31. お前を好きにはならない
ついに大公家を去る日がやって来た。
狩猟大会で命を狙われてから十日あまり、この屋敷で過ごした日々が短かいようで長いような、不思議な気持ちになりながら部屋を後にする。
初めてここを訪れたのは、リッチモンド家総出で招待された夜会だった。あまりの広さに当時は王宮かと思ったが、今となっては我が物顔で歩き回れるようになったなと、ひとり苦笑する。
ユージーンとはいまだに会えていない。
王宮での仕事が忙しいと聞いているが、方便であることは百も承知だ。僕が大公家からいなくなれば、彼も帰って来れるだろう。
「本当に行ってしまわれますのね」
目元を潤ませながら、グレース夫人が見送りに姿を現してくれた。
「大変お世話になりました、グレース夫人。また社交界でお会いできることを楽しみにしておりますわ」
「夫人ではなくて、お義母様と呼んでもらえるとばかり……」
大公家の主たる面々には、自分とユージーンに恋愛感情はなく、健全な友人関係であることを何度も伝えてはいるのだが、いまだ受け入れてはもらえないらしい。
「友人と言えども、婚約者がいらっしゃる方の屋敷に、未婚の令嬢が留まるわけにはまいりませんわ」
「……でも、友人とは同じ部屋で眠るものなのかしら。若い方の常識は分からないけれど、少なくともユージーンはキャスリン嬢に好意を持っているはずですわ」
痛いところを突かれたので、僕は得意の「聞こえないふり」でやり過ごした。友人同士なのに同じベッドで寝ることになったのは、お宅のお坊ちゃまの躾がなっていないからですよ、と言いたいところを我慢する。
「お嬢様、すべての荷物を積み終わりました」
協力的な姿勢で荷造りをしてくれたドロシーが、馬車の影から僕を呼ぶ。迎えに来ると言い張るレナードを制して、大公家に目立たない馬車を一台用意してもらったのだ。
最後にもう一度、宮殿のような屋敷を見上げる。
二階の中央の窓、僕に与えられた客室に目が止まった。そう言えば、ユージーンの部屋はどこだったのだろう。滞在中、あの男はほぼ僕の部屋で休んでいたので、最後まで分からずじまいだ。まあ、ここに足を踏み入れることはもうないだろうけど。
次に顔を合わせるのは、アイツの結婚式かな。
そうぼんやりと考えながら、夫人に一礼して馬車に向かう。護衛騎士の一人が、心なしか悲しそうな顔でエスコートをしてくれた。ルークは騎士団の業務で不在らしい。あの可愛い弟君にもお別れを言いたかったが、彼が社交界デビューを果たせばまた会えるだろう。
「あーねーうーえー!!」
遠くでルークの声が聞こえた気がした。
――空耳が聞こえるほど、恋しがってはいないのだが?
怪訝な表情のまま視線を上げると、一台の馬車が猛スピードで正門を潜り抜け、正道を一直線に突進してくる。その窓からはルークらしき青年が上半身を出し、片手をぶんぶんと振っていた。
「まあ、危ないですわよ!ルーク!」
どう見ても敷地内で出す速度ではない。馬車はその巨体を大きく傾けると、金属音を響かせながら滑るように正面に横付けた――と同時に、ルークではない長身の男が飛び出す。
「どういうつもりだ、キティ!」
長身の男、この屋敷の当主であるユージーン・アーガイル大公が、こちらの馬車の入り口に片手をかけ、まさに乗り込もうとしていた僕へと立ちふさがった。完全に野盗のような動きだ。
「ひっ……なっ、お、驚かされましたわ!何?何ですの?」
「こっちの台詞だ。一体どこへ行こうって?」
「え、あ、その……」
「リッチモンド家へ帰るだけなら大公家の馬車に乗ればいいものを、わざわざ家紋の入っていないものを使うとはな」
「だってリオが、いや、いやいやいや……ワタクシ、何か言いまして?」
「やはりオースティン伯爵か。本当に油断も隙もない」
「ワ、ワタクシがどこへ行こうと、大公閣下に関係はございませんでしょう?ずいぶんお久しぶりですものね。申し遅れましたが、この度はご婚約おめで……んぎゅ」
「行くな」
「いあ、ちょっ、離し……」
「一体なんなんだお前は。なぜこうも俺の心をかき乱す?お前が俺から離れるだけで、俺以外の奴に近づこうとするだけで、どす黒い感情に支配されるのはなぜだ?」
「それはワタクシに懸想されてい……」
「違う!そんなわけはない」
「あら、そうですの。ではお胸のご病気ではないかしら?ワタクシ、先を急いでおりますので失礼して……んんー!」
油断した。
僕の口が閉じないように奴の親指をねじ込まれ、深い口づけを交わされる。二度としないと誓ったのに!神よ、コイツは約束を反故にしました!どうか天罰を!
