31:ハラハラドキドキ
私がノクスにエスコートされているのを、オルゼアが見たら……。
落ち着かないと思う。何せ自分の命を狙う暗殺者の黒幕なのだ。それが自身のパートナーと一緒にいたら「どうして……」と思うだろう。
よってエントランスホールに入る前に、ノクスと離れることができたらと思ったのだけど。
「予定なんてありませんよ。恋人も婚約者もいませんから」
あっさりそう、ノクスに言われてしまった。
そう言われてから気づく。
どうして恋人や婚約者がいないのかしら?と。
百歩譲り、ノクスが私を好きだったとしても。私が転生しているなんて、分からないはずだ。いくらノクスが前世の記憶を取り戻し、私を好きだとしても、出会えなければ始まらない。私と出会える保障なんてないのだ。むしろ出会える確率の方が低いだろうから、恋人を作るなり、婚約をしていてもおかしくない。
「スタンリー様は二十三歳ですよね。なぜ恋人や婚約者を作らないのですか?」
私の問いは、ノクスに衝撃を与えたようだ。一瞬、彼の歩みが止まりそうになった。でもかろうじて止まらず、歩いているところは、さすがノクスと思ってしまう。
「自分には心に決めた相手がいます。その相手以外とは結ばれたたいと思えないのです。クレア様は、自分の父親が先代聖皇であることはご存知ですか? 父は聖皇妃ただ一人を心から愛し、隠居した後も母と二人、穏やかな余生を過ごしています。自分も心に決めた相手と結ばれることができれば、他には何もいらないのです」
心に決めた相手。
それって私のこと……なのだろう。多分。
これは私が転生していると分かったから、こんな言い方をしているのよね!? まさか私が転生してこの世界にいると分からないうちから、こんなことは言っていないわよね!?
そう思っているうちに、エントランスホールに到着し、そして――。
オルゼアがいる……!
エントランスホールにいてもなお、人々に囲まれている。よって姿を視認したわけではない。でもそこに聖官や聖騎士の姿も見えるのだから、間違いない。待ち合わせの一時間後までまだ十五分以上あるのに!
「スタンリー様、送ってくださり、ありがとうございます。おかげで助かりました」
私の身長で、ノクスの姿を隠すことはできない。それでもオルゼアの目につかないで欲しいと思ってしまう。それにオルゼアとは距離があり、彼は様々な人に囲まれている。私とノクスには、気づいていないと思う。それでも必死にノクスとオルゼアの間に入るようにして、ノクスのことを見られないようにと思っていた。
何より、もうエントランスホールに着いたのだ。ノクスにはこの場からすぐ、立ち去ってもらいたいと願っていた。
なぜなら。
ノクスの私への想いを知ってしまった今、彼がオルゼアを暗殺しようとする理由も、よく理解できていた。ノクスがオルゼアを暗殺しようとしている理由。それはオルゼアが魔王ルーファスの生まれ変わりであることに加え、恋敵であり、私を害したことへの復讐も含まれている。
つまりノクスは、オルゼアを心底憎んでいる……。
それが分かってしまったので、鉢合わせは避けたいと思っていた。
「クレア様」
ノクスが突然私の腰を抱き寄せ、耳元に顔を近づける。思わず悲鳴をあげそうになり、それを呑み込み、固まることになった。
「先程、話すと長くなる事情がある……と仰っていましたよね。自分は夜であれば、比較的時間が作りやすいので、そのお話、詳しくお聞かせください。あなたの様子を見て、声をかけさせていただきます」
ふわりと清潔感のある石鹸の香りをノクスから感じ、心臓がドキッとしてしまう。今、この瞬間をオルゼアに見られていてはと、ハラハラしながら「わ、分かりました」と返事をすることになる。するとノクスは……。
その場で片膝を大理石の床につき、私のドレスのスカートをつまむと、そこにキスをした。
これにはもう腰を抜かしそうになる。
