29:矛盾
「では一時間後にエントランスホールで」と言うので、彼は精一杯だった。
その様子に無論、心が痛んだ。今の彼はただのオルゼアであり、魔王ルーファスとして覚醒していないのだから。純粋無垢で真面目な彼に、イエスとしか言えない言葉を投げつけた。
心の中で「ごめんなさい」と詫びると、部屋を出る。
後ろに聖騎士がついてくるかと思ったが、それもない。本当に、私が一時間、一人に、自由になれるようにしてくれたのだと理解する。理解したその瞬間。なんだか泣きそうな気持ちになっていた。
それは、いろいろと複雑な感情が混ざり合って生じた気持ちだ。
あんなに沢山の人達から話しかけられ、それを本心では好ましくないと思っているオルゼアを、一人残してきたことへの罪悪感。何より、好ましくないと感じている彼の気持ちを分かっているのに、残したことへの後悔。彼が辛い気持ちになると分かっているのに、でも彼をあの場に放置したのは自分だと自覚することで、自分自身への嫌悪感も募る。
何よりも矛盾しているのは。
オルゼアが、どこぞやかの姫君や令嬢と、恋仲になってくれればいい。そう思いつつ、恋仲になってほしくないと思う、自分がいる。その事実に困惑していた。
自分を道連れにした魔王ルーファスと、結婚なんてしたくない――はずなのに。
ルーファスとして覚醒していないオルゼアに対し、なぜか好感度が上がっている。
このモヤモヤした気持ちは、どうしたらいいのかしら。
気づけばどこをどう歩いて来たのか。しかも階段をぐるぐると上り、四階まで来てしまっていた。夕食会の会場も、その後の談話のために解放された部屋も、すべて一階だった。
とにかく階段を降りよう。一階へ行こう。
もうエントランスホールへ行き、そこにあるソファに、おとなしく座って待っていよう。
そう思い、ふかふかの赤い絨毯を踏みしめ、同じ絨毯がしっかり敷かれている階段をゆっくり降りた。丁度、ランディングスペース(踊り場)に降り立ち、壁に巨大な絵画が飾られていることに気づく。
シャンデリアの明かりは、最小限で灯されている状態だった。絵画に描かれた人物たちは、窓からの月光で、幻想的に浮かび上がっている。
この一番左にいる人物は、体格のいい赤髪。筋肉ムキムキだ。間違いなく、ドワーフのトッコね。そうなると一番右にいるのは、エルフのフォンス。長身で光り輝くようなホワイトブロンド。エメラルドグリーンの瞳に雪のような白い肌。明るさが足りず、ハッキリ見えない。だが深緑のマントの下は、若草色のエルフの騎士の隊服が、描かれているに違いない。
そうなるとこの中央の、碧いマントで美男子として描かれているのは……ノクスね。
ノクスはスチール製のアーマー一式に、セレストブルーのサーコートという姿。既に王家の紋章が描かれているということは、魔王討伐後の姿を描いているのかしら? そうなるとこの隣にいる女性は……王妃様よね?
月光を受け、ホワイトブルーのドレスを着ているように見えるが、もしかしてこれはウエディングドレスなのでは?
王妃様の姿絵は、他の絵画や教科書でも見たことがある。シルバーブロンドに、紫がかったピンク色の瞳を持つ美しい女性だ。名前は確かミリア。ノクスと婚姻するにあたり、改名したのよね、確か。前世の私の名前と似ているから、なんだか親近感がわく。
これはノクスの結婚式を描いた絵ね。
もしも私が、魔王ルーファスに道連れにされていなかったから。『魔王討伐の勝者達』というタイトルで、この四人の構図で王妃様の位置に、私が描かれてもおかしくなかったのよね。
『魔王討伐の喜びの瞬間』と題された多くの絵は、トッコ、ノクス、フォンスの三人が描かれたものばかり。三人が肩を組んで満面の笑顔のものや、フォンスがノクスの肩を抱き、トッコとノクスがハンドシェイクしている絵を、よく見た。
ルーファスの道連れにされた私は、悲劇であり、不穏の象徴。よってなかなかこの三人と共に、描いてもらえない……。教訓的な絵には『油断大敵』というタイトルで、勝利に喜ぶ三人の後ろに、地面に倒れる私の姿が描かれていたりするけど……。
腕組みして、思わずこの巨大な絵画とにらめっこしてしまった。
一階へ行こうとしたまさにその時。
「その絵は“Hidden meaning arts(隠された意図を持つ絵)”と言われているのを、ご存知ですか?」
なんだかドキリとする言葉をかけられた。しかもその声を、私は知っている。
ゆっくり声が聞こえた左手の階段の上を見た。
横に流すようにした、サラサラの碧い色の前髪。その前髪の下には、キリッとした意志の強さを示す眉が見える。長い睫毛に縁どられている碧眼の瞳が、私に向けられていた。鼻梁の通った鼻筋に薄い唇。整った顔を支える、丁度いい太さの首を隠すような立襟、そして鍛えられた体を包むのは、コバルトブルーの軍服だ。濃紺のマントを揺らし、階段を一段ずつ踏みしめ、降りてくるのは……ライト・アーク・スタンリー、そうノクス!
