*7* こちらどちら様でしょうか?
クオーツにお留守番を頼んで、慌ただしく出かける準備を整えた師匠と一緒に、装飾過多なデッキブラシを手に汚城の工房から店の魔法陣に飛んだ。
まだ昼には遠い薄く淡い陽射しが照らし出す店内を横切り、早速しつこく呼び鈴の鳴るドアに向かう師匠と、来客の正体に予想がついていて、むしろ一昨日商品の補充ついでに片付けたはずの棚と、店の奥に設けられた作業場の散らかり具合の方が俄然気になる私。
師匠はここで昼食を食べる時にパン屑なんかをそのまま床に落とすんだけど……塵も積もればというあれである。美を追求する空間に汚れが存在してはならないと思う。溜息をつきつつ来客の対応は師匠に任せることにして、デッキブラシで床の隙間に挟まったパン屑や野菜屑を掻き出す作業に移ることにした。
この装飾過多なデッキブラシは何と掃除にも使えるのである。別に皮肉ではなく純粋に浄化の術式が施されていて、どんなにドロドロになっても水で濯げばあら不思議。あっという間に元のピカピカなデッキブラシになるのだ。
おまけに自然環境に影響しない少しの塵程度なら消去してしまえる魔法つき。お高いんでしょうと聞かれたら、迷わず〝はい〟と答えちゃう金額なので、増産して市販品にする夢は叶わないだろう。世の奥様方には申し訳ないことだ。
そんなデッキブラシを手に、ガシガシと踏み固められて床材の隙間にみっちり詰まった塵を掻き出す私の耳へ、ドアを開いて来客と会話を始めた師匠の声が店舗と作業場を遮る目隠しの壁を隔てて漏れ聞こえてくる。
ただ声量が小さすぎてほとんど会話が聞こえてこない。この時点でいつも騒がしいジークさんという線が消えた。それなら私はここから出ていかない方が良いだろうと思っていたのに、そんな予想は師匠からの『アリア、悪いんだけどちょっとこっちに来て頂戴』という呼び出しであっさり覆された。
呼び出された先にいたのは、見ず知らずの小さい美人さん。でも輪郭があやふやというか、全体的にぼんやりした印象の人だった。この短時間で視力が急に落ちたみたいな妙な感じだ。
「ふぅん、この子がそうなノ? 何故かデッキブラシ持ってるけド?」
「ええ。あたしの弟子」
「んー……掃除婦にしては可愛い格好させてるなとは思ったけどサ。こういう性癖だったっケ?」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ。魔力を構築する時に指向性を持たせるものが、この愛用してるデッキブラシじゃなきゃ嫌だって言うんだもの」
そんな短いやり取りで通じ合えるところを見るに、師匠とは旧知の仲なんだろう。そう思うとちょっとモヤッとしたけれど、弟子として紹介してくれたことは嬉しかったのでよしとしておく。
「えっと師匠、こちらの方は?」
「昔むかぁーしに、一瞬だけ仕事を一緒にしてた同業者。手が届く範囲に近づかなきゃ噛みついたりしないから、怖がらないで大丈夫よ」
「おや……わたしを認識出来るとは流石ルーカスの弟子ダ。あと誰が噛みつくか人聞きの悪イ。お前は相変わらずイイ性格してるネ」
微妙に独特の訛りと奇妙な言い回しをする女性に愛想笑いを浮かべて見せつつ、咄嗟に師匠の後ろに身体を隠してしまった。長年患っている人見知りはそうそう簡単に治るものじゃない。
「はいはい。お褒めに与り光栄よ。それで? 誰にあたしの居場所を聞いたの」
「ジークだけど……まぁ、わたしも普段はあんまりこっちにいないし、あいつはもうわたしを認識出来なくなってたかラ。ただジークが呪術系に詳しい奴を探してるって噂を耳にしたから来てみただケ。感謝しろよナ?」
「感謝するかどうかはあんたが持ってきてくれた情報次第ね。取り敢えずお茶くらい出すからどうぞ入って」