「お前を好きにはならない」
「はっ、奇遇ですわね。ワタクシもたった今、同じ気持ちでおりましたっ」
言い終わると同時にまた口づけされる。
ユージーンの大きな舌が、何度も何度も僕の口の中を蹂躙する。息が苦しくて、じわりと涙まで浮かんで、頭の芯が痺れて何も考えられなくなる。いつしか、どちらともなく言葉を発することをやめ、荒い息遣いと破廉恥な水音だけが辺りに響いていた。
辺りでは――――グレース夫人、ルーク、アルバート、ドロシー、ついでに大公家の護衛騎士と御者が、口を開けたまま僕たちを凝視していた。
* * * * *
あの後、すでに意識が朦朧としていた僕は、ユージーンによって彼の寝室に通された。もはや客室も与えてもらえないのか。ドロシーが荷解きをすべきか迷っているだろうな。
グレース夫人が頑なに僕を連れ込むことを反対したが、ユージーンが当主権を乱用し、絶対に手は出さないと神に宣誓したためこうなった。ちなみにコイツの神への誓いが何の効力も持たないことを僕は知っている。しかも、すでに親兄弟の面前で、はっきりくっきり手は出されてしまっている。
ユージーンは外套だけは脱いだものの、着替えもせずに僕を抱きしめたまま離さない。まるで離したが最後、僕が消えるとでも思っているかのようだ。
「ルークが呼びに来たんだ。お前が出て行くと」
ぽつりと彼が呟いた。
「そこからは正直覚えていない。外套だけを引っつかんで、何も考えずに馬車に乗っていた」
「ふーん」
「まさかここにきて、オースティン伯爵の屋敷に行くなんて思いもしなかった」
「こちらにも事情があるのですわ」
「あいつと婚約するのか?」
「そういえばジーン様が責任を持って、良家の男性を紹介してくださるんでしたっけ?」
「意地が悪いぞ」
「王女殿下との婚約はどうなりましたの?」
頬をすり寄せてくるユージーンを押し返す。
「婚約は……王女殿下に断っていただく。一体、誰の思惑で殿下まで利用する事態になったのか探っているところだったんだが。ともかく、大公家のコネと権力を総動員して俺を振ってもらうさ」
「ふーん」
僕を赤子のように横抱きにしてソファに腰を下ろしていたユージンは、その相槌が気に入らなかったのか、再び僕の瞼や頬や口にキスの雨を降らせてきた。止めさせようとしたところで、コイツは石像だ。力ではかなわない。
「伯爵と婚約なんてしないよな?」
「ん、しませ、ん、わ。んん、待って!婚約を破棄するよう動いていたのなら、グレース様やワタクシにも状況を知らせるべきだったのでは?」
「俺の覚悟が足りていなかった。お前はローラの件でも怒ってたし」
「……そうでしたわね。ちょっと離れてくださる?」
「嫌だ。お前と出会う前の話だし、あちらも仕事だ。気を許すような仲ではない」
「ふーん」
「妬いているのか?お前とは情を交わしたことさえないのに」
「できますの?」
「……嘘だろ。この状況で煽るのか?」
「そうではなくてっ!以前、子どもを作ることができないと仰っていたではありませんか」
「それは……子どもを作れないのではなく、作りたくないんだ」
ルークとのやり取りを見ている限り、子ども嫌いにも見えなかったので気にはなっていたのだ。ユージーンの横顔を見ながらそう思い返していると、苦悩に揺れる蒼銀と目が合った。僕の視線に一瞬躊躇するも、意を決したように再び口を開いた。
「俺は大公家の正式な子どもではない」と。
【今話のクマ子ポイント】
キャスリンが深窓の令嬢にしては異性に対して警戒心が薄いのは、エドワードの記憶のせいです。ただ、強引なイケメンに弱いのは、他の令嬢と一緒だと思います。でしょ?ʕ๑•ɷ•ฅʔ




