★10★ 砂の落ちない砂時計。
「いやー……今日でもう家出してから一週間だっけか? 予想外の粘りを見せてるな、アリアのやつは。どうよ、盲目的な弟子の初めての反抗期は?」
「その腹の立つニヤケ面を顔止めろ。あと反抗期じゃない」
ハーヴィーの最奥にある執務室。その室内は今、あたしとこのギルドのマスターである男の吐き出す紫煙で曇っている。普段なら小言を口にしつつ灰皿一杯の吸い殻を捨てにくる秘書も、今日は不在だ。
――というよりも、まだ雪深いこの季節のここはいつも閑散としている。
ギルドにおいて高い仕事の成功率を誇るということは、危機管理能力の高い者達を有しているということの現れでもある。金に汚いと思われがちなハーヴィーの連中は、意外にもそういう意味での手練れが多い。
悔しいがそれは目の前にいるこいつが昔戦場働きで得た教訓を、下にしっかりと教育できているからだろう。
「おぉ怖、そう睨むなよ。どうしたルーカス、お前らしくもない。いつもかぶってる余裕のある師匠の皮が剥がれてんぞ?」
「あら、ふぅん……そう。あんたはこのギルドごと消滅させられたいのね?」
「誰もそんなことは言ってないだろ。それに家出先も分かってるんだ。あとは向さんの怒りが冷めるまで待つか、お前が直々に出向いて頭を下げるかだって話だろ。そうカッカするなよ」
「何でこっちが頭を下げなきゃならん。あいつが話を最後まで聞かないで勝手に飛び出すのが悪い。手間のかかる馬鹿弟子め」
短くなった煙草を灰皿に押し付け新しいものに火を点ける――と、今まさに押し付けたものをジークが取り上げて火を点け直して咥えた。これはこいつの傭兵時代からの悪い癖だ。
「ジーク……ギルドマスターにもなってシケモクを吸うな、みっともない。新しいのならまだあるだろう」
「言った側からまぁた地が出てるぞ。良いんだよ、初心忘れるべからずってやつだ。それよりそのままだと迎えに行ったところでアリアに怖がられて、クオーツの背中に乗って逃げられるだけだ」
ニヤニヤしながらこちらに向かってそう言うジークに腹が立つものの、アリアを拾う少し前からかぶり始めた皮がこれ以上剥がれるのも考えものだ。
そう思い直して苛立ちに波立つ心を鎮めるために落ちてきた前髪を掻き上げ、一度加えていた煙草を指に挟んでから大きく深呼吸をしてみる。効果はそうない気もするが、しないよりは幾分かマシだろう。
「ギルドの連中に探らせた感じだと、あいつはあの辺の魔物と上手くやってるらしい。最近だと密猟者共をぶっ飛ばして、ダンジョンマスターって呼ばれてるくらいだ。お前の教えが生きてる」
「――……籠しか編めないのに馬鹿げてる。進んで危ない真似をさせるために、あたしはあの子に魔力を分けたんじゃないのよ」
では何のために分けたのかと訊かれても、今の自分には分からない。特に何かをさせようと思って連れ帰ったわけでなし、研究対象として生きていれば良かったのだから。自身の存在に意味を求めたのはアリアの方だった。
あの子が来てからというもの、この世に興味をなくしかけていた日々が終わって。新しい研究や新たに興味を引かれるものも見つけた。今回のクオーツと採取旅行に出かけた件や、禁術を使ってアリアの記憶を探った件は、謂わばそういったことへの恩返しのつもりだった。
エドモントの坊やには、あの日からずっとアリアの祖父母とやらに繋ぎをつけてもらっている。アリアが家出から帰ってきた時にもういらないと言われては業腹だ。あの子の生家を乗っ取った連中についても調べはついている。
巣立ったアリアの足を引っ張られないよう、処分のつけ方も大体決めた。だというのに、当の本人が戻らないのでは手の打ちようがない。それにクオーツの見張りがあるから転移魔法も使えない。そのせいで、魔力の供給は護符を通して遠隔から送るという不安定な方法しかないのも問題だ。
いつあの傷跡が広がるかも分からないのに……引き渡す前に顔に傷のある孫娘を、ただでさえ縁を切った娘の子供を貴族の祖父母が引き取るだろうか? そこも含めて頭が痛いことだらけだ。
「へいへい、本当に過保護だねぇお前も。それより実際どうするんだこれから。オレとしてはお前さんの先走った理由も分からんではないけどな、ルーカス。あの子はお前の体質を話したところで驚かんし、逃げんだろうよ」
歳上らしく諭そうとするその態度が気に入らない。昔はこちらが立っていたはずの位置に、いつの間にか誰かが成り代わっている。そんなことを目にするのは珍しいことでもないが、そこにアリアの存在を混ぜられるのだけは面倒だった。
「シケモク吸いが格好つけたところで、格好なんてつかないわよ? それにどのみちもう潮時なの。あの子とあたしは似ているようで違った。あの子はこの七年で普通に成長したわ」
十五歳を越えた辺りから、この身体の成長速度はガクンと落ちた。それが呪いなのか祝福なのかは人によって違うだろう。けれどあたしからしてみれば、この体質は呪い以外の何でもない。
そうして悲しいかな、過ごせる時間が人より長ければ長いほど、精神の成熟度は緩やかになっていく。心の方はその間にもどんどん磨耗していくというのにだ。
「二十年で見た目がほとんど歳を取らないあたしとは違う。あのこは今手離せば、きちんと人間の世界で生きていける子よ。いつまでも若作りな師匠だ、くらいに思われている間に離れた方が良いの」
鼻で嗤って煙草の灰を落とせば、シケモクを吸い終わったジークがふと「……精霊の血ってのは、厄介だねぇ」と眉を寄せた。いつかの戦場でも見たその青臭い表情に思わず喉を鳴らすと、元悪童は「笑ってんなよな、オッサン」と悪態をつく。
「そう拗ねるなよ坊主。だったらお前も誰かさんみたいに道を踏み外して、こっち側に落ちてこいよ」
昔のようにふざけて指先を眉間の皺に這わせてそう誘えば、あの頃はこの見た目に騙されて頬を染めていた悪童も、現在のギルドマスターの顔に戻って。
「そいつは無理だなルーカス。オレはこの渋い見た目が気に入ってるんだよ」
――と、そう生意気に、歳相応な草臥れた中年の顔で笑った。




