32:例えばそれは誰ですか?
行きと変わらぬ気配りで、オルゼアが私を馬車へ乗せてくれる。もしこれで彼が対面の席に座ったら、怒っているかもしれないと思ったが、そんなことはない。隣の席にちゃんと座り、普通に接してくれた。
「今日の夕食会、その後も、本当に驚きました。昨年はこんなことはなかったのに。なぜ皆さんは、あんなにわたしに声をかけるのでしょうか。しかも聖皇としてではなく、わたしの個人的な事情を知りたがるので、本当に困ってしまいました」
オルゼアが無自覚過ぎて驚いてしまう。冗談なのかと思いきや、本気でそう言っているのだと分かり、私がその理由を指摘すると……。
「そうでしたか。服装一つで、人の興味関心が左右されるのですね。ただ、私としては多くの方の関心をひきたかったわけではないのですが……。仕方ないですね」
そこで小さくため息をついた後、オルゼアは夕食会で出された料理について話し始めた。それは「カボチャのポタージュが美味しかったですね」や「魚料理に使われていた、マスタードをアレンジしたソースは、斬新でした」とか、とても他愛のない話。どうしてそんな、正直どうでもいい話をしているのだろう。
それは……私に気を使っているからだとすぐ理解した。
本当は私に聞きたいはずだ。なぜノクスにエスコートされ、エントランスホールに来たのか。なぜ初対面に等しいはずなのに、あれだけの愛情アピールをされているのか。夢のようなひと時とは、一体どんな時間を過ごしたのか。
きっと気になっていると思う。何せノクスは、オルゼアの命を狙う黒幕なのだから。
このまま私がノクスに懐柔され、敵に回るようなことがあれば、オルゼアとしては忸怩たる思いになるはずだ。
聞いてくれればいいのに。なぜ尋ねないのかしら。本当に、オルゼアは魔王ルーファスの生まれ変わりなの? 覚醒前だとこんなものなの?
「そしてその式典で出されるワインは」「聖皇様」
一瞬、沈黙し、オルゼアは「はい、何でしょうか、レミントン公爵令嬢」と穏やかに応じてくれる。
「先程は、皆様の好奇の目から私を助けていただき、ありがとうございました。あんな風に注目を浴び、誹謗中傷の言葉を聞かされるのは初めてのことで、とても驚き、ショックを受けていました。でも聖皇様のおかげで、気持ちが楽になったのです。心から感謝しています」
これはもう嘘偽りのない本心。素直に頭を下げると、オルゼアは優しく「顔をあげてください、レミントン公爵令嬢」と言ってくれる。
「わたしは良くも悪くも皆様の注目を集めてしまうので、あのように囁かれることには、慣れています。それにどう対処すればいいかも。ですからいつも通りにしたまでです。それにレミントン公爵令嬢は、わたしの大切なパートナーですから。そのパートナーがあんな風に言われては……放っておくわけにはいきません」
優等生な回答だなと思ったら……。
「スタンリー副団長は、最低だと思います」
「え」
「彼は年齢的にも、その地位と容姿からも、令嬢の注目が集まっているのです。それなのにあんな態度を表明し、意味深な言葉と笑みを残し、レミントン公爵令嬢を放置したのですよ。その場に共にいるならまだしも。もしくは共に立ち去るならまだしも。残されるレミントン公爵令嬢が、どのような目で周囲に見られるのか。思い至ることができない、浅はかな人間だと思いました」
まさかオルゼアがこんなことを言い出すと思わず、笑ってしまう。するとオルゼアは「笑いごとではありません!」と頑張る。
「レミントン公爵令嬢は婚約解消され、自由の身です。でも噂になるお相手については、しっかり吟味された方がいいと思います。そうしないと悪評が立ちますよ」
「なるほど。それはそうですね。でも私は館内で迷子になり、巡回していたスタンリー副団長に、エントランスホールまで送っていただいただけなのです。どうしてあんなに挑発的な態度をとったのか、それは誰に向けたものなのか、その理由は分かりませんが」
私の言葉にオルゼアは「なるほど」という表情になっている。ノクスのあの言葉と態度が、自身への嫌がらせのためだったと、気づいたようだ。
「それに噂になる相手はしっかり吟味した方がいい……とのことですが、例えばどのような殿方だと、悪評が立たないのでしょうか?」
これは純粋な疑問で尋ねていた。恋愛に自分が疎いこともあり、知りたいと思い、聞いてしまったのだけど……。
「……そうですね。それは……周囲から相応の評価を得ている相手で、不倫や横恋慕にならず、誰もが『ああ、あの方であれば』となる方だといいでしょうね」
「なるほど。例えばそれは誰ですか?」
「例えばそれは……わたし、とか」
オルゼアの頬がぽっと赤くなった。
社交界で色恋沙汰の噂になるならば。
悪評がたたない相手を吟味した方がいいと、オルゼアに言われた。それは誰かと尋ねると……まさかの「例えばそれは……わたし、とか」という回答を得てしまった。
冗談だと思った。
でもオルゼアの頬は、赤いままだ。
そうなると私も、顔を赤くすることになる。
え、どうしたらいいの!?
