32. おかわいそうに
「だって計算が合わないじゃない」
くすくすと軽やかな笑い声にもかかわらずどこか粘着質な女の声に、俺は身体が小刻みに震えるのを止められなかった。
午後の鍛錬を終え、小腹が減ったので調理場へ足を運んだ。いつものように従者かメイドにでも言づければ済む話だったが、近くまで立ち寄ったので果実でも物色しようと考えたのが仇となった。
「確かに婚約期間もすっ飛ばしてのご成婚だったわよね。まったく噂のないお二人だったから驚いたのを覚えているわ」
「おかわいそうに、グレース様はいいように使われたのね」
言葉とは裏腹に、口調は随分と楽しそうだ。
調理場にいるメイドたちが一体何について話をしているのか、俺は皆目見当がつかなかった。そう、前後の会話を聞いていなかったので見当がつかないはずだった。
だからなぜ自分の心臓が早鐘を打ち、手足は小刻みに震えているのか。そして、なぜこの会話を聞いてはいけないと直感的に感じているのか、分からなかった。
「だからユージーン様だけ、髪のお色が違うのね」
「あら、目のお色もよ」
――これ以上、聞いてはいけない。
「ユージーン様、こんなところで何を?」
背後から現れたジェイコブ執事長の声に、メイドたちは小さく悲鳴を上げて廊下へ顔を出し、足がすくんで動けなかった俺を見て、また悲鳴を上げた。
ずっと不思議には思っていた。
父は黄金、母と弟は緑がかった金色の髪を持つのに、俺だけが闇に近い紫紺を纏っている。「貴方も赤子の頃は金色だったのよ。黒髪の遠縁がいるので、先祖帰りかしらね」と、母は決まってそう微笑むので、そんなものかと思っていた時期もあった。
しかし、母方の祖父母や身内だけが集まるパーティに何度出席したところで、俺と似た髪色を持つ人間など見たことがなく、何か釈然としないものを感じていた矢先の出来事だった。
だから正直に言うと、非常に腑に落ちたのだ。
あの後、激昂したジェイコブによってメイドたちは紹介状も持たせずに解雇された。あんなに怒った執事長を見たのは初めてであったが、俺にとってはどうでも良かったし、自分の出生の秘密を教えてくれた彼女たちには感謝さえしていた。
父と母は揃って俺を呼ぶと、ついに真実を告げてくれた。
母と呼んでいた人は、俺の産みの親ではなかった。
俺は父と当時の恋人との間にできた子で、事情により一緒になれなかった恋人の代わりに子爵令嬢だった母が育ての親になったこと。血はつながっていなくても我が子のように育てたこと。いつしか父と母にも愛が芽生えてルークが産まれたこと。
すでに親の愛を求める年齢でもなかったし、母の愛情を疑うような生い立ちでもなかったので、自分の出生など本当にどうでも良かった。
「おかわいそうに、グレース様はいいように使われたのね」
ただ、この言葉だけが頭から消えなかった。
あのメイドの言うことは正しい。
当時、父は第二王子の立場であり、一介の子爵令嬢が申し出を断れるような相手ではなかった。誰がどう見ても、父とその恋人の立場を守るために母の結婚は決められ、産んでもいない子どもを育てることになったのだ。
貴族令嬢の婚姻に当人の意思が反映されないことは珍しいことではないが、これはいくらなんでも残酷だ。母がそのような理不尽な目に合ったという事実が許せなかった。その諸悪の根源が自分であることも。
だから誓ったのだ。
アーガイル家を受け継ぐのは、母の血筋であるべきだと。
可愛そうな子爵令嬢が少しでも報われるよう、どこの誰ともわからぬ父の女ではなく、彼女の子どもの種を残したいと思ったのだ。
* * * * *
俺の話を真剣な表情で聞き入っていたキャスリンは、眉間にしわを寄せたまま頭を傾けた。
「これはワタクシが聞いてはいけない話では?」
「お前だから話した。俺が結婚を拒んできた理由を知っておいて欲しかったんだ」
「確かにアンドリュー殿下のご成婚は急でしたものね」
「はは、見て来たような言い草だな」
陶器のような丸みを帯びた頬を撫でると、「お、父様、から聞いた話ですわ」としどろもどろに小さい口が動く。
深刻な病に犯されている俺には、彼女のどんな表情も可愛く見えて仕方がない。身体の芯が凍るような父に対する怒りも母に対する自責の念も、彼女が隣にいるだけで飴細工のように解けてなくなる。
