5 取引
「前を見て歩かないと、危ないわよ…!」
返事さえすることなく、後輩は図書館の奥に消えていった。
まだ図書館に数歩しか入っていないのに、かなり疲れた気分である。リリアは脱力し、その場で大きくため息をつきたいのを我慢した。
ため息は、上品ではないので。
このまま帰ってしまっては、あの後輩に負けてしまった気分になりそうだ。意を決して本棚の前に行き、めぼしいものを探す。
『四大公爵家がひとつ、カンザス家の年表』
分厚い一つの本が目に入り、無意識の内に背をなぞった。
リリアの生まれた家、エンダロイン侯爵家は、エスターのカンザス公爵家と仲が良い。どちらも安定した収入と国王陛下からの信任を得ており、社交界では大貴族の中でもあそこまで蜜月な家はない、と囁かれるほどだ。その蜜月ぶりは、エンダロインが目をかけていた商団が小麦を仕入れすぎて大赤字を出しかけた時、カンザスの息のかかった商団が大量に小麦を買ったというエピソードからもわかることである。エンダロインが王家に献上する王室御用達の絹も、王家の次に融通を利かせるのはカンザス家だったりする。
現当主でありエスターとリリアの父親に当たる二人も極めて仲が良く、学園時代からの親友であった。もしも二人のうちどちらかが女として生まれていたら、結婚していたに違いないと面白おかしくはやし立てる人間もいるほどだ。
家族ぐるみで仲が良いから、リリアの気づいたときにはエスターが側にいたし、父親世代で使われる冗談を本気にして、リリア達はあわや婚約を結ばれそうになっていた。
リリアが恥を捨てて駄々を捏ねなければ、本当に婚約させられていただろう。一度目の人生と同じように。
エスターのことを考えたくなくて此処に来たのに、これでは意味がない。
ページを捲っていた手をとめ、少し迷って本棚に戻す。
「あれっ、リリアさん、借りないの?」
少し前からこちらを窺っていたらしい。四年生の男子生徒がこちらを見ていた。眼鏡をかけた、穏やかそうな男だ。腕には図書委員のタグをつけている。先ほどの後輩然り、図書館によくいる生徒はあまり把握できていないのかもしれない。どこかで見たような顔ではあったが、どこで見た顔か思い出すまで見つめ続けるのも失礼だろう。
相手がリリアの名前を知っている辺り、どこかで交流があったのかもしれないが、どうもわからなかった。リリア自身、学園内ではどちらかというと有名人なので一方的に知られていることも少なくないが。
「はい、借りるほどではありませんでした」
「そっか。読みたければ読みに来ればいいしね。…あっ、ごめん、リリアさんが図書館にいるのが珍しくて、ぶしつけにも話しかけてしまったよ」
「気にしていません」
「そう?」
嫌な感じはしない。むしろ、あの後輩の後だと特別優しいというわけでもないのにこの図書委員の先輩の株が上がっていく。なんとなく図書館の奥にある時計を確認すれば、そろそろ夕食の時間だった。思いのほか読みふけってしまったらしい。
「もう暗くなっているし、ぼくの委員当番も終わるよ。少し待たせることになるけど、女子寮まで送ろうか」
「平気です。一人で帰れますよ」
エスターにも似たようなことを言われたせいで、そっけなく断ってしまった。けれど、気を悪くした様子もなく「それじゃ、気を付けて」と送り出してくれる。送ろうか、というのはただの社交辞令だったのかもしれない。本気にした自分が恥ずかしい。
羞恥でちょっぴり赤らんだ顔を冷ましながら、図書館の外に出る。
夕日は今にも山の向こうに消えてしまいそうで、反対側の空は墨をぶちまけたような黒が広がり始めていた。まだ数も多くないが、星が瞬いているのが見える。
図書館の辺りは外灯も少ない。リリアは、気持ち急ぎ足で女子寮へ向かった。
寮の近くに人影が見える。
寮の前で待ち合わせをするのは珍しいことではないが、女子寮の前、夜にさしかかる時間帯に男子生徒がいるとなれば、あまり良い印象は受けない。
さっさと通り過ぎよう、と更に足を進めたが。
「リリア!」
エスターの声だった。驚いて動けなくなってしまったリリアの前に、エスターが駆け寄る。いつから。寒かったはずなのに。どうして。油断すると、喉奥から悲鳴が漏れてしまいそうだった。リリアが本気でエスターを突き放せるはずがない。なぜなら、エスターがリリアを大切にするように、いや、それよりもずっと、リリアにとってもエスターは大切な人だから。
「心配した。リリアは余計な事だなんて言うかもしれないが、君は自分の魅力を理解した方がいい。周りの男が、リリアのことをどんな風に見ているか……」
「心配は、ありがとう。けれど、もう私を心配する必要はないわ。エスターは、レティシアさんのところに行ってよ。きちんとパートナーに誘ったの? 私がエスターにどうしてほしいか、わかっているわよね?」
リリアの望みを理解できないエスターではない。むしろ、彼は私が考えるより早く、私の不便が取り払われるように先回りするタイプだ。
じっと見つめると、居心地悪そうに視線を外した。
「私のことを大切に思ってくれているのはわかる。エスターがパートナーを見つけないのは、私にパートナーが見つからなかったら、一緒に舞踏会に行ってくれるつもりだからでしょう」
まるで、子離れできない親を宥めている気分である。同い年の、一度は夫婦にもなった相手を親と称するのは自分でもどうかと思うが。
「けれど、その気遣いは不要よ。私だって、いつまでも子供じゃないの」
リリアの訴えが届いたのか、俯いていたエスターが顔を持ち上げる。光の加減なのか、涼やかな空色の瞳が光っているように見える。普段の好青年然とした笑みの奥に、ほの暗く好戦的な姿勢が垣間見えて、僅かに怖いと思った。
「リリアがパートナーを見つけてきたら、干渉を控えると誓おう」
やはり。
エスターがレティシアと恋愛を始めるには、リリアという壁がどこまでも立ちはだかっているらしい。それは婚約者というわかりやすい肩書きがなくとも、エスターの生き方に根を下ろしている。リリアが変わらなければ、エスターも変われない。
中途半端に突き放すだけでは、エスターの子離れならぬリリア離れは成立しないのだ。
「わかったわ」
正直に言うと自信はない。リリアが誘えばどんな男子でも頷く、というのはマリーナの言だが、マリーナもリリアに甘いところがあるので彼女の考えを信用はできない。
けれど、はったりでもなんでも、リリアの覚悟を示さなければいけなかった。
「期限は明日から数えて七日間だ。舞踏会が始まるギリギリにしていたら、服を取り寄せる準備が整わないからな」
パートナーに合わせたドレスを選ぶのは舞踏会の定番。
とは言え、平民やあまりお金に余裕のない貴族はそうドレスを揃えることはできないので、流行に沿いつつ自分に似合うものを購入する。大貴族であれば、元々持っているドレスでパートナーと合いそうなものを実家から取り寄せるか、休日にブティックに行って大金を払い、オーダーメイドのドレスを仕立てるかになる。特に舞踏会の近づく期間は追加料金を払えば二週間やそこらという驚異の速さで仕立ててくれるのだ。
「私が一週間以内にパートナーを見つけたら、エスターも、自分の心に正直になって、好きな人を……レティシアさんを誘うのよ」
「ああ、約束しよう」
太陽が落ち、今にも暗闇に飲み込まれてしまいそうな寮の前で。
エスターとリリアの取引は成立した。