣き虫だったと記憶しているが、デビュタントを終えたあたりからみるみる大人びてしまい、幼少期のように接することもなくなってしまった。従兄妹とはいえ王族と臣下なので当然ではあるのだが。
それに自分と結婚すると言い出した頃から、距離を取るようにしたのは俺の方だ。すでに王女を女性としては見るには難しかったし、なぜか両親も良い顔をしなかった。王女の「好き」も果たして恋情からくるものなのか疑わしくもあったし。
さて、どうしたものか。
「泣いているだけでは分からないですよ、王女殿下」
「泣き止んだら結婚してくれるのか?」
「……王命とあらば、さすがの俺も無視はできないんですが」
「命令しないと結婚してくれないのか?」
目から大粒の涙を流しながらも、今日はやけに突っかかってくる。いつもは自分に都合の悪いことは聞き流すくせに、どんな心境の変化だろうか。
「大切にしたい女性がいます」
「リッチモンド公爵令嬢か」
「本人にも伝えていないのに、ここで言うわけにはいきませんね」
「随分とロマンチストなんだな。父親に似たのか?」
いつの間に泣き止んだのか、すんすんと鼻を鳴らしながら、いつものエリザベート王女らしき人物がじっと俺を見つめた。なんでここで父親の話になるんだ?
「さて、どうでしょう。母かもしれませんし」
「いや、お母様はかなり現実主義者だ」
「は?いや、俺の母の話です」
「だから、お母様がお前の母親だと言われたのだ!うう……うわぁああ」
再びけたたましい鳴き声を上げる王女を胸に、俺は不覚にも彼女の言葉の意味が理解できていなかった。とにかくわけが分からない状況の中、俺は無意識にサミュエルが来ることを祈った。正直、こんなにもアイツを求めたことは過去に一度もない。
果たして、軽やかなノックとともにサミュエルは現れ――なかった。あの役立たずは現れなかったが、代わりに部屋に入ってきた人物の姿に、俺は硬直することとなる。
「うちの子がごめんなさいね、アーガイル大公」
「は、いえ、ご無沙汰しております、クレア王妃陛下」
べりっと勢いよく王女をはがすと、俺は最上級の礼をとった。同時に辺りを見回すが、どうやら護衛もなしでここまでやって来たらしい。
「いくら王宮内といえど、侍女も護衛もお付けにならないのは不用心です」
俺の言葉にキョトンとした王妃は、「言いたいことは別にあるのでは?」と笑った。言いたいこと――それは、先ほどのエリザベート王女の発言が聞こえたのだろう。本人まで登場したのだ。さすがの俺でも状況は理解できたが「貴女が俺を産みましたか?」とは口が裂けても言えるわけがない。
「勘違いしないで、大公。貴方の母親はグレース・アーガイル夫人、ただお一人よ。私は一度も貴方を抱いたことがないの。愛着がわくからと反対されてね」
「……はい」
「名前だけよ、私から大公に贈ることができたのは。それでも、グレース夫人とともに貴方の成長を見守ることができる。こんな幸せなことはないわ」
クレア王妃は立ち尽くすエリザベート王女を抱き寄せると、「貴女にも辛い思いをさせてしまったわね。本当にごめんなさい」と、優しく頭を撫でた。
「二人には白状しますけれど、大公のお父様、アンドリュー殿下の恋人になれたのは本当に一夜だけ。赤子だった第一王子の療養のため、しばらく滞在していた別荘にお見舞いに来てくださったの。アンドリュー殿下と初めてお会いした時には、私はすでに陛下――当時の王太子殿下の婚約者だったし、まさか両想いだなんて知らなかったのよ」
「……なぜ父は、貴女を奪って逃げなかったのでしょう」
「まあ恐ろしいこと。大公は私に似たのかしらねぇ。そうね、すべてを投げ出すには、大切なものが多すぎたのね。もう二十年前に終った恋ですよ」
