*20* 風前の灯火に甘い呪いを。
※流血表現あります。
苦手な方は完結してからここを跨いでお読み下さい。
血生臭さと腐臭の漂う地下牢だったものを跨ぎ、壁にかかった獣油製の質の悪いちびた蝋燭の火を頼りに、ボロボロの石階段を上る。いつ頃ここに閉じ込められたのかも思い出せないけれど、この上に繋がっている屋敷が生家だなんていまいちピンとこない。
私にとっての家はあくまでも師匠と暮らしたあの〝汚城〟だ。ここに至ってまだ両親の顔も思い出せないなんて、もしかしなくても情なしなのかもしれない。そんなことを考えながら最後の一段を登りきり、幾つも鍵のかかったドアノブを紳士的なドラゴンが引っこ抜いて意味をなさなくした。
「んふふふ……流石はクオーツ、可愛いふりしててもレッドドラゴンですなぁ。こんな鍵なんてないも同然だね」
「ギャウッフッフ」
牙を剥き出して得意気に笑うクオーツを胸に抱き直し、ポッカリ開いたドアノブのついていた穴から外を覗く。当然だけど深夜のこんな気味の悪い場所近くには誰もいない。見張りもいないのは、あの状況の子供達が逃げ出せないことを知っているからか。
そう思った瞬間、胸の奥でドス黒い気持ちが吹き荒れる。ポタッと抱きしめたクオーツの頭の上に水滴が落ちたので慌てて眼帯を抑えた。色々まずい物が滲んできてる気がするぞ。何となくだけど怒りで気分が高まったから、呪いに感知されやすくなったのかもしれない。
「あーあーあー……汚しちゃってごめんねクオーツ。抱っこより肩に乗るか飛んでくれた方が良いかも」
「キュルル、クー!」
「気にするなって? あ、しかも自分で飛んでくれるんだ。優しいなぁ相棒は」
腕の中からすり抜けて隣に浮かんでくれるクオーツに「急ごっか」と告げれば、何を思ったのか顎下の辺り、少し周囲のより大きい鱗をむしって手渡された。他のよりやや分厚く、艶もあって綺麗だ。
「もしかしてお守りにくれるの?」
「ギュウ、ギャウギャウゥ」
「そっかぁ、ありがとうね」
渡された鱗を指の腹で磨いて懐に大切にしまい込み、明かりの落とされた廊下を歩く。清潔な床。臭いのしない空気。月光を拾い上げる大きな窓。さっきまでいた地下とは別世界だ。せっかくクオーツから綺麗な鱗をもらったのに、黒い胸の靄はどんどん大きくなっていく。
足音を殺して人気のない角の大きな窓に近付き、周囲を窺いつつ鍵を開けて外に出る。人がやってくる気配もない。一面雪で真っ白だから何が植わっているのかさっぱりだけど、アーチとかバードバスも何もないしお客から見えない裏庭かな?
