*2* 寝不足だったみたいです?
足許に穴が開いたら落ちると思う。実際立っていた足の裏の感覚が急になくなるわけだから。それは動物的な本能として刷り込まれているからして、咄嗟に身体を丸めた私は悪くない――はず。
「アリア、いつまでそうやってしゃがんでるの」
「こ……腰が、抜けたんですよ」
落ちたと思ったら空の上にいる気分を分かってくれる人は、いったいこの世の中にどれくらいいるだろうか。師匠が隣で手を握っていてくれなかったら、さっきの不穏な発言通りすでに死んだのかと思うところだ。
「大袈裟ねぇ。いつもクオーツに乗ってるくせにこの程度で腰を抜かすなんて」
「あれは飛ぶ前に乗るまでの過程があるから平気なんですってば。心臓に毛でも生えてそうな師匠には怖いものなんてないでしょうけど、私はごく一般的な感覚の持ち主なんですよ」
「何か言ったかしら?」
「何でもないッス」
「いきなりプリシラみたいな喋り方してんじゃないわよ」
呆れた表情の師匠に軽く後頭部を叩かれたのち、手を差し伸べられて立ち上がるのを手伝ってもらえた。それでもやっぱり足許に家々の屋根が小さく見える恐怖からすぐに立ち直ることは難しくて、つい師匠に抱きつく形になってしまう。
師匠は一瞬だけ目を瞬かせたものの弟子を労ってくれる気になったのか、腰を抱き寄せて下から支える風に寄り添ってくれた。
「これっていつも使う転移魔法とは違うんですよね?」
「ええ。これはあたしが見てきたものをあんたに直接観せられるように、魔術で脳の神経の一部に働きかけてるの。エドモントの坊や風に言うと、精神の繋ぎ目に潜るってやつね」
「いやいや、怖い怖い怖い。本人に許可なく何してくれてるんですか?」
「別にこれが原因で死なせるようなヘマはしないわよ。それよりも良いから地上の動向に集中しなさい。今のあんたとあたしの状態は、文字通り吹けば飛ぶような頼りない存在なんだから」
飄々と聞き捨てならない発言をした師匠を見上げれば、師匠もこちらを見下ろしてさも面白そうに笑った。こんな状況でもときめいてしまう。これが純粋に吊り橋効果からくるものだったら苦労しないで済んだのに。
「これ下法の一種だから、実際にはあたし達の身体はまだクオーツのいる部屋にあるの。あんまり長く離れてたら戻れなくなるわけ」
「あ、あぁ……だからさっき精神的に死ぬって……」
「死ぬのは死ぬけど、このままだと待ってるのは肉体的な死。あんたに言ったのとはまた別のやつよ」
「師匠、死に方に種類はいらないです」
「あらそう? 選択肢は多い方が良いじゃない」
そういう問題じゃないだろうとは思いつつ、軽口を叩きあっているうちに落ち着いてきたこともあり、今度は普通に下を見ることが出来た。床が透明になっただけだと思えばなんとかなる。よくよく見てみたら自分の爪先の向こうに景色が少し透けてるけど、大丈夫……大丈夫か?
