★21★ 風前の灯火に甘い祝福を。
マーロウにジーク達への伝言と変更になる手順を教えたところで大急ぎで追ったものの、思い切りの良いアリアはこちらの想像よりもずっと早く自らの終わりへの行動に移した。
崩れて半分しか笑みの形にならなかった血色の悪い唇から零れる吐息は、絹糸のようにか細く夜闇の中を登っていく。これ以上その頬肉が崩れないよう添えた手は分泌液と涙でグチャグチャだ。これだといつものやり方では腐敗を止めることも出来ない。
「……死にかけのくせに、随分と上等な殺し文句をかけてくれるじゃないか。この馬鹿弟子」
遅いという抗議のつもりか背中を蹴ってくるクオーツの力が強すぎて、鉤爪がコートどころか皮膚まで達した。チリリと微かに痛みが走るが、今夜くらいは多めに見てやっても構わないだろう。この死にたがりの命を保たせてくれた。それだけで充分だ。
「クオーツ、これからこの馬鹿弟子を助ける術を構築するから、邪魔が入らないように周囲を見張っていなさい」
そう命じると、人類から最強種と畏怖されるレッドドラゴンは一声「キュルルル……」と鳴いて。崩れたアリアの頬を一舐めして屋敷の方向へと意識を――いや、殺意を集中させた。その気配を肌で感じながらアリアの頬に触れる。
溶かした飴のようなドロリとした熱と感触は、すぐに空気の冷たさに負けてスライムか、熱しすぎたジャムのような感触になっていく。それでも、その唇は呪いの言葉を吐いた時のまま甘やかに微笑む。
本当に、全くもって皮肉なことに、昔から命の消える瞬間に見せるこの娘の様の、何と醜く尊いことか。長く生きれば生きるほど失うものは多くなる。その大半は純粋に関わった者や景観などのことがほとんどだ。だからここまで面倒なものを拾って手許に置いたのはこれが初めてだった。
「それが勝手に飛び出してこの短時間でボロボロにされて、馬鹿馬鹿しいったらないじゃないか。なぁ、おい?」
取り繕わない素の言葉に違和感を覚えるほど傍にいたのだ。こんなちっぽけで、惨めで、憐れな、死にたがりの傍に。
「今際の際に吐いた言葉が嘘だとは思えないが……あまり気は進まんな」
これだけ長く傍に置いたとはいえ、こんなことがなければそろそろ手放す頃合いだと思っていた。齢千年近い化け物に育てられたとしても、人間のままでいさせてやりたい。それが師として慕われてきた自分がなすべきことだ。しかし――。
「死なせるよりは、マシか」
誰に意見を求めるわけでも、ましてや目の前で死にかけているアリアへ赦しを乞うつもりもない。何よりもう時間がない。諦めて自分の服の襟を緩め、心臓の上にナイフの先を浅く滑らせる。肌を裂く痛みを感じたことなど、かれこれいつぶりだろうか。
溢れる血に絡みつくやたらと長い座標に呆れつつも、人間でも精霊でもないこの身に初めて感謝した。自己主張の強いそれをナイフの先から舐め取り、アリアの唇が崩れないようそっと親指で開かせる。
直接この血液を体内に入れれば負担になるだろうから、舌先で転がしながら術式を編む。思い描くイメージは雪の一片。ひんやりしたアリアの唇はカサついていて、いつもの間の抜けた声も食い意地も感じさせなかった。
騒がしい憎まれ口を聞きたいだとか。
生意気に説教してくる声が聞きたいだとか。
手料理を食べさせるたびに美味しいしかない語彙を笑いたいだとか。
わたしの見てくれを褒めるわりにはあまりそこを重視していないところだとか。
少し触れただけでギクシャクするくせに変なところで遠慮がないところだとか。
「片付いた生活に慣れて八年だぞ。もうゴミ屋敷に住むなんて出来ない。そうだろう?」
この娘のそういうところに随分と絆されていたのだと。今更ながらに思い知らされた。小さな口の中に流し込む術式と血と唾液で細い喉が嚥下する。しかし一度くらいでは少しも足りないのだろう。顔の爛れは僅かに浸食を緩めた程度だ。
「ふん、初めてのキスが血の味とは運がない」
唇を拭ってやりながら呟いた軽口に返ってくる反応はない。仕方なく今度は一度目より口に含む血液を増やして、乗せる術式を多くした。一片の雪がいつしか積もるように。拒絶反応が出ないよう細かく、静かに、アリアの体内を構築する座標を塗り変える。途中で恐らく噛み締めすぎて砕けたのだろう奥歯にも失われた座標を書き加えた。
二度、三度、四度――……重ねる唇に多少なりとも罪悪感を感じ始める頃、やっと状況は呪いによる浸食から座標を塗り変える術式による治癒へと転じた。焦らないようゆっくりと慎重に流し込むこと一時間。アリアの蝋のように白かった頬にほんのりと血の気が戻ったことを確認して唇を拭う。
「まぁ美人には程遠いが――……愛嬌のある間抜け面で悪くない、か」
少なくとも諦観の笑みも絶望の涙も似合わないなら、見慣れたこの顔の方がずっとらしい。幸せそうに左右対称に持ち上がった口角を親指の先で撫で、何となく意味のない口付けを落としてみると、その緩んだ唇から「んふふ、くすぐったいよ……クオーツ」と間抜けな寝言が溢れた。すると呼ばれたクオーツが飛んできて懸命にアリアの頬を舐め始める。レッドドラゴンというよりは忠犬だな。
「ちょっとクオーツ、これからお仕置きに行くんだから起こさないで」
「ギャウ、キュークルルル、ギュギュウ!」
「あたしはアリアじゃないからあんまり詳しく分からないけど、案内と落とし前は任せろって言いたいのね?」
「ギャギャッ、ギューッ!」
「殺る気満タンね。でも駄目よ。あんたはここでこの馬鹿娘とお留守番」
「ギャギャウッ!?」
「当たり前でしょう。こんな敵地のド真ん中にこの子だけ置いていける訳がないじゃない。そうでなくても凍え死ぬわ。良いこと? あんたはガーディアンなの。あたしがアリアをこうした連中にたっぷりお返しして戻るまで、どれだけ屋敷が賑やかでも来るんじゃないわよ」
そう告げてもまだ不満気なレッドドラゴンに、万が一屋敷から逃げて来る人間がいたら食べて良いと言えばようやく納得した。しかしながら当然誰一人逃すつもりはない。不肖の弟子が命を削って作った檻だ。ならばそれを完璧な形で処理するのは師の役目。
「帰ったらうんとご馳走作って祝うわよ。呪い避けは今夜限りで廃業だ」




