26:どうして……
トミーとジュリエットに見送られ、歩き出すと、オルゼアがあの微笑の聖皇になる。変身魔法で別人になっているのに。リックという姿の微笑でも、聖皇の微笑みに見えるのは不思議だった。
「ロゼは正しいお金の使い方を、知っているのですね」
「え……」
「一方的な援助では、自立が望めないですからね。貧窮から脱するためには、負のサイクルから抜け出すこと。ロゼはそこをちゃんと分かっているのですね」
「そんな深く考えたわけではないです。ただ、物語を聞かせてもらったので……」
そこで物語を聞かせてもらった経緯を、オルゼアに話すことになった。
「なるほど。ロゼの前世は、捨て子だったのですか。……でも難解な魔法の話であれ、ロゼのために話をしてくれるような親切な方に、拾ってもらえてよかったですね」
「まあ、そうですね」
今頃、師匠がくしゃみをしてそうと思い、半笑いになってしまう。
「おい」という声が聞こえた時は、師匠に声をかけられたのかと思い、飛び上がってしまった。飛び上がった私にオルゼアも驚き、でも声の方をすぐに見て、その表情が硬くなる。オルゼアの表情に、私も何事かと思い、振り返ると……。
なんだかガラの悪そうな男性五人が、後ろに迫っていた。
オルゼアは私を背に庇うようにし「なんの用でしょうか」と尋ねる。すると五人を代表するように、一番人相が悪そうな男が「この辺で見ない顔だ。何をしに来た?」と聞いてきた。「わたしは医者の卵なので、具合が悪い人がいると聞き、容態を確認しに行っただけです。もうここから立ち去りますから」とオルゼアは落ち着いた口調で返事をする。
「病人。そう、病人。うちにもいるんだよ。見てくれよ、兄ちゃん!」
絶対に嘘だと思った。私は魔法を詠唱しようと口を開けかけたが。
「うぐっ」
背後から口を押えられ、腰を抱き寄せられた。一瞬アルコール臭さを感じ、鳥肌が立つ。
「ロゼ!」
私の呻き声に、オルゼアが振り返った瞬間。
あの一番人相の悪い男が、オルゼアに殴りかかった。
倒れたオルゼアに、五人がかりで殴りかかろうとしている。
一方、私の口を押えた男は、ワンピースのポケットをまさぐり、コインの入った巾着を取り出そうとしていた。
そうはさせない!
口をこじ開け、男の手に噛みつく。
「いたっ」
「増幅魔法 強風爆風」
オルゼアに殴りかかろうとした五人は、私の魔法で数メートル後方に吹き飛ばされる。
「この女、魔女か!?」
私が手に噛みついた男は、そばにあった角材を、私に向けて振り下ろしてきた。
魔法を詠唱しようとするが、間に合わない!
頭と顔を庇うように腕をあげたると、ドスッという音と「ぐふっ」という声がした。
驚いて腕をおろすと、素早く起き上がったオルゼアが、角材を持った男を蹴り飛ばしている。
すると今度は、先ほど吹き飛ばした五人の男が手にナイフや棒を持ち、こちらへ迫って来た。
「防御魔法 火炎防壁」
私達と男達の間に炎の壁を作り「逃げましょう、リック!」と叫ぶ。オルゼアが私の手をとり、走り出す。
「!」
先程オルゼアが蹴り飛ばした男が、私の足首を掴んだ。転びそうになる私をオルゼアが受け止めてくれたが、今度は炎の壁に阻まれた男達が、石を投げてきた。
「あぶない!」と叫んだオルゼアが、覆いかぶさるようにして、私を庇う。鈍い音がして、石がオルゼアに命中しているのが分かる。オルゼアは痛みに耐え、私の足首を掴む男の顎を蹴り、気絶させた。そして私の手をとると、立つのを助けてくれる。
その後はもう無我夢中で走り、貧民街を抜けることになった。
元いた川沿いに着いたが、まだ追ってくる不安があったので、広場まで引き続き走り続ける。ようやく屋台が立ち並ぶ場所に到着し、立ち止まることになった。もう二人とも全力疾走した直後なので、声を掛け合うこともできない。
だがオルゼアと目が合った瞬間。
彼は泣きそうな顔で、私をぎゅっと抱きしめた。
オルゼアに、魔王ルーファスの生まれ変わりに抱きしめられているのに。
抵抗する気にはならなかった。
「助かった……!」という安堵の気持ち。
あの恐怖を二人で乗り越えられたという感動。
助けてくれたことへの感謝。