俺は再びキャスリンを抱きしめると、弾力のある頬に唇を重ねた。
今なら少しだけ、当時の父の気持ちが分かるような気がした。
王女と婚約中の身でありながら、キャスリンが去ると聞くや、なりふり構わず駆けつけてしまった。王家を敵に回し、大公家の未来を奪うことさえ構わないと思ってしまった。正直、自分がここまで彼女に溺れていたことが信じられない。
少し前まではエリザベート王女との婚約も、渋々ではあるが受け入れていたのだ。子どもを成さないことを条件に、それでも王女が望むのであれば断る理由などない、そう思っていた。
一方で、キャスリンに対しても本気にならないよう用心していた。
兄のクリフォード団長に、オースティン伯爵、あとモンフォール卿だったか。結婚を望まぬ身でありながら、ライバルの多い令嬢をわざわざ横に置いて敵を増やすなど愚の骨頂。何よりキャスリンに対して不誠実が過ぎる。俺が隣にいてもこれだけの虫が湧くのだ。本来彼女はもっとたくさんの男たちから求婚されていたのだろうから。
愛くるしい美貌はあと数年たてば艶やかに咲き誇るだろうが、彼女の魅力は外見だけではないように思う。自信溢れる言動に、人を惹きつけるオーラ。誰しもが彼女の瞳に映り、名を呼ばれ、微笑みかけられたいと願うだろう。そしてその先には、彼女を独り占めしたいという醜い欲望が影を潜めているのだ。
それにも関わらず、自分は彼女のことを何も知らない。
なぜ黒騎士団に精通しているのか、なぜオースティン伯爵と懇意なのか、エドワード・ローズベリー卿との関係、そして俺のことをどう思っているのかも。
そこで思考が停止すると、無性に彼女にキスをしたくなった。幼稚な考えだが、とにかく自分の所有物のように印を付けておかないと不安になるのだ。
「ちょっと!」
俺の邪な気持ちに気付いたのか、彼女の両手が俺の口に伸びた。
「婚約者がいる方と、そのような行為をするわけにはまいりませんわ。ワタクシの相手となる方は、そんな破廉恥で無責任ではありませんの」
「お互いを尊重し、時に支え合い、時に寄り添うような関係……だったけ?」
初めて出会った時の彼女の台詞だ。
俺が覚えていたことに驚いたのだろう。頬を赤らめて「そうですわ」と恥ずかしそうに波打つ唇が可愛くて仕方がない。キスを許さないくせに、大人しく俺の膝に座ってしまっているあたり、彼女の危機管理能力は低いと言わざるをえないのだが。
「ジーン様、もう離してくださらない?ワタクシ、遣いをやらないと」
「誰に?」
「分かっているくせに!今も待っているはずですもの」
「……ということは、奴のところには行かないんだな?」
わざと念押しをすると、ますます頬を染めながら睨みつけてくる顔に、思わず反応しそうになった。しかし、彼女を膝から降ろすつもりはない。
「アル!アルバート!」
ドアの向こうでイライラと監視しているであろう侍従の名を呼んだ。
「――え、まさか私にこの中に入れと言うのですか?ご冗談でしょう?」
薄く開かれたドアの向こうから、心底嫌そうな声が聞こえる。
「入らなくていい。オースティン伯爵家に遣いを送れ。キティは渡さないとな」
「……かしこまりました。ああ、私からも言づけがございます」
俺たちの状況が思いのほか健全だと察したのか、アルバートは一通の手紙をトレイに乗せ、結局部屋に入って来た。
「キャスリン様にリッチモンド公爵から手紙が届いておりました」
「お父様から?」
アルバートの入室と同時に、俺の鳩尾に肘鉄を食らわして飛び降りた子猫が、封を切る。
「急いで公爵家に戻るよう書いてありますわ」
「リッチモンド公爵家にも説得に行かなくてはいけないな」
「あら」
「どうした?」
手紙を食い入るように見つめていたキャスリンが、微妙な表情を浮かべて顔を上げた。
「――シェラード外交官のご令息から、婚約の申し込みが届いたようですわ」
彼女の周りに新たな男がまた増えた。
【今話のクマ子ポイント】
シェラード外交官は、アルバートの試験に出てきた宰相になりたい人ですね。ご令息はキャスリンの誕生日会にも出席してました。ちゃっかり。ʕ๑•ɷ•ฅʔ