ポンポン飛び出す軽口の応酬。思わず「師匠、旧友の方なら私はご一緒しない方が良いんじゃないですか? 積もるお話もあるでしょうし」と提案したものの、二人から同時に「あら、それはないわよ。ねぇ?」「うん、絶対、死んでもなイ」と却下されてしまった。魔術師の友情って解せない。
ともあれ招き入れた女性は物珍しそうに店内を見回すと、お茶の準備のために師匠が奥へ引っ込んだ直後に小さく「へぇ」と声を漏らした。
「凄い……あのルーカスが人間らしい空間で生活してル。もしかしてお弟子ちゃんが掃除してるノ?」
「あ、はい、そうです」
「ルーカスは昔から呼吸とゴミの製造を同時にしてるような奴なのに……お弟子ちゃんてば、天才じゃなイ?」
そんなことをぼやーっとした輪郭の彼女に言われて照れていたら、お茶の準備を終えた師匠に呼ばれて。応接用のソファーに並ぶ形で座らされてしまった。知らない人の隣に座る緊張感たるや……地獄だ。
「早速だけど、その顔布取って見せてくれル?」
「これでもそっちの稼業では割と有名な術者だから大丈夫。あんたの顔に残ってるその傷跡の消し方について助言をしてもらうだけだから。彼女も忙しい中で立ち寄ってくれたのだし、待たせちゃ駄目よ」
師匠にそう促されておずおずと顔布を持ち上げると、彼女がこちらに手を伸ばして、ゆっくりと指先で傷跡をなぞっていく。その端からピリピリともチクチクとも取れる違和感が肌を刺激してくるものだから、思わず不快で顔を顰めてしまった。
「うーん……うん、成程成程? これはなかなか悪趣味で面白いネ」
「この子は気にしてるんだから面白かないわ」
「おっと、失礼。どうしても仕事柄興味の方が先走っちゃうものだかラ。気を悪くさせてすまないネ。あとお茶のお代わり良いかナ?」
「あんたは本当に昔から遠慮がないわね。アリア、悪いんだけどついでにあたしの分も淹れてきてくれる? ポットのお湯はまだ温かいと思うから」
それが二人なりの気遣いからくるものだと察することができたので、可能な限りゆっくりとお茶を用意して、再び店の奥の掃除に戻った。オルフェウス様との約束の時間は協会が受付を開始する九時半。まだ七時半を指したばかりの時計に注意を傾けつつ、なるべく話し声を気にしないように掃除をすること一時間後。
「今日は朝早くから診察して頂いてありがとうございました。えーと……そういえばまだお名前を……」
「ああ、良いヨ。どうせ聞いてもすぐに忘れてしまうかラ」
「ええ? そんなすぐに忘れるなんて失礼なことはありませんけど」
「君ってルーカスの弟子とは思えないくらい素直だネ。普段は教えないんだけど、健気で可愛いから特別に教えてあげル」
師匠が「どうせ呼べないって分かってるくせに。趣味が悪いわねぇ」とか言ってるけど、よっぽど発音が難しいのかもしれない。せっかくジークさん以外で初めて会った師匠の知り合い。絶対に一回で発音出来るようにしようと意気込んだ。
――が。
『わたしの名前は∂∅℘☆₰₷%#って言うヨ。もしも生きてる間に会えることがあったら、その時は呼んでみテ』
――と。人類には早すぎた発声言語を残して去っていった彼女に思いを馳せていたら、不意に師匠が「ねぇアリア。あいつを見てどう思った?」と尋ねてきた。
「どうって……小さくて可愛らしい女性でしたよね。たぶん」
「ハズレ。昔のあいつは魔術狂いの男で、魔術に魅入られたって言うのかしら。分不相応な術式の構築をするのに足りない分の座標を、自分を構築している座標から抜き取ったの。だから自身の性別も存在もあやふやになってしまって、今や半分精霊みたいな何かよ」
「え~? 師匠ってばまた私が分からないと思って適当な冗談言ってますね?」
あまりに怖い発言に対してそう尋ねたのに、師匠はそんな私の言葉に意味深に微笑みながら「約束の時間に遅れるわ」と。まだ時間に余裕のある時計を指してそう言った。




