1. 破廉恥ですわ
チュッとついばむような音が耳をかすめ、温かく湿った物体がゆっくりと僕の下唇をなぞる。ゾクゾクとこそばゆい感覚に震えた背中が大木の幹に沈み、葉の間から差し込む木漏れ日が重なり合う男女に影を落としていた。
「んんん?」
ぱちくりと見開かれたヘーゼルの瞳に映るのは、楽しそうに弧を描くブルーグレーの双眸。それが先ほど挨拶を交わしたばかりの男のものであると気づくや、僕は自分の身に起きた出来事を完璧に把握した――と同時に、目の前に立ちはだかる障害物を力いっぱい押し退けた。
「は、破廉恥ですわぁ――むぐぅ」
しかし、体重を乗せて突き飛ばしたはずの破廉恥野郎はぴくりとも動かない。代わりに大きく開かれた僕の唇に骨ばった人差し指があてがわれ、出したはずの叫び声は木々のざわめきに吸い込まれてしまった。
「貴女の瞳に俺がいるのは気分がいいですね。キャスリン嬢」
青みがかった銀色の瞳をさらに歪がませ、愉快そうに口角を上げる僕の花婿候補、またの名をユージーン・アーガイル大公は、新しい玩具を見つけた肉食獣のような表情でそう囁いた。
――――コイツ、やってんなぁ。
* * * * *
僕の名前はエドワード・ローズベリー伯爵、享年20歳。
21歳の誕生日を迎える前日に、事故か何かで死んでしまったらしい。残念ながら死ぬ間際の記憶がはっきりとしないのだが、体はすこぶる健康だったので、突発的な不幸にでも見舞われたのだろう。なんて可哀そうな僕。ちなみにワイルドに波打つ金髪の持ち主で、筋肉隆々のイケメンだった。もちろんモテた。
そして、今の僕はキャスリン・リッチモンド公爵令嬢。
14歳の誕生日会と称した花婿選びのガーデンパーティで、ある破廉恥野郎の毒牙にかかってしまったところだ。なんて可哀そうな僕。ちなみに優雅に波打つ朱色がかった金髪の持ち主で、しなやかな曲線美を持つレディ――になる予定だ。きっとモテる。
父であるリッチモンド公爵自慢の庭園を案内して欲しいと声をかけられ、主賓の義務だと快く応じたのが悪かった。
兄の趣味である果実園まで足を伸ばした時には、僕は大きな広葉樹を背に長身の男と対峙する体勢にまで誘導されていた。生前の僕より背が高いじゃないか……と、少し面白くない気分で見上げてしまったのも無防備過ぎたのだろうか。
「男は狼だと思いなさい」と教えてくれたリッチモンド公爵、ごめんなさい。
僕はまんまと狼に唇を奪われたダメ令嬢です。しかもあろうことか、下唇も舐められた気がします。気がしますというのは一瞬のことでよく分からなかったからです。いや、本当に気のせいかもしれません。気のせいであれ。
「爵位を継承された方がやっていいことではありませんわ!アーガイル大公」
「何が?口づけたこと?舐めたこと?」
気のせいではありませんでした。
「どちらもですわ!アーガイル大公」
「ジーンと呼んでくれて構わない」
「アーガイル大公閣下!このことは正式に我がリッチモンド家からアーガイル家へ抗議させていただきますので」
「俺が当主だからな、今受け取ろう。お詫びに我が屋敷での夜会に招きたいのだが、令嬢はデビュタントはまだ……」
「とっくに、滞りなく、デビューしておりますわ!」
「では問題ないな。後ほど正式な招待状を届けさせよう」
なんなんだ、コイツ。
花婿候補の一人として申し分ない身分でありながら、会ったばかりの美しく儚げな深窓の令嬢に断りもなくキ……身体的接触を交わし、それすら信じがたいのに、なぜ僕がコイツの舞踏会に行くことになっているのだ?いったい何を食べたらこんな思考回路に育つのか?
「肉は好きな方だが」
「え?ワタクシ、何か言いまして?」
「口調が少し違ったが、そっちが素か?」
「どっちも素ですわ……いえ、今のは閣下の空耳ですわ」
図々しくも、いまだ僕の頬に添えられていたアーガイル大公の手を振り払うと、僕は内心の動揺を悟られないよう、若草色のドレスを翻して木陰から躍り出た。
そう、エドワードもキャスリンも正真正銘に僕であり、エドワードがキャスリンに取り憑いているわけでも、ある日突然エドワードの記憶が蘇ったわけでもない。
さすがに赤子時代は覚えていないが、物心ついた時には僕はエドワードであり、キャスリンでもあった。体の成長に合わせて心も成熟したため、特に混乱を生じることなく、僕はエドワードの記憶を受け入れたまま公爵令嬢として育ったのだ。
つまり、ただの生まれ変わりというやつなのだろう。
「ふうん」
興味があるのかないのかよく分からない声音でそう呟くと、確か齢18になる若き大公は、足元に転がる日傘を拾い上げ、軽く表面を払って僕に差し出した。ちょっと悔しいが一連の動きに無駄がなく、優雅にさえ見える。さすがは準王族である大公家で育てられただけはある。
いや、前言撤回する。
由緒ある大公家の当主は、深窓の(しかも美しく儚げ)令嬢の唇をデザート代わりについばんだりはしない!
「今日集まった奴らの中では、俺が一番の有望株だと思うけど?」
「残念ながら暴落しましたわね。ワタクシは女性を所有物のように扱う男性に魅力を感じませんの」
「では、どのような関係をお好みで?」
「お互いを尊重し、時に支え合い、時に寄り添うような対等な関係ですわ」
「……なるほど」
完全なる男性社会の現代において、夢物語かと一蹴されてもおかしくない僕の発言に、不思議にもアーガイル大公は笑わなかった。ただ考え深げな視線を少し下げると、深紫とも漆黒とも称される髪を乱暴に掻き上げ、初めから決まっていたかのような自然な所作で僕に跪いた。
「先ほどの非礼をお詫びする、キャスリン嬢。どうか許して欲しい」
そして日傘を受け取った反対の手を絡めとると、華奢なレースの手袋をするりと剥ぎ取り、当然のように唇を落としたのだ。美しく、儚げな、深窓の令嬢の手の甲に、ちろりと舌先が肌を滑る感触を残して。
――――コイツ、やってんなぁ!
クマ子の初連載です!ʕ๑•ɷ•ฅʔ
お読みいただきありがとうございました。
【今話のクマ子ポイント】
キスシーンから始まる話にしよ〜から生まれました。