20. ご武運をお祈りしております
青空をそのまま切り取ったような布地に金の文様が浮かぶ天幕の中は、ここが屋外であることを忘れさせるほどの豪奢な調度品と、鮮やかな衣装に身を包んだ女性たちで溢れかえっていた。
「こちらは柑橘系の果実水ですの、ぜひお試しくださいな」
「ありがとうございます」
緑がかったブロンドの髪をゆったりと結い上げたグレース・アーガイル先代大公夫人が、僕を気遣って冷えたグラスを差し出す。
「アルコールは用意していないので安心なさって。そうだ、ジェイコブ。外にいる皆様にも、まだお酒をお出ししてはダメよ。騎乗前ですからね」
ちなみに、後半は僕ではなく天幕の入り口で控えていた執事への指示らしい。執事長とおぼしき男がうやうやしく一礼し「奥様、問題ございません」と答える。
「ふふふ、嬉しいわ。うちは男の子ばかりなんですもの、娘がいるってこんな感じなのかしら」
「あらグレース様、お気がお早いですわ。キャスリン嬢をご息女になさるには、ユージーン様に頑張っていただかないと……ねぇ?」
ちなみに、後半の同意は僕に対して求められているらしい。なので「ねぇ?」と小首を傾げながら、本日も大活躍の扇でひくりと歪む口元を隠した。
狩猟大会当日。
僕は六角形の巨大な天幕、アーガイル大公家の本陣にいた。ユージーンの母君であるグレース夫人から熱烈な歓迎を受け、アーガイル家家門のご婦人方に囲まれている状況だ。逃げ場はない。護衛のモンフォール卿もメイドのドロシーもリッチモンド陣営で控えているので、敵陣の中に僕一人。
非常に心細い。
今朝、僕を迎えに来たユージーンは、家門会議や王家への挨拶などで忙しいらしい。
「大会が終わるまで、ゆっくり会話もできないからな」
そう馬車の中で告げられた僕は、おもむろに突き出された右腕に首をかしげた。高そうな皮手袋の自慢だろうか?
「ほら、今のうちに渡すものがあるだろ」
ぼんやり彼の右手を眺めていたからだろう。少し棘のある声音で催促され、僕は慌てて手元のポーチから黄色のリボンを取り出した。
「ご武運をお祈りしておりますわ」
リボンを相手の手首に結ぶ時の伝統的な定型文だ。
言いたくて言ったわけじゃない。
そんな気持ちが透けていたのだろうか。ユージーンは満足そうに笑うと「少しは顔に出るようになったな」と、僕の手を絡めとり甲に口づけた。
「ちょっと!二度と口づけないと仰いましたわよね」
「言ってないし、お前の許可があればやる。それに今のは礼だ」
「反省するとお聞きしましたわ」
「反省はした……おい、なんで猫なんだ?」
自分の手首に巻かれたリボンの先端に気付いたらしい。
狩猟大会で異性に贈るこの黄色のリボンには、好きな絵柄を刺繍する習わしがある。他者との差別化を図るため、または刺繍の腕前を披露する機会として始まったことだと思うが、恋する乙女たちは騎士に縁のある図案を好んで用いるようになった。男性の家紋はよくある例で、恋人同士なら二人の思い出の品、秘めた思いを花言葉に託すことも多いらしい。
ユージーンの右手には、愛らしい黒猫の横顔が揺れていた。
あの時のアイツの顔を思い出すと、つい頬が緩んでしまう。どうせ今まで獅子やら鷹やらの威風堂々たる絵柄しか貰ったことがないのだろう。僕にかかれば、お前なんて子猫ちゃんも同然だという意味を込めたので、ぜひとも伝わって欲しい。
「あら、楽しんでいただけているようで嬉しいわ」
緩んだ顔を見られてしまった。不意にグレース夫人に話しかけられた僕は、慌てて調度品や果実水などを褒めまくった。事実、この規模の天幕と内装を保持できるのは王家かアーガイル家ぐらいだろう。設営や準備にもかなりの日数を要したに違いない。
「やはり令嬢は、リッチモンド公爵の面影がおありですわね。公爵が独身の頃は、それはそれは年頃のご令嬢たちに囲まれて大変だったのですよ」
「そうでしたわねぇ。当時はグレース様と懇意にされていたので、私たちはてっきりお二人のロマンスを期待していたのですが……。まさか突然、グレース様が第二王子殿下とご成婚された時は心底驚きましたわ」
この話題をきっかけに、当時、年頃の令嬢だったご婦人方が色めき立ち、口々に思い出話を披露し始めた。第二王子とはユージーンの父君、一年前に亡くなられた先代大公のことだ。
第二王子の秘密の恋物語は、さすがに僕でも知っている。