もしも今が明るい時間帯なら、もしも雪の降っていない時期だったなら、錆びついた記憶の鍵が壊れて何か思い出せたかもしれないけど、残念ながら今夜はそのどちらも併せ持つ最悪なお日柄なので、一帯を消炭にしても一切悔いはない。
火の気がなかったから取り立てて暖かかったわけではない屋敷の廊下でも、一歩外に出れば白い息が溢れた。月がなければ真っ暗だったろう庭は、静かに降り注ぐ月光のおかげでほんのり明るい。
――サクッ、サクッ、ギュッ、ギュッ。
館の全体が見える位置まで移動すべく雪を踏みしめて歩きながら、ふとこの季節は夜に師匠と森で雪虫を捕まえたことを思い出す。
雪虫は名前の通り雪の表面に擬態する精霊未満だと師匠は言っていた。それを空き瓶に閉じ込めて持ち帰り、師匠の構築する魔術で撚って糸にする。そうして氷結に対する耐魔能力を付与するその糸は、魔導師や魔術師達が着るローブの刺繍に用いられるのだ。
生け垣か何かの上に積もった雪を一掴み手に取り、爛れて痛む顔の左半分に当てた。冷たくて気持ち良い。でも直後に白さを失った雪が足許を汚していく。その染みを足で踏み潰してさらに進む。
「今頃……師匠、怒ってるだろうなぁ」
「キュウゥゥ……」
「まぁ、もう会えないから怒られないけどね。クオーツは仲間が待ってるあの山に戻るんだよ。あそこの王様なんだから。そしたらもう、人間のいるところになんて降りてきちゃ駄目。危ないからね」
隣を飛ぶクオーツにそう言い聞かせたものの、相棒はお気に召さなかったのか、フスッと火花の混じった鼻息を吹いた。一瞬その銀世界にパラパラと舞う火花に見惚れて足を止めたけど、再び歩いて館全体が見える場所まで遠ざかり、両手で額縁を作って悪魔の棲む屋敷を囲い込んだ。
「画角、よーし。魔力の流れ、よーし。殺意……よーし」
若干間延びした最終確認。聞いているのは最後まで付き合ってくれる優しい相棒だけだ。ゆっくりと大きめの深呼吸を一つ。師匠に教わってきたように血液に魔力を循環させる。
両手で作った額縁に収めた屋敷を構築する全てを覆い尽くせるように、一本ずつ丁寧に撚った魔力の糸で籠を編む。編み目は常とは比べものにならないくらいに細かく。水も掬えそうなくらい堅く。通れるのは空気だけと念じて。
ただでさえ少ない魔力がごっそりと失われて膝から力が抜ける。でも、まだだ。もっと大きく、膨らみを持たせて堅く。不可視の籠で屋敷を覆う。酷い頭痛と吐き気と目眩に続いて、プチプチと血管が切れる音がする。
目の前が赤い。顔が燃えてるみたいなのに、手足は凍えるようだ。鼻から流れる血が口に入って不快。ふらつく私を師匠くらいの大きさになったクオーツが支えてくれるものの、口が動いているのに声が聞こえない。耳もやられたのか。
でもまだ全然足りない。
倒れてなんてやらない。
犬死なんて誰がするか。
あいつら皆、道連れだ。
体内から迫り上がってくる熱を吐き出したら、なんてことはない。血液だ。魔力の循環に使えなくなった血液が邪魔になったから肉体が捨てている。それだけだ。クオーツの鉤爪が肩に食い込む。前後に揺さぶられる。それでも止めない。ごめんね相棒、もう目もほとんど見えないから、どんな顔してるのか分かんないや。
あー……師匠のデッキブラシ持ってきたら良かった。媒介がないとこんなにしんどいのか。もうどこが痛くないのか分からない。違うな、どこもかしこも痛い。でもこれだけ全身が痛かったら、もう顔の痛みは気にならないな。
自分を構築する座標のほとんどを使って、そうしてようやく私が入れるくらいの綻びを残した籠が編み上がった。
「くおー、つ、かごに、つれて、て、」
ドラゴンは自分と同じ属性のものでは死ねない。レッドドラゴンであるクオーツなら、あの屋敷が灰燼に帰してしまう炎も平気だ。だから――。
「わたし、ごと、ぜんぶ、も、や、して、」
師匠の汚点になりたくない。
私はあの人の弟子じゃない。
私はもう弟子でいたくない。
私はあの人の……記憶でいい。
「るーかす、さま」
拾われてから一度も呼ばないようにしていた名前の、なんて心踊る響き。これでもう、どんなところにこの魂が沈んでも寂しくない。その時不意に頬が温かいものに触れた。きっとクオーツが舐めてくれてるんだと思ったら嬉しくて。これが最後になるだろうから、ずっと飲み込んできた内緒の言葉を使いたくなった。
「あいして、る、」
あの人だけには絶対に言えない、独り善がりの、これは呪いだ。




