2 想い人
「おはようリリア、マリーナさん。席が空いているなら、お邪魔してもいいかな?」
「どうも〜」
二人と言わず、十人座っても余裕がありそうなほどスペースがある。リリアが頷き、マリーナも笑顔で挨拶すれば、二人は目の前に朝食を置いた。一気に華やかさを増した此処に、食堂中から集まっているのではというほど視線が刺さる。それもそのはず。皆口にこそ出さないが、リリアとエスターこそ、舞踏会でペアになりそうな最有力候補であった。可能ならば目だけと言わず耳もそば立てたいところだろう。
その意思を汲み取るかのように、食事を始めてすぐ、エスターが口を開く。
「二人は舞踏会のパートナーは決めた?」
「まだよ」
「舞踏会まであと一月もあるし、ゆっくり決めるわ。エスターさん達は?」
マリーナの目線は、そろりとエスターの隣に座る彼に向けられる。エスターさん達、というより、彼女の目当てはエスターのルームメイト、カイルであることは明白だった。一度目の人生でも、マリーナはカイルを誘い、舞踏会で踊っただけに終わらず、婚約、結婚まで漕ぎ着けている。放置していても、いつの間にかペアになっていることはわかっているので、敢えて手伝う必要もないだろう。
「僕達もまだ。でも、早めに決めておかないと、皆がペアで纏まり出すと溢れてしまうからね」
エスターに限って溢れることはないと思うが、それを追及する人間は此処に居ない。彼の謙遜はサッパリしていて、気を悪くさせることがない。これは、エスターの醸し出す空気感に拠る。
国内でも指折りの大貴族の出であっても、気さくでとっつきやすいところがあった。
そう言いながら、エスターの眼差しはリリアに注がれている。エスターにとって、親同士の仲が良く、身分も釣り合うリリアは、一番簡単な選択肢だ。リリアならば、一度パートナーになったからといって無理に恋人になろうと迫ることもなく、エスターに目をかけられたからと嫉妬で女子生徒に嫌がらせをされることもない。完全に様子を窺っていた。
一度目の人生。
エスターとリリアは親が決めた婚約者同士。選択肢なんてなく、リリアは告知があったその日の内に、エスターによって中庭で花束と共にパートナーに申し込まれた。これが三年間、いっそ事務的なまでに繰り返されたのである。
しかし、一度エスターと結婚し、人生をやり直したリリアにはわかることがある。
エスターは、婚約者であるリリアを尊重し、女性と二人きりになる状況を避けた。徹底的に誠実で、結婚後もそれは存続された。
幸せで、夢のようで、リリアの隣から離れない。
まさに理想の人。
形式上は。
彼の行動は何処までも義務を全うするだけに過ぎず、そこに愛だの恋だのは挟まらなかった。確かにエスターは、リリアを大切にした。良い友達だという認識はあっただろう。だが、そこまでだ。
何故なら、エスターには想い人がいたのである。
決して態度に表そうとしなかったが、エスターを誰よりも見てきたリリアにはわかっていた。彼は、レティシア・セルマ男爵令嬢に恋をしていた。身分差の大きく、エスターに見向きもしない彼女をエスターは愛していた。
「エスターは学園での舞踏会は、所詮は子供のままごとだと言うかもしれないけれど、私はそうは思わない。舞踏会でパートナーになった相手が、そのまま恋人になり、結婚することだって少なくないわ」
エスターは、リリアの言葉に耳を傾けている。
賢いエスターのこと。リリアからの遠回しな『都合の良いパートナーを求めるのはやめて、本当に好きな人と踊れ』と言うメッセージには気づいたはずだ。
「それもそうだね。早く決めてしまおうと焦っていたよ。もう少し吟味したって、遅くはない」
ひとまず、リリアにエスターと踊る意思がないことは伝えられた様子だ。
五月蝿いまでのエスターからの視線が逸らされ、安堵する。流石に公に誘われてしまえば、パートナーの居ないリリアが断るのは至難の業だった。今の年齢では、昔のように駄々を捏ねることも難しい。