当時、エドワードは今のキャスリンぐらいの年齢で社交界デビューを果たしておらず、従騎士として王都で暮らし始めたばかりだった。新しい環境に目の回る毎日だったが、それでも時の第二王子と子爵令嬢の電撃婚に、国中が沸いたことは鮮明に覚えている。
それまで婚約者さえも置かなかった第二王子のお相手が、辺境に小さな領地を持つ子爵家の令嬢だったことから「身分違いの恋」として、貴族だけでなく平民の間でも話題になった。確か避暑に訪れた第二王子とグレース夫人が運命的な出会いをされたとか。
「キャスリン嬢がお生まれになる前の話ですもの。退屈させてしまいますよ」
「あら、世紀のロマンスに憧れない令嬢はおりませんわ。ねぇ、キャスリン様もユージーン様のご両親の物語に興味がおありですわよねぇ?」
このご婦人は、なぜいつも僕に決断を迫るのだろうか。
「もちろんですわ。ですがワタクシ……」
「奥様!エリザベート王女殿下がお見えでございます」
少し緊張した執事長の声が僕を遮ぎり、告げられた内容を理解した面々が慌てて立ち上がった。ほどなくして、熟成されたワインを連想させるジャケットに白いパンツ姿が眩しい、狩猟服で正装したエリザベート・ヴァンダル王女が両脇に護衛を連れて現れた。
「突然の訪問を謝罪する。ごきげんよう皆様、どうぞ楽にしてください」
「エリザベート王女殿下、お久しぶりでございます。このような簡素な天幕で恐縮ですが、ようこそおいでくださいました」
グレース夫人がうやうやしく進み出て、カーテシーで出迎える。その場で直立する貴婦人たちもそれに習って最上級の礼を見せた。
「ユージーンに会いに来たのだけど、ここにはいないようだね」
「はい、大公は家門会議に出席しております。使いの者をやりますので、ここでお待ちになりますか?」
非公式といえど公の場だ。
一族の長を名指しで呼ぶ王女に対して、あえて「大公」という言葉を使ったのだろう。ふむ、と考えるそぶりを見せた王女の切れ長の瞳が、ちろりと僕を見つけた。
キャスリンとしては初めましてだが、実はエドワードは王女のお披露目パーティに参加したことがある。王妃から譲り受けた豊かなアメジストの髪に、勝気な銀色の瞳を持つ少女は今年で16になられただろうか。赤子だった姫の美しく成長された姿に、少し感慨深い気持ちになった。
「見慣れない者がいるね」
「キャスリン・リッチモンドでございます。お会いできて光栄にございます」
「ああ、リッチモンド公爵のご令嬢か。クリフォード団長の溺愛ぶりは、王宮でも有名だ」
「お恥ずかしい限りです」
いや、本当に恥ずかしい。
あの人は一体、王宮で何を言いふらしているんだろう。
真っすぐな性格を表すかのような長髪を束ねたエリザベート王女は、王族特有とも言える白銀の瞳を細めると「噂通りの素敵な令嬢だね」と呟いた。これを言葉通りに受け取っていいものか、僕は黙って曖昧に微笑んだ。
エリザベート王女とユージーンは従兄妹同士だ。
彼らの友好関係まで把握していないが、この意味深な眼差しから察するに、もしかして彼女も振り払うべき蝶に含まれているのだろうか?王女との縁談話は聞いたことがないが。
「使いは結構。狩りには私も参加するので、後で会えるだろう」
「承知いたしました」
「邪魔したね、皆様。キャスリン嬢も。またお会いしましょう」
来た時同様に颯爽と王女が退出すると、誰ともなしに深い息が吐き出され、部屋全体の緊張が和らいだ。王女を見送ったグレース夫人も、やや固くなった笑顔のまま戻ってくる。
「驚きましたわぁ、グレース様。王女殿下と大公閣下のロマンスまでございますの?」
頭と口が直結しているタイプなのだろう。どこかの伯爵夫人が、無邪気にも僕の存在を忘れた質問を投げかけた。一斉に皆の視線が、グレース夫人と僕を往復する。
「それはありえませんわ」
おっとりした夫人とは思えない強い口調に、好奇心で見守っていた一同がギクリとする。たぶん僕を気遣っての返答だったのだろうが、表情も強張っているようだ。
「そ、そうですわよね。大公はキャスリン嬢とお付き合いされていらっしゃいますものね」
取り繕った言葉が寒々しく天幕を駆け抜ける中、王女はユージーンにリボンを渡しに来たのかな、と僕は他人事のように考えていた。
【今話のクマ子ポイント】
狩猟大会は王家主催の舞踏会でフィナーレを迎えます。日暮れ前に解散し、身支度を整えてから王宮に集まります。ʕ๑•ɷ•ฅʔ




