14 準備
「お兄様、わかっているわよね」
クリスは爪を噛みながら、酷く歪んだ顔で兄を見た。
人の良さそうな笑みを浮かべるクリスの兄は、同じ伯爵家で育てられた双子だというのに随分性質が違う。
「あの子に、馬鹿にされたわ。許せない。あたしが伯爵家で、そっちが侯爵家だからどうとでもなると思っているのよ。きっと今もあざ笑い続けているに違いないわ。エスター・カンザスのお守りがついてるからって調子に乗って」
思い浮かぶのは、食堂での事件。
クリスは平民の女子生徒に罰を与えようとしただけなのに、男爵令嬢の女が割り込んできた。それだけならまだいい。伯爵家のクリスでは身分が違う。どうとでもできると思った。
けれど、公爵家の子息、エスター・カンザスのお気に入り、侯爵令嬢リリア・エンダロインは面白半分でクリスに突っかかってきた。
「きっと男爵家の女をエスター・カンザスのパートナーにするようにしたのも、あの女、リリア・エンダロインが一枚噛んでいるのよ。レティシアとか言っていたかしら…あたしが殴りかけた女を公爵家と組ませて、あたしを惨めにするのが目的なんだわ」
クリスが入学したとき、クリス以上に高位の女性貴族はいなかった。爵位で物事を見ていたクリスにとって、女子寮での頂点が自分であったことを意味する。取り巻きも今よりずっと多かった。
けれど、その天下はたった一年で崩れ去った。
一つ下に、リリア・エンダロインが入学したのだ。
クリスの取り巻きの半数は手のひらを返し彼女にすり寄ろうとしたが、彼女はそれを拒否した。惨めだったのは、あっけなく裏切られたクリスの方だ。
勉強も運動も爵位も、美貌でさえも、クリスはリリアに敵わなかった。
「そうかな、リリアさんはお前なんて興味ないと思うけど。忘れ去られているんじゃないか?」
「そんなわけないでしょう! あの女、普段争いごとは興味がありませんって澄ました顔してるくせに、あたしが偶々ちょっと気に入らない下級生におしおきしようとした時に首を突っ込んでくるんだもの。お兄様はどっちの味方なのよ!」
クリスの兄は、困ったように肩をすくめる。
今の興奮しきった妹に何を言っても無駄だとわかっているのだ。
「まぁ、安心すると良い。お前とぼくの目的は一致している。ぼくがお前の味方であることは間違いない」
「まぁ、去年もあたしが気に入らないって言った女が舞踏会に出られないようにするの、手伝ってくれたことだし、信用しているわ」
それから、と苦言を呈するように、兄の顔を見上げる。
きらりと反射する重たそうな眼鏡。はっきり言って似合わない。ダサい。とてもこれが双子の兄だとは紹介したくなかった。
「その眼鏡はどうにもならないのかもしれないけど、せめている場所は選んだら? いつまで経っても陰気臭い場所にいるから、匂いまで陰気臭くなってるんじゃない?」
「酷いな。ぼくは図書委員だから、図書館にいるのは当たり前だろ」
「はあ。まあいいわ。とにかく、計画通りにしてよね」
「わかってるよ」
皆が浮き立つ舞踏会前夜。
誰も気づかないほどゆっくりと、悪意の手が迫っていた。
※
「リリア! 早く起きなさい、今日は舞踏会よ!」
「う、ううん」
目を開けると、櫛を両手に構えたマリーナが爛々と目を輝かせていた。
「舞踏会は午後三時からじゃない。それまではお休みよ…」
「あっ、こらっ、寝るんじゃない! もう朝よ! 昨日の内に朝ご飯と昼ご飯は食堂で買っておいたから、今日は舞踏会直前まで部屋で籠れるわ。使用人だっていないもの。一人でやらなくちゃいけないんだから、いくら時間があっても足りないわよ」
そのやる気はどこからやって来るんだろう。
マリーナに叩き起こされ、そのまま備え付けのシャワールームに投げ込まれた。普段の何倍の時間もかけてスキンケアを施した後は、いよいよドレスに袖を通すことになる。舞踏会のドレスは基本的に一人で着れるようにはできていない。
どうしても最低もう一人の手伝いが必要になるため、マリーナとリリアはお互いにドレスを着せ合った。
