16 扉
「アッシュ、上級生の女子が呼んでるぞ」
午後二時頃。一年生で舞踏会に出席する男子は少ない。しかし、確かにいることはいるので、アッシュ以外にも舞踏会に行く男子たちがそわそわしながら廊下で話している。
アッシュは輪に加わらず、身だしなみの最終チェックを行っている時であった。
リリアの容姿を考えれば、隣に並び立つのに服くらいは整えておきたかったのである。彼女の瞳に合わせた赤いワンポイントもほつれていないことを確認する。
「少し早くないか?」
「アッシュが舞踏会のルール把握できているか不安で来たのかもしれないぜ」
クラスメイトが囃し立てるが、アッシュにはどうでもいいことだ。
今のアッシュに大切なのは、リリアを待たせないことであった。
急ぎ足で待っているという男子寮前に出る。しかし、アッシュを待っていたのはリリアではなく、顔だけは見かけたことのあるような、四年生の女子生徒である。
「誰だ」
「先輩に対して何て口を利くのよ…ま、いいわ。あたしは気分がいいから。ついてきなさい」
「断る。用があるのなら此処で済ませてくれ」
女子生徒の表情が歪む。
「どいつもこいつも…」
ため息をついた先輩は、いきなりアッシュの口に無理矢理何かを入れてきた。
舌触りから言って丸薬だろうか。不意を突かれてしまったが、飲み込むことはなかった。吐きだそうとしたものの、口を力強く抑えられてそれも敵わない。
年上とは言え女子である。突き飛ばすことはできたが、まだ寮に先生もいる。痴話喧嘩で済む内は舞踏会直前ということもあり目を瞑ってくれるだろうが、暴力沙汰と判断されれば舞踏会への出場権を破棄されかねない。
下手に動くことはできず、まずは口を覆う手首を持ち、引きはがそうとする。
(力が、入らない)
いつの間にか丸薬は口の中で溶けてしまっていた。
急速な眠気がアッシュを襲い、先輩の手をどけるどころか、立っているのもやっとである。
(ま、ずい…)
「はあ、お前を人目のつかないところで放置するつもりだったのに、目立つったらありゃしない。話している途中で体調不良になったお前をあたしが支えながら保健室に連れて行くの、演出とは言え面倒くさいったりゃありゃしないわ」
ぶつぶつ言っているが、頭は回らず、何も理解することができない。
「その薬、よくできているでしょう。薬学の授業を真面目に受けていたあたし特性の睡眠薬よ。三年で風邪薬は習うけど、その成分に睡眠を促す効果もあってね。あれを抽出、強めたものよ。急速に効果があって、飲み込まなくても溶けるようにしてあるわ」
「ま、夜まで眠り続けるでしょうね。適量なら人体に害はないから、安心して寝坊していなさい」
声が遠くなる。
意識を保つことができなくなって、アッシュの視界は暗転した。
※
「っは」
次に目が覚めると、保健室のベッドだった。
「あら、目が覚めたのね。酷い顔色で、女の子に運ばれてきたからびっくりしたわ」
六十代くらいと思われる、小柄な先生がベッドから起き上がったアッシュを見て目を細めた。あの女子生徒はいない。どうやら、アッシュを保健室に置いたら用はないとばかりに去っていったようだ。
主目的はアッシュではなかった。
それなら。
「い、今は何時ですか」
「五時半よ? それが、どうかした? もしかして舞踏会に行こうとしてる? 服は立派だし、準備したのに残念だと思うけど、今日は安静に…」
五時半。
本能が、リリアの危険を察知していた。あの先輩の目的はアッシュではなかった。アッシュがリリアと合うこと、二人で舞踏会に行くことを妨害してきただけである。
今すぐ、リリアの元へ行かなければいけなかった。
女子寮へと向かいそうになる足を押しとどめ、よく考える。リリアがまだ寮で待っている保証はない。むしろ、案外行動力のある彼女のことだ、自分を探して歩き回っているかもしれなかった。
その最中に、あの四年の先輩か、もしくはその味方の悪だくみに巻き込まれている可能性がある。女子寮へ走って行って大幅なタイムロスをするのは避けたい。
(手段は選んでいられない)
「すみません、ヴァロン先生に、あとでお叱りは受けると言っておいてくれませんか」
