ありがとう 36
「最近耳が遠くなってな。聞き間違いだろうか? 今、大学を中退したいと聞こえたが?」
父が、実家の居間の座椅子に座ってそう言った。
僕とルミは、両親と差し向いの位置で正座をして、畳に頭を擦り付けている。
「もう、お父さん。そうやって嫌味な言い方をしないの」
父の隣で座布団の上で正座をしている母が、苦言を呈する。
ルミの妊娠が判明した数日後、僕たちは、先ず僕の実家に向かい、僕の両親に一連の報告をした。
「お父さん。もう一度言います。お付き合いしているルミさんを妊娠させてしまいました。この上は、大学を退学し、結婚をして、真面目に働くつもりです。どうか許してください。」
「なぜ、避妊をしなかった?」
「え?」
「避妊をしていれば、このような事態は防げたはずだ。なぜ避妊をしなかったと聞いている」
変らないな。昔から僕の父は、真面目で、頑固で、物事をオブラートに包んで話すことが出来ない。
「お父さん! なぜあなたはそういう言い方しか出来ないの! ルミちゃんが困っているじゃない!」
「……しかし、母さん……う~む」
母が、声を荒げて父をたしなめる。父が黙り込んでしまった。自他ともに認める堅物の父だが、母だけには頭が上がらない。僕が女性に尻に敷かれるタイプなのは、父譲りだ。
重い沈黙。僕とルミは、両親に土下座をし続けている。
しばらくすると誰かのすすり泣く声が聞こえた。
「くううう。わしは、悔しい。死に物狂いで働いて、やっとの思いで一人息子を一流の大学に進学させたというのに……」
父の声だ。
まさか、父が泣いてるのか?
僕は、慌てて顔を上げた。
父の泣き顔を見るのは、はじめてだった。
どうしよう。こんなに悲しませるとは思わなかった。
こりゃあ、とてもじゃないけど、あと65回「ありがとう」を言ったら、あなたの息子は死にますなんて言い出せないな。
「大学を中退すること。ルミさんと結婚をすること。二人で子供を産んで育てること。どうか許してください!」
僕は、あらためて頭を畳みに擦る付ける。
「許してください! お願いします!」
ルミも、僕の後から、大きな声でそう言った。
「……よかろう。許してやる」
父がぼそりと呟く。
「え? 今なんて?」
「大学を中退すること。結婚をすること。この二点については、許してやる」
「あ、ありがとうございます」
……余命、あと64回。