様々な想いが胸にこみ上げ、私もオルゼアの背に手を回していた。
「ロゼ、ごめんなさい。あなたをあんな危険な目にさらした責任は、わたしにあります。あのような場所に行くなら、わたしが一人で行くべきでした。怖い思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「私は大丈夫です。私より、リック、あなたのほう」
「わたしはどうとでもなります! ロゼ、どこか痛む場所はないですか!?」
そう言って私から体を離すと、改めてオルゼアが私の顔を覗き込んだ。
その瞬間、彼の瞳からポロッと涙がこぼれ、震える手で私の唇に触れる。
「唇が……切れていますね。痛みませんか」
そう言われると口の中に血の味がした。さらに痛みも今さら感じることになる。さっきまでは逃げることに必死で、そこまで頭が回らなかった。
「今、癒しますから」
オルゼアの指が触れている辺りが、ぽわっと温かく感じる。同時に痛みも収まった。
「足首は大丈夫ですか?」
そういえば足首を掴まれ、転ぶところだったことを思い出す。
「そこに座らせてもらいましょう」
街路樹があり、そのそばに石のベンチがあった。老婆が一人座っていたのだが、オルゼアが丁寧に声をかけ、隣に座らせてもらえることができた。私が腰をおろすと、オルゼアが片膝を地面について跪き、ブーツを履いたままの私の足を持ち上げる。
さらに「失礼します」と言ってから、ゆっくりブーツを脱がせようとする。「じ、自分で脱ぎます!」と言うと「いえ、わたしが」とオルゼアはあっという間にブーツを脱がせてしまった。すると相当な力で掴んだのだろう。男の指の形が分かるぐらい、足首に赤い痕が残っていた。
それを見た時のオルゼアは一瞬、顔から表情が失われている。彼が心底怒っていることが伝わってきた。「痛みはないですよ」と声をかけると、ハッとした表情のオルゼアが、すぐに足首に手をかざす。唇の時と同じように、ぽわんと温かみを感じ、赤い痕が消えていく。
「ありがとうございます」と伝えると、「いえ、こんなことぐらいしかできなくて、申し訳ないです」と視線を落とし、ブーツを履かせてくれる。
「こんなことをできるのは、リックだけですよ」
「レ……ロゼ、あなたは本当にお優しいですね」
そこでオルゼアは私を見上げて尋ねる。
「あの恐ろしい男達のことを思い出し、眠れなくなるかもしれません」
それは確かにあるかもしれない。魔王討伐の旅では、モンスター相手に戦うことが多かった。稀に盗賊や山賊に襲われることもあったが、私が動く間もなく、皆がこてんぱんにやっつけてくれた。よって人間に、あんな風に直接的に襲われたのは……初めてだった。
「眠れなくなる。それは……そうかもしれないですね」
「わたしの力は、心や精神的なダメージにも効果があります。……ロゼの頭を、抱きしめてもいいですか」
「あ、はい」
すると立ち上がったオルゼアは少し身をかがめると、ふわりと私を抱き寄せた。
さっき、逃走を終えた直後。
既に抱きしめ合っていた。
あの時、特に何も問題なかったので、今も大丈夫だと思ったのだけど……。
さっきはぎゅっと抱きしめられた。
でも今は違う。
ふわりと抱き寄せられ、その優しさに、なぜだかキュんとしてしまった。さらに壊れ物を扱うように頭に手が触れ、私の顔は彼の左胸にもたれる状態になる。もっと穏やかで、落ち着いているのかと思った。だがオルゼアの心音は、とても忙しそうに鼓動している。
「……!」
私の頭にオルゼアがキスをしている……?
でも手が触れている後頭部。キスをされている頭頂部。その両方から温かみを感じ、次第にドキドキしていた心臓が、通常状態へと戻っていく。
オルゼアからは、あの甘い香りが感じられた。次第に心が和らぎ、全身から力が抜け、完全にオルゼアに身を預けている。
ずっとこうしていたい。
今、この瞬間、世界から音が消えた。
オルゼアの優しい心音しか、私には聞こえなかった。
どうして。
こんなに優しい人が、あのルーファスなの?
このままオルゼアが、覚醒しなかったからいいのに。
ずっと今のオルゼアのままだったら、いいのにな。
そうしたら私、彼とだったら……。