48:クッキー
増幅魔法で聞こえたクロエの声は、私にクッキーを食べるなと言っている。その一方で、しっかりクッキーを私に差し出していた。この矛盾が意味していることは……。
脅迫をされている。
このクッキーを私に渡し、食べさせるよう、命じられているのでは? でもこのクッキーには、もしかすると毒が含まれているのかもしれない。
「まあ、美味しそうなクッキーですわね」
「本当に。バターの香りが、ここまで薫っている気がしますわ」
マダム達の声にクロエは顔を引きつらせながら「とても美味しいです。ぜひ召し上がってください」と私と視線をあわすことなく、棒読みで告げた。
私は受け取ったクッキーとクロエの顔を見比べる。クロエは私と視線が合いそうになると、慌てて逸らす。その顔から表情がなくなっている。
「ここはお茶会の席ですし、いただいたクッキーは後で食べようかしら」
私の言葉に、クロエがこちらを見た。黒い瞳には困惑と絶望と苦悩が浮かんでいる。幼い少女がこんな顔になるということは、よほどのことだ。相当な弱みを握られ、従わないと……クロエではない。クロエではない別の誰かに、被害が起きるのでは?
もしもこの場で食べずに持ち帰るとなると、私がクッキーを食べない可能性もある。もし滞在している聖皇庁の出張所という名の大邸宅に持ち帰れば、毒見される可能性もあった。つまり私がここで食べないと、クロエは失敗したことになるのでは?
そしてまさかと思うが、クロエにこんな恐ろしいことをさせているのは……。
「あ、でも。せっかくですので、ここで一枚いただこうかしら?」
私の言葉に、クロエの顔に少しだけ安堵が浮かぶ。だが同時に自分がしようとしていることを再認識したようで、目から光が失われる。
どんな毒なのか。
食べたフリをして、苦しむ演技で誤魔化そうか。
そんなことを思いながら、クッキーの袋を開ける。
そこでよだれが垂れそうな顔をしたマヤと目が合う。
こんな緊迫した状況ではあるが、可愛らしい。
「マヤ第二王女様も、お一ついかがですか」
「いえ、この子は食べません! 美味しいと思うと、よそ様の物でも全部食べてしまう悪い癖がありますの。本当、困っているのですよ」
アナベルが、椅子から立ち上がりかけたマヤを、横から抱きしめる。
なるほど。そういうことなのね……。
正直、ショックだった。
神聖力であれだけ温まった体から、熱が失われていくようだ。
もしかすると他人の悪意を感じると、神聖力は薄れてしまうのかもしれない。
「あ、この子は食べませんが、クロエ様、あなた、自分で用意したクッキーなのですから。美味しいことをレミントン公爵令嬢に教えてあげないと。一緒に召し上がっては?」
アナベルに言われたクロエは、クッキーの袋に手を入れた。
二枚のクッキーを指でつまむと、一つを私に差し出す。
クロエもクッキーを食べるつもりなの?
まさか毒入りと承知で?
いや、毒が入っていないものを選んだ?
でもクッキーを取り出す時、迷ったり考えたりした様子はなかった。おそらくすべてのクッキーが毒入り。
「いただきます」とクロエは、いきなりもうクッキーを食べてしまった。無表情にクッキーを食べ、飲み込む。変化は……何もない。
「あら、クロエ、美味しくないのかしら?」
アナベルに問われたクロエは「お、美味しいです」と慌てて返事をする。そしてまだ持っていた私の分のクッキーを、こちらへ遠慮がちに差し出す。クロエの手が震えている。
クロエのような子供が食べても影響がないということは、毒ではなく、腹下しの薬でも混ざっているだけかもしれない。
とはいえ。
いくらクロエが食べたからと、何か仕掛けられたクッキーを、不用意に食べるわけにはいかない。クッキーをひとまず受け取り、転移魔法を使うことを決意する。クッキーをこの場から消す。
魔法の詠唱を悟られないようにするためと、クッキーを食べたフリをするため、一旦クッキーを口の近くまで運んだ。
「ピチィーック、ピチィーック」
師匠の鳥が近くまで来ているの!?
甘いバターの香りが鼻孔いっぱいに広がった。
次の瞬間。
世界があっという間に暗転した。