少し寂しそうな横顔を見せた王妃に、思わずこぼしそうになった慰めの言葉を飲み込んだ。彼女の言うとおり、もう終った話なのだ。
「だから私は、ここで貴方を抱きしめたりしないわ。今のままでいいのよ、ユージーン・アーガイル大公。グレース夫人を大事になさい。貴方が負い目を感じることは何一つないわ。二十年の間に、アンドリュー殿下とグレース夫人も本当の夫婦になられたの。私と陛下のようにね」
威厳のある王族の顔を取り戻したクレア王妃が、力強く俺を見つめた。深い海の色を宿した双眸が、自分の瞳のルーツなのだと無意識に思った。
「さて、親子で騒がせてごめんなさい。リズ、帰りますよ」
別れの言葉を告げた王妃の背中に、俺は言いようのない衝動にかられて足を踏み出した。
ガンっと鈍い音を立てて扉に片手を付いた俺は、そのままの姿勢でクレア王妃を背後から抱きしめた。これは不敬か?と一抹の不安が脳裏をかすめたが、気付かないフリをする。
「父は和解せぬまま天へ送ってしまいました。だから俺は、生きているうちにすべきことをやりたいと思います。……貴女には俺を産んでくださったことに、心からの感謝を」
「……ありがとう、ユージーン。愛しい子。願わくば、貴方は手遅れにならないうちに、愛する人と出会えますように」
初めて我が子を抱きしめることができた王妃は、母親の顔をのぞかせながら目頭を押さえた。
「覚悟しておけ。王女の立場を駆使して、お兄様の結婚を阻止してやるからな」
その横で王女がすべてを台無しにする捨て台詞を残し、二人は嵐のように去って行った。怒涛の展開に思考がまとまらないまま扉を閉めようとして、グレース夫人がぽつんと柱の影に立っていることに気が付いた。
「母上まで!そんなところで何を……さっさとお入りください」
「そうね、私は貴方の母親ですものね」
「……貴女を母親ではないと思ったことなど一度たりともありません。ただ、己の存在が母上を苦しめているように感じていただけです」
「ええ、貴方が悩んでいることには気付いていたわ。それなのに、私こそが逃げてしまったの。母親と認めてもらえなかったらどうしようと、貴方ときちんと話し合うことを躊躇してしまった」
俺のエスコートで部屋に入ると、母上は小さな両手で俺の手を包み込んだ。
「これだけは信じてちょうだい。私は望んで貴方の母親になったのよ。始まりは契約結婚ではあったけれど、結婚適齢期を過ぎて幼馴染から婚約破棄をされた私にとって、アンドリュー殿下の申し出はまさに救いだったの。意外としたたかなのですよ、貴方の母親は」
少し誇らしげに語る口調に、彼女の新たな一面を見た気がした。そういえば、ルークもあれで計算高いところがあったなと思う。
「母上がアーガイル家の犠牲者ではないのなら、俺はそれだけで満足です」
「愛してるわ、私の優しい坊や。さて、それはさておき、エリザベート王女から聞いたのだけど、貴方は子どもを成さないと決めているようね」
「……それはさておき?」
「とんだ大馬鹿者ね、ユージーン・アーガイル大公。孫を見たくない親がいるものですか!私を母親だと認めるのなら、ルークに当主を譲るなど考えもしないでちょうだい」
――そうか、自分にはもう何の足枷もないのか。
「母上、申し訳ありませんが、私は今すぐ会わねばならない人がいます」
「まあ、せめて馬車まで送って欲しいところだけど、今回はあの子に譲ります。早く捕まえていらっしゃいな、ユージーン」
母の笑顔を目の端に捕らえながら、俺はすでに駆け出していた。
【今話のクマ子ポイント】
エリザベート王女の愛称はリズです。
まさかの、ここでしか使われませんでした。ʕ๑•ɷ•ฅʔ




