*13* 距離感の前に慣れはない。
酸っぱいゴミの山の臭いに混じって良い匂いがする。その匂いにつられて目蓋を持ち上げ、思わず深い溜息をつく。斬新すぎる朝。二度寝したって結果なんて変わらないって分かってたけど……これが私の冒した罪と罰か。
それでも何とかパンが焼ける匂いと、ベーコンと卵が焼ける匂いにお腹の虫が勇気付けられたので、ベッドの中で起き出す決意を固めた。
ベッドの上にいるはずのクオーツの姿を探したけれど、食いしん坊な相棒はすでにこの匂いにつられて起きてしまったのか、猫の大きさになったドラゴンの姿はどこにもない。きっとあの子のことだから、台所で師匠に食べるものをねだっているのだろう。食べ尽くされる前に起きないと――って。
「あれ……ちょっと待てよ……私いつの間に寝間着に着替えたんだっけ?」
え、待って。ここに戻って来てるのは師匠の転移魔法のせいだとして――温泉でのぼせて落ちたあと、誰がこの寝間着に着替えさせてくれたの? 違う、もっと早い段階で誰が私を温泉から引き上げてあの時着てた服をもう一回着せてくれた?
「~~~~っ!?」
頭に浮かんだ可能性に気付いた瞬間、くるまっていた上掛けを跳ね除け、ベッド下にあった靴に足を突っ込み、浄化魔法のかかった命綱……デッキブラシを手に部屋を飛び出した。
「師匠ーーー!!!」
「あら、おはようアリア。朝から騒がしい子ね。二週間ぶりなのよ? 朝の挨拶ぐらいしたらどうなの」
「あ、はい。そうですね、おはようございます……って、そうじゃなくて! 温泉でのぼせた私を引っ張りあげて服を着せてくれたのってもしかしなくても――、」
「あたしね。でも大丈夫よ。ほとんど見てないから。というか、そんな貧相な身体に何も感じるわけないでしょう?」
叫んで飛び込んだ厨房にて、緩く三つ編みにした金色の髪を肩から流し、シルクのガウン姿で優雅にフライパンを振っていた麗しい師匠は、二週間ぶりの弟子に向かって無情にもそう言い切った。
これは洗濯物を溜め込んで着るものがなくなった時の師匠の装いだ。初めて見る女性なら師匠の退廃的な美しさにうっとりするところだろうけど、私はげっそりした。後で城中のゴミの山を切り崩して洗濯物を発掘しないと。臭いが発生しにくい冬場で良かった。
城に帰ってきて早々にゴルディン山脈のダンジョンに戻りたくなるぞ? 魔物の方が綺麗好きってどうなの。
「ほら、分かったらさっさと顔洗って、コーヒーをテーブルに持っていって頂戴。それとクオーツにあと一つパンを摘まみ食いしたら、明日からあんたの分はないわよって言っといて」
言いながら半熟卵を器用にオムレツの形に整えていく師匠は、手近なお皿からビーツのジャムが乗ったクラッカーを手に取ると、私の口許に運んでくる。師匠お手製のジャムは久しぶりで。簡単にあしらわれることは悔しいのに、その魅力に抗うことが出来なかった。
指ごと噛んでやろうかと思ったけど、結局そんなことをしたら後が怖いので無言で口に入れてもらい、代わりにコーヒーのたっぷり注がれたポットを受け取ってリビングに向かうと、そこにはすでにテーブルの上に陣取って朝食を貪るクオーツの姿があった。
「クオーツ、この裏切り者ぉ」
「ギュ……ギャウウ、クゥ?」
「可愛い子ぶっても駄目だよ。そのパンで何個目か知らないけどね、師匠が明日からクオーツのパンだけ抜きにするってさ」
「ギャウウウ!?」
「そんなに慌てて食べかけをお皿に戻しても駄目ですー。私が寝てる間に食べちゃった焼き立てパンの恨みは恐ろしいんだからね」
