*7* 何でここにいるんですか?
――ピュルルルル、プゥ。
――シュシュシュシュシュー、ピィ。
クオーツの寝息はドラゴンなのに、いつもちょっと奇妙で愉快だ。そんなことをぼんやり感じつつ、鼻先をくすぐる知らない洗濯石鹸の香りに目蓋を開けば、見たこともないフカフカの寝具に埋もれていて。
寝惚けたクオーツに食まれてグシャグシャになった髪を手繰り寄せ、のそりと起き上がれば、視界に女の子の憧れを詰め込んだみたいな部屋が広がっていた。部屋のどこにも埃が見当たらない。壁に立てかけた部屋の装飾に負けない私物のデッキブラシも、どこか所在なさげだ。
祖父母との初顔合わせからまだ一夜明けただけ。そのたった一夜をここで〝お客〟として過ごしただけで、疲労感が半端じゃない。オルフェウス様はお貴族様らしくこの生活環境に慣れていて、こっちの苦労に首を傾げるし。
「うぅん……綺麗な部屋過ぎて落ち着かないとかって、もう人としてどうなんだ」
毛布から抜け出してベッドから床に足を下ろしても、そこにあるのは毛足の長いラグ。冷たい床じゃない。こんなに埃がつきそうなのにとか、すぐに靴を履くんだから無意味じゃないかとか、そういう気遣いも一切必要なし。
こんな風に部屋が片付いていることに安堵するどころか不安になるのは、長年の汚城暮らしの弊害だろう。きっとこの屋敷の人達は、異臭で目を覚ますことなんてないに違いない。
でも同じく師匠の焼いてくれるパンの匂いもコーヒーの香りもしないなら、私は断然汚城の環境を選ぶ。
我ながら正気じゃないなと思いつつ、ドレスでも作れそうな豪華なカーテンを開けて、前夜に用意してもらった水差しの水で顔を洗う。自分で持ってきた服に着替え、鏡台の前で髪をくくり、広がった傷痕の上から眼帯をつける。
前の傷の大きさに合わせた眼帯の縁から隠しきれない爛れが覗くのを、どうにか誤魔化そうと苦戦していたところでドアがノックされ、外から控えめに『〝お目覚めですかアリア様? ご朝食の準備が整いましたので、お目覚めでしたらお着替えをお手伝いさせて頂きたいのですが〟』と声がかかった。
その声に慌ててクオーツを揺り起こしてドアを開ければ、そこにはヒラヒラのいっぱいついた衣装を手にしたメイドさん。あと一歩遅かったら危険なところだったと安堵の溜息を飲み込み、残念がるメイドさんに案内されて昨夜食事をした食堂に通されたのだけど――。
「おはよ、アリア。あんた今日は珍しく随分ゆっくり寝たのね。あたし達はもう先に朝食頂いちゃったわよ」
そう言いながらゆったりと脚を組んで、誰よりもこの場で堂々と偉そうにくつろいでいたのは、美の化身みたいな傲岸不遜な人物。寝起きの脳がご褒美に見せてくれた幻かもと思って一度目蓋を閉じて擦り、目蓋を開く。消えない。
もう一度目蓋を閉じて擦る。開く。でもやっぱり消えない。すると隣でクオーツが「ギャウ、ギャー……ウゥ?」と何となく言い訳じみた鳴き声をあげる。チラリとオルフェウス様の方を見やれば、項垂れていた彼が顔をあげてこちらを向き、小さく頷いた。ということは――。
「え、ほ、本当に本物の師匠なんですか!?」
「たった数日でこの美しい顔を忘れるなんて良い度胸じゃない、馬鹿弟子」
「そうじゃなくて、どうしてここにって話です! 今度は何をやっちゃったんですか? 私がいない間に城で繁殖させたスライムが薬品で弾けとんだ? それともバスタブでダロイオの成分を大量に抽出して排水口を駄目にした? あ、もしかして洗濯して片付けといた服の場所が分からないんですか?」
「あんたねぇ、人のこと何だと思ってるの」
「そりゃあもう最強に強くて人外なまでに美しくて天災的に手のかかる人ですよ。でも本当に何でここにいるんですか? お祖父様とお祖母様は?」
「護符が弾けた気配がしたから見に来たのよ。ついでだしこちらのお屋敷に現保護者としてご挨拶をしたら、朝食をご馳走してくれたってこと。ちなみにあんたのお祖父様とお祖母様には、あたしの持ってきた手土産に目を通してもらってるわぁ」
そう気怠げに伸びをしながら口にした師匠は再び視線をこちらに寄越すと、口許に不敵な笑みを浮かべて「それで? あんたが本当にあたしに言いたいことって何かしら?」と訊ねてくれた。その瞬間に驚きで誤魔化していた感情がドッと溢れて視界が歪む。
「あ、の、師匠……ご、ごめんなさい、せっかく、師匠が小さくしてくれた傷が、傷が、広がっちゃって――、」
「はいはい、泣かないのアリア。本当のおブスになっちゃうわよ? 流石はあたしの作った呪符ね。これくらいなら大したことないわ。すぐに小さくしてあげる。それとクオーツとエドモントの坊やは後で話があるから面貸せよ?」
俯く頭を抱き寄せてくれる手も、顔を埋めた意外としっかりした胸板も、鼻をくすぐる優しい香水の香りも、憎まれ口も。いつだって頼りになるのは、助けてくれるのは、この香りのする師匠だ。
ただ私がみっともなく師匠に抱きついて泣いている間に、メイドさんが祖父母に伝達に行ってしまったようで……。やってきた二人が心配して、朝食の他にも色々な食べ物を使って不器用にあやしてくれたのは、昨日の啖呵を切った後だと無償に恥ずかしかったのだった。




