*13* 置いてきぼりです。
カーテンの隙間から夏に比べてだいぶ弱い、秋と冬の交換時期にさしかかった朝の陽射しが差し込んできて。師匠が手にしたローズウッド製の櫛の縁を、淡く縁取りながら滑り落ちていく。
その優しい手つきに落ちてきそうになる目蓋を懸命に持ち上げ、鏡越しに鼻歌を歌いながら私の髪を梳かしてくれる師匠を盗み見しつつ、ここ数日寝不足気味の頬をつねった。寝不足の原因は分かっている。夢見の問題だ。
このところ初めてレイラさんと電撃的な出会い方をした日に見たような内容のあやふやな、ともすれば夢とも呼べないような夢を見る。でもこうして師匠に髪を梳かしてもらっているうちに、あの奇妙で不安な夢も溶けてしまう。
「うーん、やっぱりこの香油にしてから櫛通りが違うわねぇ」
「そんなに違いますか? 前から櫛はちゃんと通ってましたけど」
「そういうことじゃないわよ。自分の髪のことでしょう。この変化に気付かないとか鈍すぎるんじゃないの?」
その一言と共に鏡越しに目を眇める師匠。特別冷たい視線ではないけど、若干赤い双眸に落胆の色が見てとれたので慌てて首を振った。
「あ、いやいや、待って下さい。そういえばありました、変化。結い紐を固く結びすぎてほどけない時に無理矢理引き抜いても、髪が切れにくくなったんです」
「あんたね……次にそうなった時は呼びなさい。紐を切ってあげるから」
結局鏡台の前で胸を張った私の後頭部を呆れ顔の師匠が軽く小突き、鼻歌を再開する。そんな鏡の中の師匠から視線を外し、鏡台の上に乗ったお手製のバレッタを見た。最近どうしてだか、以前にも増してこうした手作りの小物を作ってくれる。お洒落初心者の私には勿体ないような物が多いものの、純粋に嬉しい。
まだそういう話を師匠の口から聞いたわけではないけれど、もしかしたらお化粧品だけでなくて、こういう方面にも手を広げるつもりなのかも。実際今日はそういったことを感じさせる日程が組まれていた。そのことがここ数日私の夢見を悪くしている原因かもしれない。
思わずまだ身支度の手を止めて欲しくないなと考えていたら、こちらの心を読んだわけではないだろうけど、師匠の口から無慈悲に「はい、完成」という言葉と共に、私の視界に入っていたバレッタを取り上げて髪につけてくれた。
バレッタの重みを後頭部に感じながら振り向くと、窓辺に向かう師匠の背中が見える。今日の装いはダークグリーンの細身のトラウザーズに、ワインレッドのシャツだ。無造作に羽織ったカラント地方のケープ付きコートが、スラリとした長身の師匠に嫌味なほど似合っている。
ちなみに私の今日の装いは、大きな三角形の白い襟がついた薄いグレーのシャツに、ダークブルーのサスペンダー付きパンツ。半端丈の裾は絞ってあって、合わせるのはワインレッドのショートブーツ。同色のショールを留めるのは、これも師匠お手製のコクリ貝でバラを象ったピンだ。
師匠が窓を開けると、下から鞍をつけたクオーツがやってきた。いつもと様子が違うのは、背中に鞍以外に旅装がくくりつけられていることだ。恨みがましくその背中を見つめる私と視線が合ったクオーツが、居心地悪そうに「ギャウン……」と鳴く。たぶん自分に決定権はないんだとでも言いたいのだろう。
そしてそれはその通りなので、了承していることを伝えるべく緩く首を横に振って見せた。この汚城に住むからには、決定権は家主である師匠にしかない。そんな家主は振り返り様にわざとらしく手を打ち合わせた。
「さ、あんたの方の準備も出来たし、そろそろギルドに顔を出しに行ってらっしゃい。あたしとクオーツももう出かけるわ」
「師匠、それなんですけど……本当のほんとーについて行っちゃ駄目ですか? 仕事の邪魔はしませんから」
「何回ごねても駄目よ。一週間程度だからジークのところで良い子にお留守番してて頂戴。あいつには交渉済みだから。それからその髪飾りを含めた護符を外さないこと。危険な目にあったら相手が護符で消炭になるか、首飾りから召喚されたクオーツが消炭にしてくれるわ」
「ほんの少しくらいは対話して下さいよ。得られた情報がどのみち相手が消炭になるんだってことだけじゃないですか」
「それだけ分かれば上出来よ。ちゃんとあんたへのお土産も買ってくるから」
可愛い弟子のおねだりをバッサリと切り捨てた師匠の言葉に肩を落とし、背中を押されて工房の魔方陣へと連行されて。不貞腐れて魔方陣の上に乗った私の顔布をめくった師匠は、いつもより長く傷口に口付けてくれたわけだけど……こんなことで絆される自分がやや情けなかった。
――……で。
「お、来たか。おはようさんアリア」
「おはようございます、ジークさん……今日から一週間お世話になります」
「んなあからさまに落ち込んでんなよぉ。オジサン朝から傷付いちまうっての」
「どこにそんな繊細なオジサンがいるんですか。でもまぁ、すみません」
次の瞬間にはデッキブラシと小さなトランクを片手にやって参りました、ギルド。執務机の向こう側からいじけて見せるジークさんに頭を下げると、彼は「ま、冗談だ冗談。こんな軽口が受け流せないようじゃあ一週間苦労するぞ?」と笑った。
視線を室内の時計に向けたところ現在時刻は九時半。営業時外の早朝ではなく、ギルド内にはすでに依頼を求めて来た人達がいるだろう。
前よりは街に出るようになったとはいえ、この建物内に大勢人がいるのだと考えると過呼吸を起こしそうなる。でもこれも社会復帰の第一歩だと自分に言い聞かせ、その重圧に打ち勝とうとデッキブラシを持つ手に力を込めた。
「んで、どうする? もう少し待てばレイラが出勤してくるぞ。それとも心の準備が整ってるなら、すぐにでも居合わせてる連中にお前さんの紹介に行くが」
そう書類を数えたり束ねたりしながら問いかけてくれるジークさんに、一瞬息を止めて吐いてから「今すぐの方が気が楽です」と伝え、ニヤリと笑って「良い心がけだな」と言う彼について執務室を出たものの――。
依頼を探す人達や依頼完了の報告をする人達でごった返す受付まで行くと、日中はほとんど執務室に籠りっぱなしのギルドマスターの登場に気付いたメンバーが、一斉にこちらを振り返る。探るような視線に思わず顔布に片手をやり、もう片手で抱きしめるようにデッキブラシを抱えた。冷や汗が背中を伝う。
「おーい、手が空いてる奴等は注目しろぉ。この度うちのギルドで本採用することになったアリアだ。顔を知ってる奴はいねぇだろうが、何やってるかはまぁ持ってる得物を見りゃ分かるだろ。このギルドの連中は皆すでに世話になってる。状態異常を癒すような力はねぇが、とんでもない浄化の力をお持ちだ。拝んどけよ」
受付の前でそう雑な紹介をしてくれたジークさんの背中に半分隠れていたら、数人のギルドメンバーが「喧嘩した翌日の床、綺麗にしてくれてありがとな」や「あんたのおかげで出会いが増えたんだ。ほら、前は汚かったから」だとか「女性だけのメンバーで受けられる依頼も増えたの。とっても助かってるわ。ありがとう」といった言葉をかけてもらえた。
泣いても笑っても一週間。師匠がいない間はここで頑張ってお留守番してみせる……から、出来るだけ早く戻って来て下さいね!?