チラリと隣を窺うと、こちらを放置してマリーナはカイルに話しかけている様子だった。邪魔するのも忍びない。このまま、二人ずつで話す他ないだろう。四人の会話に滑り込めれば良かったが、リリアとて、親友の恋路を邪魔する気はなかった。
「ところで、リリアがそう言うからには、君が舞踏会に連れてくるパートナーは、恋愛絡みと取っていいのかな? もう目星がついている……とか」
「ゲホッ」
エスターの意地悪な探りに、リリアははしたなく咳き込んでしまった。
「その様子だと杞憂だったかな?」
暗に、リリアに恋愛できる相手がいるとは思えない、と告げられる。リリアの遠回しな断りに拗ねたエスターの意趣返しだろう。無駄に機嫌の良さそうな笑顔だ。
「ま、僕がパートナーを決めるのは、もう少し後だから、リリアもそう焦らなくていいよ」
……つまり。エスターは、リリアの助言を呑み込んでいるようで呑み込んでいないのだ。
エスターにとってリリアの存在は妹に近いのだろう。誰よりも側に居ることを許し、親同士の仲を割かぬよう、リリアの面倒を極力見る。しかし、己の心の内を明かし、弱音を吐くに足る相手として、リリアを見ていない。リリアがパートナーを決められなかった時は、自分がパートナーになるつもりだ。
遠回しではいけない。
極力、直接的に告げる必要があった。
「レティシア・セルマ男爵令嬢」
万が一にも他の誰かに聞こえないよう、声を落とし、エスターにだけ届くように告げる。エスターの笑顔は崩れなかったが、僅かに息を呑むのがわかった。
「……彼女が、どうかした?」
「私はエスターを気の良い友人だと思っているの。改めて言うのは照れくさいけど……あなたが幸せになれるよう、尽力するのもやぶさかではないのよ」
だから。
「応援しているわ」
今度はリリアの方が機嫌良く笑う番だった。
完璧に弧を描いた口元に、してやったりという眼差し。リリアが何を言っているのかを全て悟ったらしいエスターは、見たこともないくらい赤い顔をしていた。右手で顔を覆い、細い声を絞り出す。
「……絶対に、誰にも気づかれないと思っていた」
確かに、一度目の人生では、確信はなかった。それでも。二度目の人生は、流石に人生経験の違いが現れたと言っていい。
「私に隠し事をしようだなんて、百年早いのよ」
──仮にも妻だった女に。
最後の言葉だけは嚥下する。エスターには、自分の幸せを掴んで欲しい。応援しているのは本心だった。
「そのようだね」
仕方なさそうに笑うエスターの頬からは赤みが消えかけていて、純朴な恋する男は、すぐに紳士の仮面を被りなおそうとしていた。
マリーナ達の方の話もまとまったようで、朝食もずいぶん片付いている。
プレートを返却口に出し、そのまま一時間目の教室まで行こうと、四人で食堂を後にしようとした、その時。
「お前、鈍臭いのよ!」
声高な怒声と共に、食器のひっくり返る、耳障りな音が響いた。
目をやれば、リリア達より一つ年上、四年生の女子生徒が、三年生の女子生徒に拳を振り上げている。周りは四年生の方の取り巻きらしく、蹲って震える後輩を助けようともしない。
クリス・ライナス伯爵令嬢。一度目の人生で身分を笠に着ている横柄な令嬢の代表格がリリアだとすれば、二度目の人生はクリスであった。侯爵令嬢のリリアがおとなしくしているのなら、恐れるものはない、と女子寮で幅を利かせている。先輩であることも手伝ってだろう。
温室育ちで暴力沙汰にはとんと縁のなかった貴族連中も、足が縫い付けられたように動けないでいる。
「そこまでにしてください」
蹲る少女を庇うように、四年生との間に体を滑り込ませた女子生徒に、リリアは見覚えがあった。
桃色の髪、美しいエメラルドグリーンの瞳。遠目にも可愛らしいとわかる出立ちだが、今は凛とした強さがあった。
レティシア・セルマ男爵令嬢。
エスターの想い人。