*6* 血迷ったんですか、師匠。
初出勤から一ヶ月が経った六月の上旬。
日中は当然のこと、早朝でももう結構暑い。夏は師匠が包帯の上から魔力を流し込んで治療をしてくれることに対して、少々気を使う季節だ。
ギルドでは傷跡が蒸れるとよくないという師匠の助言を取り入れて、最近は包帯をせずに前髪と服のフードだけで傷を隠している。どうせギルドが開く前に人が来たって、鍵がかかっているから本来はフードもいらないのだけど、そこは私の臆病さが許さないのだ。
初日の失敗でだいぶコツを掴んだので、最近は床のように毎日磨く必要がある場所以外は、細々した場所の区割りを設けて掃除を進めることにしている。この頃は掃除中に壁の依頼用紙を見るのが楽しみになっていた。
当たり前だけれど森の外にも世界はある。とはいえ現状私には、あの森の中だけでも充分世界は事足りているけれど。
でも毎日のように張り変わる依頼の紙には難易度の高さが星の形で示されているので、それを見るのが楽しいのだ。大抵はその数に見合った難易度なのだけど、時々あの森に住んでいる私からしたら簡単に思える依頼などもあって面白い。
あと二ヶ月くらいしたらジークさんに掃除だけでなく、材料収集の依頼も受けさせてもらえないか聞いてみようかと思っている。勿論あの森の材料は師匠のものなので、師匠にも聞いてみないと駄目だけど。森は国土の一部? そんな事情は知らないね。入ってこられない方が悪いのだ。
鼻歌を歌いながらカウンターの台座部分の石の隙間を雑巾で拭い、最近増えてきた観葉植物の葉も拭う。観葉植物は受付のお姉様方が仕入れたそうだ。殺風景だった空間に緑が増えると癒されるのは分かる。手入れするのも楽しい。
明日掃除するところが残るよう適度に綺麗にし終え、のんびりと時計の針が八時を指すのを待つ。鍵の開く音がしたらいつものように――。
「おはようございますジークさん。今日の掃除は終わってますよ」
「おはようさんアリア。相変わらずピカピカにしてくれたみたいだな。ほら、今日の分の日当だ」
受け取る皮袋の中身はこの頃はほとんど変動しない。きっちり小銀貨三枚と銅貨一枚が入っているのを確認してお礼を言って懐にしまう……が。
「そうそうあの話だが、考えてくれたかアリア」
「またそれですか? 何度言われてもお断りしますってば。掃除婦の仕事はここと汚城だけで充分なので。どなたか他の方に声をかけて下さいよ」
「おー、今日もフラれちまったか。でも毎日言ってるがなー、うちのギルドに登録するような連中で、掃除婦みたいに平和な仕事をする奴はいないんだよ。特にお前さんみたいに腕の良い奴はな」
ジークさんが言っているのは、最近このギルドに腕の良い掃除婦が入ったという噂が広がったとかで、よそのギルドやそこに依頼をしにくる商家などから私への依頼が入っているらしい。でもいくら収入が欲しいとはいえ自宅のお城を掃除出来なくなるのでは本末転倒だ。
こっちの答えなんて分かりきっているだろうに、どこまで本気なのかそう言って豪快に笑うジークさんを呆れた人だとは思うけど、そこまで私の掃除の腕を買ってくれていることは素直に嬉しい。
「またまた。どうせ断られるのに褒めるだけ無駄ですよ。それじゃ、また明日もよろしくお願いしますね」
芝居がかった仕草で「つれないねー」と言うジークさんを適当にあしらい、城の工房に直通の魔法陣に飛び乗る。瞬間フワリと足許の陣が輝いて、幻想的な光が消えた頃には馴染んだ工房の中にいた。
「ただいま戻りました師匠」
「ん、お帰り」
「これが今朝の稼ぎです。お納め下さい」
「安い賃金で使われてるわね。昇給制度とかないの?」
「相手はあのジークさんですよ師匠。昇給とかしたらしたで、何をさせられるか分からないじゃないですか。危ない橋は渡れませんよ」
「ああ……それもそうね」
工房が街の借り店舗に繋がるのは十時。だからそれまでの時間を師匠の周囲で掃除をしたり、世話をしたり、お喋りをしたりして時間を過ごすことにしている。そこで私は得意になって「そうだ師匠、今日も面白い依頼が新しく入ってたんですよ」とさっき仕入れてきた話題を次々に切り出したのだけれど――。
「ふうん……あんたもそういう依頼に興味があるわけ?」
いつもは聞き流して適当に相槌を打つ師匠が、今日は珍しく紅茶を飲みながらそんな風に質問を返してくれた。嬉しくなってホウキを動かす手を止め、こちらを見つめる師匠に笑い返す。
「ええ、まぁそうですね。ちょっとくらい憧れはありますよ。いくら師匠が凄腕の魔術師だって言っても、私は森の外の魔物を狩りに行ったり、大きな商隊を賊から護衛したりは出来ないので。師匠の本気を見る機会はありませんからね」
というか、ほとんどの一般市民は出来ないと思う。ギルドに登録する人間というのは魔力があるか、腕っ節に自信があるかの二極だ。なので一生関係がない人は関係がない職業なのである。
――が、師匠は私に質問をしておきながら無言でテーブルに肘をついて、何やら思考に耽り始めてしまった。窓から入る陽光に照らされた金色の髪がキラキラと輝いている。自前の輝きに縁取られた師匠はそれはそれは神々しい。
しかしこういうことはざらにあることなので、気にせず留守中に新たに床に積み上がった本と、奇妙な走り書きがされた紙を空いている籠に分別していく。
「その依頼は今日見たのね?」
「え? あ、はい。つい一時間くらい前に」
「じゃあ行ってみましょうか」
「行くって……どこにです?」
「どこってゴルディン山脈よ。ドラゴン、見てみたいんでしょ?」
「はいっ?」
「なら決まりね。今からジークのところであんたが見たって言う依頼を受けてくるわ。あんたは適当に動きやすい服に着替えて待ってなさい」
「待って待って。違います師匠、今のは肯定の返事じゃないです。たとえるなら〝嘘、いきなり何言ってるのこの人。頭大丈夫?〟の驚きの方です。それにお店はどうするんですか?」
「休むわよ。一日ぐらい休んだってうちに客が来なくなるわけないもの」
「うっわ~……凄い鼻持ちならない自信ですね。それにほら、依頼だって他にもう誰かが受けてるかもしれませんよ?」
「依頼はレッドドラゴンの鱗だったんでしょう? だったらそこらの凡人じゃ無理ね。その依頼はたぶん放っておいたって来年の今頃まであるわ。その点あたしが受ければ日帰りよ」
「本当に凄まじい自信ですね!?」
「ただの事実よ。分かったら着替えて待ってなさい」
至極サラッと恐ろしいことをのたまった師匠は、まだ止めようとする私を無視してさっさと魔法陣に乗って消えた。そうなると言われた通り着替えて待つ以外道のない私は、諦めて準備を整える。
それから待つこと二十分。
ホワリと柔らかく輝いた魔法陣の上で神秘的な美しさを纏って戻った師匠から、すぐに「依頼を受けてきたわ。ゴルディン山脈まで一気に飛ぶわよ」と、新たに構築した魔法陣へと引きずり込まれて。
次に柔らかな輝きから解放された時には痛そうな岩肌の目立つ鉱山の、明らかに危険極まりなさそうな洞窟の最深部っぽい場所だった。そこで私は確信する。うちの師匠は頭がおかしいと。