「コルセットきつい…久しぶりに着たわ」
「いつもは制服だからね。リリア、また胸大きくなったんじゃない?」
「成長期だもの…」
ぎゅうぎゅうに紐を引っ張り合い、どうにかドレス、メイク、ヘアセットを済ませた時にはもう時計の針が十二時を指そうとしていた。
舞踏会前は少しでも細く見える為に何も食べないこともあるのだが、育ち盛りには辛い。普段に比べればずっと少ないが、マリーナの用意してくれた昼食を摘まんで一息つく。
「早くアルコールを摂取したいわ」
「ちょっとリリア、おじさんみたいなこと言わないでよ」
この国では、明確に飲酒し始める年齢は決められていないが、一般的には十五歳前後になると酒を勧められるようになる。流石に学園にアルコールの類は売られないので、こうしたイベントごとで飲めるお酒は貴重なのだ。
ザルでもないが弱くもないリリアは、こう見えて大の酒好きであった。一度目の人生でも、飲み過ぎないよう何度止められたことか。健康を酷く害するような量になる前に勝手に酔っぱらって寝てしまう都合の良い体であること、寝てもエスターが部屋まで運んでくれることを知っていたため、あとのことは気にしないで気持ちよく飲んでいた。
しかし、アッシュはリリアが寝こけてもエスターほど優しく対応してくれないだろう。飲み過ぎないようにしなければいけない。
マリーナと談笑していると、いよいよ時刻は午後二時半を回り、女子寮の前にはぞろぞろと男子生徒が集まり始めていた。
その様子を窓から伺い、マリーナと顔を合わせる。
「これを見るとそろそろって感じ。カイルはいた?」
「えーっと、もうすぐ来るんじゃないかしら」
パートナーを迎えに来た男子生徒の元に、ちらほら女子寮から女子生徒が下りてくる。照れくさそうに手を繋ぐ初々しい恋人から、友達の距離感のペアもいる。
「あっ、いた。じゃあ私、行くね。カイルって待たせると他の女の子を口説きそうなんだもの」
背のすらりと高い、しっかり着飾ったカイルを見つけたマリーナが、慌てて窓から離れ、部屋のドアノブに手をかける。
カイルがパートナーを差し置いて他の子を口説くことがないのは、マリーナが一番知っているはずだが、きっと早く側に行く口実がほしいだけなのだろう。
「……ね、私変なところない?」
──可愛い。
今すぐに飛び出していきそうだったのが、不安げな顔でこっちを見てくる。普段は自信満々だけど、彼女はこういうところでふいに憶病になる。
そしてそんな表情は、今のところリリアだけが見ることができた。
(まだ、カイルには見せてあげないわ。私の親友のこんな顔が見れるのは、私だけよ)
「似合ってる、安心して、マリーナは可愛いわ」
ほっと安堵の表情を見せたマリーナは、今度こそ部屋を飛び出していく。
アッシュを探すついでにマリーナとカイルが出会えていることを確認し、思わず笑顔になる。友達という雰囲気を出しつつも、二人の間にはどことなく甘さが漂っている。
良い雰囲気になれば、一回目の人生と同じように彼らはこの舞踏会で恋人になるはずだ。
レティシアとエスターが歩いているのも見え、二人が無事会えていたことに安心する。こちらは甘さの欠片もないが、エスターの完璧なエスコートは健在らしい。あと、本当に少しだけではあるが、エスターの耳が赤いように思う。遠くからしか確認できていないので確かなことは言えないが、エスターにとって今日は幸せな日になるだろう。
舞踏会が始まる三時ギリギリになると、女子寮前にいた生徒たちもずいぶん減る。既に合流したパートナー同士は舞踏会会場前に集まっているのだろう。
「アッシュ、遅いわね。準備に手間取っているのかしら」
一年生とは言え、粗方学園での舞踏会のルールは聞いているはずだ。
女子寮前にパートナーを迎えに行くことも、女子生徒はそれを待つことも、ルールには組み込まれている。
「もしかして、寝坊したのかしら」
寝坊して慌てるアッシュを想像すると、可愛くて少し待ってみようと言う気持ちになる。
けれど。
四時になっても、五時になっても、アッシュは現れなかった。