相手は魔王ルーファスの生まれ変わりなのよ。ううん、でも彼が覚醒したら、師匠のせいで私は彼にどうせ求婚される。それが少し早まっただけ……と思えば、焦る必要はないわよね?
というか覚醒前のオルゼアだったら、何の問題もない気がする。彼の不器用だけど底なしで優しい性格を、好ましく感じているのだから。
待って! そうではない。
完全にパニックで、冷静な思考ができない。
一度深呼吸して落ち着こう。
「聖皇様、今の発言には驚きました。婚約解消をしたばかりで、傷ついた私の心を癒すための御言葉ですよね。恐れ多いです。でも嬉しく思います。ありがとうございます」
オルゼアは何か言いかけ、そして黙り込むを何度か繰り返す。でも遂に私を見ると、その銀色の瞳を苦しそうに細め、こう尋ねた。
「レミントン公爵令嬢、今日、街であなたと過ごし、心の距離が縮まったように感じていました。それはあなたも同じように、感じてくださったのではないのですか?」
「そ、それは……」
「あなたの心に近づけた……と思っていたのに。でもあなたはそこからすぐにいなくなってしまいます。なぜ、ですか? わたしとあなたを隔てる、見えない壁の存在を感じるのです。勇気をもってそこを飛び越えても、あなたは……逃げ出してしまいそうで……。わたしの何が問題なのでしょうか?」
気づかれてしまっている。
オルゼアの前世は魔王ルーファス。それを思うと、今の彼をどんなに好ましく感じても、一線をひこうとしている。その私の気持ちに、オルゼアは気づいている……!
「わたしとの間に壁を作っているのに。あなたは何度となく、わたしの心に踏み込んでくるのです。わたしを狙う暗殺者から、懸命に守ろうとしてくれたり。孤児院や貧民街の人たちを助けたいと思うわたしに、ついて来てくれたり。そんな風に寄り添われたら、当然、わたしの気持ちは、レミントン公爵令嬢、あなたに向かってしまいます。それなのに……」
オルゼアは自身の手をぎゅっと握りしめ、瞳をきゅっと閉じ、そして声を絞り出す。
「壁に手を伸ばし、乗り越えようとしたら、あなたはわたしの気持ちを『恐れ多いです。でも嬉しい。ありがとうございます』で、片付けようとしています」
なんて答えればいいのだろう。でもその通りだった。
暗殺者からオルゼアを守るのは、まだ彼が魔王ルーファスとして覚醒していないから。何も悪さをしていないからだ。そしてあの貧民街へ共に足を運んだのは、オルゼアの志に共感した結果だった。
認めよう。
私は……好き、なのだ。
恋をしたことなどない私が、よりにもよって前世で自分を道連れにした魔王を好きになってしまっていた。あり得ないことだった。再会した時は処刑されたくないと思い、この魔王ルーファスの生まれ変わりを、利用しようとさえ思っていたのに。
それがどうして好きになってしまったのか?
……。
師匠のせいだ! 師匠が、ルーファスは私のことが、好みのど真ん中だったとか言うから!
……そうではない。師匠のせいだけではない。
師匠の話がきっかけだったのは、事実。それで彼を意識するようになったのも、嘘ではない。
それでもオルゼアを好きになったのは、私の意志だ。
結局、自分でもこの状態を持て余している。これはもう、はっきりこの状況をオルゼアに伝えるしかない。
「聖皇様、ごめんなさい」