「ええ? 伝言くらいは、構わないけれど」
「それでは、少し目を瞑っていてください」
ヴァロン先生は、異能の乱用を嫌った。
きっと、これを知れば怒るだろう。学園内で異能を使えばヴァロン先生ほどの異能者なら気づくだろうし。
養護教諭が有無を言わさぬアッシュのお願いに気おされ、目を閉じたのを確認する。
(お腹に、力を入れる)
アッシュの異能は、扉と扉を移動する異能。
例えその扉に鍵がかかっていようと関係なく、どれだけ距離が遠かろうが、一度通ったことのある扉なら、自分の目の前の扉と繋げることができた。
正確な場所はわからないが、学園内であることは間違いない。それならば、異能で今すぐ駆け付けることができる。
(リリアのいる部屋の扉へ)
保健室の扉を、開けた。
それは、談話室のものと繋がっていた。無理矢理に鍵をこじ開ける、奇妙な感覚と共に、酷い光景が飛び込んできた。
「君はぼくの妻になるんだ」
「何度言えば気が済むのよ! お断りだわ!」
椅子を頭の上に掲げ、ドレスを着た淑女とは思えない体勢で威嚇している。カマキリのようになってしまったリリアの前には、先輩と思われる男子生徒が気味の悪い笑顔で向き合っていた。アッシュを眠らせた女子生徒によく似ている。グルだったと見て間違いない。
二人がこちらを見るよりも早く、後ろ手に扉を閉めた。
談話室と保健室が扉続きになっている光景をリリアはともかく、この先輩に見られるのはまずい。ヴァロン先生からのお叱りも減らせるだけ減らした方がいい。
「どうしてここがっ、鍵は…!」
男の方は親の仇でも見たかのようにアッシュを睨む。
「アッシュ!」
リリアがアッシュに駆け寄る。あの様子、少し乱れたリリアのドレスからして、未遂であるとしても男が密室でリリアに迫ったことは見て取れた。
自分の後ろにいるように、と安心させるために腕を引いたが、リリアは何を勘違いしたのかアッシュの前に仁王立ちになり、武器として持っているらしい椅子を高く掲げたまま男を睨む。
「安心して、私が守るから。クライス先輩には近づいちゃダメよ」
……随分、頼りがいのある先輩もいたものだ。
後輩を必死に守ろうとする背中に驚く。
意表を突かれたのはアッシュだけではなかったようで、クライスと呼ばれた男は臨戦態勢を解いている。あちらにこれ以上戦う意思はなさそうだ。諦めた、というべきか。
「……はあ、なぜここがわかったのかわからないし、君にあの薬があまり効かなかった理由もわからないが、これだけ足止めしたんだ。クリスの愚痴を聞かされるのは面倒だが…ここが潮時かな」
ぽん、と談話室の鍵を投げ渡される。
「急に、なによ」
「なにって、二対一は分が悪いだろうってだけさ。ぼくだって椅子で殴られるのは避けられるなら避けたいしね」
肩を竦めるクライス。警戒したままだったが、アッシュが頷いたのを見て渋々リリアは椅子を下ろした。
「これで済むとは思わないことね。行くわよ、アッシュ」
できるなら、今すぐリリアを汚らしい目で見ているクライスを殴り飛ばしたかったが、舞踏会が優先である。殴るのは、舞踏会が終わった後でもできる。
固く拳を握り、我慢したアッシュはリリアの後を追って談話室を後にする。
自分だってショックな出来事があった後だというのに、リリアは気丈に振る舞っていた。それは、きっとアッシュがどこまでも後輩であるからで、彼女にとって庇護対象であるからだろう。
「あの男に何をされた」
「婚約か、既成事実か、って迫られたわ。けれど、結局私の椅子に恐れをなしていたわ。何もなかったわよ。暴れまわって、ドレスが乱れてしまったわね。少し着直すから、一度校舎のトイレに寄ってもいいかしら」
まるで何でもないことのように言われた事実に、怒りで頭が真っ赤に染まる。
「やっぱり殴ってくる」
「やめて。舞踏会が先よ。ただでさえ遅れているのだから」
ね、と窘められると何も言えなくなってしまった。
(もし)
(もし、俺が後輩ではなかったのなら、彼女に無理に気丈に振る舞わせることもなかったんだろうか)
少しだけ、自分が情けなかった。