ギュウッと師匠に抱きつく腕に力を込めると、師匠はそんな私の頭を顎乗せにして「取り敢えずあれを見て頂戴」と下界を指差す。恐る恐る指差された方角を見下ろせば、大きな屋根のお屋敷が見えた。
お屋敷と一口にいっても貴族の邸宅風ではなくて、どうやら大きな商家であるらしい。季節が冬でなければ花が咲き乱れているだろう庭園は、ほとんど葉を落として寂しい印象になっている。ただ何にしても私達の住む城よりもずっと居心地が良さそうで羨ましい。
でも商家の造りは教会とかみたいにどこも似ているのだろうか。比較的屋根を上から見ただけでもどこにどんな部屋があるのか分かる。そしてきっとこれだけ広くてもどの部屋もメイドさん達に綺麗に片付けられているんだろうなぁ。
吸い寄せられるように窓の中を覗けそうなところはないか、視線をふらつかせかけたところで「どこ見てるの。あんたが見るのはあれよ」と旋毛を強めに突かれる。もう一度師匠が指差した方角に視線をやれば、門の方から人が歩いてくるのが見えた。その人物を屋敷から出迎えに出てきた女性とメイドさんっぽい人達の姿も現れる。
門から歩いてきているのは、誰あろう今隣にいる師匠だ。出かけた時の格好そのままなことに不思議な気分を味わいつつ師匠達の動向を観察していると、女性はそのまま師匠をお屋敷に招き入れるつもりらしい。上空から見守る先で一行はお屋敷の中へと入っていった。
直後に場面が転換する。今度は応接室っぽい場所の壁際。充分広いのもあるけれど、お付きメイドさん達の数が減ったことでより広さが強調される室内で、豪華な商談用テーブルを挟んで師匠と向かい合うのは、栗色の髪に水色の瞳をした優しげな雰囲気の美少女だった。
その艶のある綺麗な髪に揺れる翼を具象化したような髪飾りが、やけに印象的で。室内の家具の配置も知っているような、お家によって家具の位置も似るんだろうかとか、そんなことを考えて気を散らそうとしていたのに……。
師匠と面と向かい合って何かを楽しげに話す姿に胸の内側が激しく燃えた。何故だか分からない。だけど確かに見知らぬ彼女に殺意にも近い怒りを感じた。
自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかった。師匠のお店でも綺麗なお客さんなんてたくさん来る。綺麗な人同士で語り合う光景に嫉妬するなんてみっともない。自分で自分に幻滅していたその時、師匠が私の腰を抱き寄せ、もう片方の手で目隠しをしてきて「帰るわよ」と耳許で囁いた。
安堵感と一緒にせり上がる奇妙な孤独感。その両方がない交ぜになって。目隠しの下で涙が零れた。ああ駄目だ、急にドッと眠気と……地面が回る感覚がして……意識が遠退いていく……。
――、
――――、
――――――。
誰だろう。前髪を梳いてくれる感覚が心地良い。寝惚けたまま、額をなぞって離れようとしていく指先にすり寄ると、頭上から小さく空気を震わせて笑う気配が落ちてきた。眠気で重い目蓋を持ち上げると、そこには師匠がいた。
「アリア、困った子ね。いい加減起きるのが遅いわよ。膝が痺れちゃうじゃない」
うわやっぱり斜め下から見上げても師匠の顔は腹立たしいくらい綺麗――……っていうか、そうじゃない。何でソファーで膝枕してもらってるんだっけ?
「あれぇ……師匠?」
「他にこんな美形がそうそう転がってるはずがないじゃないの」
「私、どうして膝枕してもらってるんですか?」
「あら、憶えてないの? あたしの手伝いをしてる最中に急に倒れたからよ」
「ええ? そうでしたっけ……」
「そうよ。寝不足じゃない? クオーツが支えてくれたから顔面から転倒するのは避けられたけど、次から気を付けなさい」
そう言われたら、そんな気もする――かも。ゆっくりと師匠の膝から起き上がると、心配そうな顔をしたクオーツがお腹によじ登ってきて鼻面を押し付けてきた。うちのレッドドラゴンは猫かぶりだけど世界一可愛い。
「そっかぁ、ありがとうねクオーツ。それとびっくりさせてごめんよ。私のちょっと低い鼻がこれ以上低くならなかったのは君のおかげだ相棒」
「ギャウギャーウ!」
「膝枕をしてやったあたしへの謝罪と礼はどうしたのよ」
「ふへへ、師匠の膝固かったですけど、貸してくれてありがとうございました」
「まったく……締まりのない顔して。言葉にも誠意が足りないわねぇ」
そんなことを言いつつも傷跡に口付けてくれる師匠の表情は穏やかで、心配してくれていたのだと分かるから。ソファーへと至る獣道の横に積み上がる紙と本と服とゴミの壁くらい、片付けてあげますよ!