この国では、騎士がこの姿勢でドレスのスカートにキスをすることは「愛しています。あなたが好きです」とイコールなのだ。勿論、これに対し、令嬢は表立って反応する必要はない。ただ周囲に、この令嬢のことを自分が好きだとアピールするために行われる行為だからだ。
ここはエントランスホールで、夕食会の会場やその隣室ほど人はいない。それにみんな、こんな隅で行われた行為だから、見ていないわよね。そう思い、ドキドキしながら周囲を見る。
「……!」
左斜め後ろに、聖官と聖騎士を連れたオルゼアがいた。
私はもう顔を引きつらせ、固まるしかない。
だがノクスはすっと体幹をぶらすことなく立ち上がると、余裕の笑顔でオルゼアに声をかける。
「こんばんは。オルゼア聖皇様。また今年もお会いできましたね。お元気そうで何よりです」
一方のオルゼアはかなり硬い表情をしている。だが一つ深呼吸をすると、微笑の聖皇に変わる。
「こんばんは。スタンリー副団長。今年もあなたがお元気そうで安心しました。近衛騎士団の副団長であるあなたに、幸があらんことを」
そう言ってオルゼアがその手をノクスに向けると、虹のようなオーラが彼の体を包み込み、周囲にいた人々から「おおおっ」「あれが聖皇様の神聖力!」「なんて美しい」と感嘆のため息が漏れる。
「ありがとうございます、オルゼア聖皇様」
ノクスはこれでもか!という程の極上の笑顔を浮かべた。これには周囲にいたご令嬢から甘い溜息が漏れる。このままノクスは立ち去ってくれるかと思ったのに。私の手をとり、甲へとキスをしてから、なんとも意味深な微笑みと共に「夢のようなひと時をありがとうございます。また必ずお会いしましょう」などと言ってから立ち去るものだから……。
周囲の視線があからさまに突き刺さる。
「レミントン公爵令嬢、こちらへ」
オルゼアは好奇の視線から私を庇うために声をかけてくれたと思う。でもそれは間違いなく逆効果。「なんですの、ライト様からあれだけの寵愛を示されているのに、聖皇様にエスコートされるなんて!」「レミントン公爵家なんて、西都の古臭い名門でしょ。時代遅れのくせに」「ライト副団長様と聖皇様を天秤にかけているの、あの公爵令嬢は。なんて生意気な」と、もうご令嬢達の羨望と非難の声が聞こえてくる。
正面切って本人には言わず、これ見よがしに囁くのが、貴族の皆様のやり方。これは三百年前と、全く変わっていない。
前世では森で暮らしていたので、こんな貴族とのやり取りは、観劇するような気持ちで眺めていた。まさに他人事だったけれど、当事者になると……キツイわ。
「レミントン公爵令嬢は、わたしのパートナーとして、無理をお願いし、この王都まで来ていただいています。もし彼女に至らないところがあれば、それは同伴したわたしの責任でもあります。思うことがあるならば、わたしに言ってください」
オルゼアの言葉に、ヒソヒソ声の令嬢達は、一斉に口をつぐむ。穏やかで優しく、微笑の聖皇と、オルゼアは評されている。その彼が語気を強めた発言をしたことに、皆、衝撃を受けている。
「剣で人が傷つくように、言葉でも人は傷つきます。皆様の言葉で誰かが傷ついていないか。よくよくお考えください。誰かを傷つければ、それは倍になってご自身に返ってきます」
微笑の聖皇語録という本が出るぐらいなのだ。聖皇の言葉は重みがある。自分に返ってくると言われた上で、心にやましいところがあれば、そうかもしれないと思い、自然と顔が青ざめる令嬢が続出だった。
「もしご自身の発言に後悔があるならば。今晩眠る前に、主に謝罪の言葉を捧げてください。二度と誰かを傷つけるような言葉を口にしないと、誓いましょう。……皆様に、幸有らんことを」
青ざめた顔の令嬢達が、既に謝罪の言葉を、祈るように呟いている。
「聖皇様、馬車がご用意できました」
「ありがとうございます。ではレミントン公爵令嬢、参りましょう」
「はい」
オルゼアに続き、私も会釈すると、その場にいた全員が会釈を返してくれる。これが聖皇だ。言葉だけで、その場の雰囲気を一変させてしまった。