まさかここで会うなんて。
師匠に橋渡しを頼んでいないので、完全に偶然の再会だ。
どうしよう。心の準備がまだできていない。
前世での仲間であり、盟友。
でも今、ノクスはオルゼアの命を狙う暗殺者の黒幕……。
そして私は今、オルゼアのパートナーとしてここにいて、かつ暗殺を阻止していた。
「レディ、突然こんな場所で声をかけてしまい、申し訳ありません。自分はライト・アーク・スタンリー、リアス王太子様の近衛騎士団の副団長です。この四階は、『王太子のフロア』と呼ばれ、リアス王太子様の図書室や娯楽室が置かれています。ゆえに巡回の一環で自分はここにいますが、レディは建国祭の招待客ですよね。ここへは……迷われて来たのですか?」
ライト副団長……ノクスは私が覚醒していない前提で話しかけている。
それならば私は……様子見だ。
「そうなのです。夕食会で食べ過ぎてしまい、散歩をしようと庭園へ出ることも考えましたが、寒いので、館内をウロウロしていたのですが……。考え事をしていたら、こんなところまで迷い込んでしまいました。今、まさに一階へ降り、エントランスホールへ行こうと思っていたのです」
「なるほど。そうでしたか。では自分がご案内します。困っているレディを助けるのは、当然のことです」
ランディングスペースに降り立ったノクスと、向き合う形になった。
あの頃と……変わらない。
ううん。変わった。魔王討伐の頃より、ノクス、あなたさらにかっこよくなったわ。
最期に見たのは、彼の泣き顔だった。
あの時はそんな彼を残し、逝かなければならないことを心苦しく感じたけど……。
死というのは、一瞬の出来事。
その瞬間に、すべてが終わる。
何もかもそこで止まり、消える。
意識も感情も何もかも。
「……レディ、どうされましたか」
ノクスの指が頬に触れていることで、自分が涙をこぼしていることに気づいた。
「し、失礼しました。どうしたのでしょう。目にゴミで入ったのでしょうか」
慌ててハンカチを出そうとする。だが先に自身のハンカチを取り出したノクスが、私の手に、肌触りの良い布を握らせてくれた。
「ありがとうございます」
「この絵を随分長い間、眺めていましたよね」
涙をハンカチで押さえるようにしていた私は、ドキリとすることになる。一体いつからノクスに見られていたのだろうと。
「この絵は先ほどお伝えした通り、“Hidden meaning arts(隠された意図を持つ絵)”と言われているのです。何が隠されているか、気づきましたか」
「この絵は、初めて拝見させていただきました。隠された意図があることも知りません」
そう答えながら再び絵を見る。幸せな結婚式の瞬間を描いた絵画にしか見えないのに。
「ここに描かれている人物たちが、誰であるか分かりますか?」
それはさすがに皆、分かるだろう。教科書でこの四人の姿絵や肖像画を、子供の頃に絶対、一度は見たことがあるはずだから。「分かります」と答え、私がそれぞれの名前を伝えると……。
「そう、それが表向きの見え方です」とノクスは答える。
表向きの見え方? では他にも意図があるのかしら?
そうよね。あるからこその“Hidden meaning arts(隠された意図を持つ絵)”。
でも……何かが隠されているの……?