悲鳴をあげるクオーツを無視し、コーヒーポットをテーブルに置いてから一旦顔を洗いに洗面所に行ったけど、とても顔を洗える状態じゃなかったので回れ右。厨房の水差しから少量水をもらって顔を濡らし、寝間着で拭き取って食堂に戻ると、席についた師匠の向かいでクオーツが項垂れているところだった。
何があったかは聞かなくても分かるから、さっさと私も自分の席につく。するとそれを合図に私のお皿にパンが置かれ、マグカップにコーヒーが注がれる。小声でお礼を述べると、師匠が淡く微笑んで「良く眠れたかしら?」と尋ねてきた。
「もー……よくもそんなわけないことが分かってて聞きますねぇ、師匠。乙女の純情を何だと思ってるんですか。大体私がここを空けてまだ二週間しか経ってないんですよ? 何がどうなったらこんな酷い状況になるんですか」
「それが分かってたら散らからないわよ」
「そこで開き直らないで下さいってば。出した物を元の場所に戻すだけの簡単な作業ですよ。それに何で厨房周りと食堂だけこんなに綺麗なんです? 師匠が使ってた形跡が一切ないんですけど……一人の間のご飯ってどうしてたんですか?」
「戻ってきて早々失礼な子ねぇ。一つに元の場所がどこだったか思い出すのが面倒になるから放置するの。二つに一人分だけ作るのは面倒だから全部外食よ。お風呂はジークのところで入ってたわ」
朝から驚くべき持論を持ち出してこられて軽く眩暈がする。まさかジークさんのところにお風呂を借りに行ってたなんて。汚城の分だけで良いと思ってたのに、掃除するお風呂が二ヶ所に増えてしまった。
ああ……今日からの作業量を考えると自分が三人くらい欲しくなるなぁ……と。向かいに座っていた師匠から視線を感じてそちらを見れば、何故か師匠は席を立って私の隣に移動してきた。
不思議に思って見上げると、師匠の手が見上げる私の顎を持ち上げて、その指先が唇と頬を撫でていく。視界から入る美の暴力。久々だと流石に目が……直視するのも辛いんですけど?
そしてクオーツ、テーブルの下に潜ってないで助けてよ!? 気を利かせるところはここじゃないってば!
「うおぁ、し、師匠? 顔ならさっきちゃんと水拭きしましたよ。それともまだ顔に何かついてます?」
「そうねぇ……目と鼻と口かしら」
「そ、それ、たぶん大抵の人に当てはまりますよ?」
「かもね。だけどこんな間抜け面はなかなかないと思うわ。でもね――、」
そう言いながらも止めてくれる気はないのか、師匠の手はそのまま輪郭をなぞって。ゆるりと髪を梳いた指先は、髪が落ちないように耳にかけてくる。背筋が戦慄いたのは首筋をかする髪のせいだけじゃない。
露になった額の傷に指先が到着した時、不意に余裕のある師匠が憎たらしくて突き飛ばしたい衝動に駆られたのに。
「こんなに師匠が好きな弟子は、そうそういるもんじゃないわよ。分かったら妙な勘違いして飛び出したりするな。誰かを心配して待つのは得意じゃない。今度は話の途中で逃げるなよ?」
――と。
額に触れる唇の感触とかけられた言葉の前に、温泉でのぼせた時よりも強い眩暈と激しい動悸が押し寄せて危うく天に召されかけ。直後に一気に流し込まれた高濃度の魔力に酔って足腰が立たなくなり。
確信犯のくせに呆れた表情を浮かべてみせる師匠の手から給餌をされつつ、家出をする理由となった祖父母の話をうやむやにされまいと踏ん張り、最終的にそっちは「一回会ってみて、そりが合わなかったら帰ってきたら良いんじゃない?」という言質をもぎ取って。
一番気になっていたオルフェウス様との関係に「反発しましたけど、あの人と一緒になっても私をここに置いてくれるなら良いですよ」と譲歩したら、頭上からゲンコツが落ちてきた。解せぬ。




