*1* 靴下の左右があっさり揃う朝はない。
――ない。
シルクオーガンジーの小花柄の靴下。その片方が見当たらない。こんなのはよくあることだ。落ち着け。
そう自分に言い聞かせて洗濯物の入った籠をひっくり返し、昨日綺麗に中身を整理したはずが、もうビックリ箱のようになっているチェストの抽斗を開け放つ。ここにもない。当てが外れて若干焦りが出始めた。
中身をたたみ直して目的の靴下を探す傍らで、焼きたてのパンと紅茶の良い匂いがしてくる。キュルルと控えめにお腹が鳴ったけど、腹筋に力を入れて無様に大音量で鳴ることを阻止した――……が。
「師匠~時間がないのに先にご飯食べるの止めて下さい。そもそも誰の物を探してると思ってるんですか。せめて街の借家に工房の空間を繋いでからのんびりしましょうよ~」
「嫌よ。そんなことしてたらせっかく作った朝食が冷めちゃうじゃない」
「だったら香水選ぶ時間を短縮すれば良かったんですよ。大体それくらい前日の寝る前に決めといて下さい」
「はー……あんた馬鹿なの? その日の気分で纏う香りを決めたいのに、前日の夜に分かるわけないでしょう。あたしは時間に囚われたくないのよ」
「溜息つきたいのはこっちです。それに仕事を引き受けるかまだ決まってなくても、街で看板を出してるからには仕事人なんですよ。時間に囚われて下さい」
「チッ、うるさいジャガイモねー。あんたもいつまでも靴下探してないで、さっさとこっち来て座りなさい。温かいうちに食べないと勿体ないでしょうが」
「師匠が今日はこの靴下でないとやる気が出ないって言ったんじゃないですか~」
思わず片手に掴んだ小花柄の靴下を握りしめる手に力がこもる。手触りが良いのがまた悔しい。料理と美容と魔法の才能がなかったら尊敬出来ない人である。逆を言えばその全部があるから尊敬するしかない人なのだ。
とはいえ、流石に朝から一度洗濯を終えて腐海を掃除していた身としてはこれ以上胃袋に負担をかけるのも忍びない。そこで一旦捜索作業を中断して、師匠の向かい側の自分の椅子に座ることにした。
「おお~……今朝のご飯も美味しそうですね」
「あったり前でしょ。あたしを誰だと思ってんのよ」
「森の気高き魔術師、ルーカス・ベイリー様です」
「何か引っかかるけど、ま、良いわ」
焼きたてのクルミパン、ジャガイモのポタージュ、温野菜サラダ、搾りたて果汁ジュース、カリカリベーコンと半熟の目玉焼き。テーブルの上に並んだ朝食の内容にゴクリと喉が鳴る。師匠はこちらの称賛に胸を張って満更でもなさそうに笑う。
魔女の家に食前の祈りの習慣はないので、作り主の「召し上がれ」の声に合わせてフワフワのパンを手に取った。師匠の手料理の中でもパンは特別美味しい。何個でも食べられてしまう。
ジワッと口内に唾液が沸いたのと同時に「いただきます」と唱えてパンをちぎる。口に頬張ればクルミの香ばしさと贅沢に使われたバターが味蕾を直撃した。その刺激を呼び水にジュースに手を伸ばしてグビリ。ハンナムの花の蜜とシシリーの実を使ったジュースは爽やかな甘酸っぱさで、朝にぴったりだ。
「今日のパンも最高です師匠~」
「はいはい、ありがと」
「ジュースも美味しいです」
「あんたがあたしを褒めるのは当然のことだし、もっと褒めてくれても良いけど、今はそれ食べたらさっさと靴下の捜索を再開して頂戴。あんまり待たせるなら裸足で出かけるわよ」
そう脅し文句を言いつつ、テーブルの下で部屋履きを脱いだ爪先をヒラヒラさせる師匠。軽く殺意……もとい、苛立ちを感じたけれど、毎朝のことなのでもう慣れた。何よりご飯が美味しいから絆されているのもある。
「これ食べちゃったらすぐに探します。どこにありそうかちょっとピンと来たので。師匠は食べた食器だけ重ねて待ってて下さいね」
「んー、分かったわ」
頭に養分が回ったからか、靴下がありそうな場所に予測がついた。きっとベッドの下かさっきかき集めた工房の洗濯物の中に紛れている。分かったからには迅速に行動しないとこの人は本当に裸足で靴を履きかねない。
素足に靴を履かせるのは駄目だ。師匠の足指に塗った爪紅が剥げてしまうし、塗り直す手間を取らせて出勤時間が遅れる。それだけは阻止せねば。私とは違って温かい紅茶を楽しむ師匠を後目に、パパッと残りの食事を平らげて席を立つ。目的は隣室に放り込んでおいた大きめの籠だ。
師匠が出かけたあとで片付け直そうと思っていた籠の中身を、洗おうと思って剥がしてきた師匠のシーツにぶちまける。エプロンのポケットから取り出した靴下と照らし合わせながら捜索を続けること五分。無事に発掘された片割れとエプロンのポケットの靴下を手に、大急ぎで食堂に戻った。
「明日こそはこういうことのないようにして下さいよ~、師匠」
「あのね、あんたはあたしがお願いされて約束守ると思ってんの?」
「これっぽっちも思ってないですけど、一応ですよ。い・ち・お・う!」
気怠い雰囲気を出して脚を投げ出すように座る師匠の前に膝をついて、文句を言いつつ探し出してきた靴下を履かせる。そんな私の旋毛を見下ろす師匠はご機嫌そうに喉の奥で笑った。重低音の響きが耳に心地良い。
オーガンジーの薄赤色に白い小花の靴下は、二日前にオレンジ色に塗った師匠の足爪に良く映えた。足の爪一枚に至るまで美しい形をしている。本当にどこもかしこも綺麗な人だ。
「はい、これでようやく準備が整いました。約束の時間まであと十五分ですよ。師匠も早く工房に行って、部屋を繋いで下さい」
余計なことを考えていたことがバレないよう、わざと素っ気なく言ってふくらはぎを叩いたら、師匠の手が私の醜い方の顔に触れた。包帯の上からその指でなぞられると、背筋が戦慄く。
醜い顔を背けたいのに、近付けられる師匠の顔から目が逸らせない。そうして心の中では狼狽えながらも、何でもない風を装っている私の包帯が巻かれた上から師匠の唇が触れた。その瞬間フワリと暖かな師匠の魔力が流れ込んでくるのを感じる。包帯の下にあるひきつれた醜い火傷跡に染み込む感覚に一時ぼうっとなった。
これはただの治療。
これはただの治療。
これはただの治療。
心の中で三回そう唱えるうちに師匠の唇は離れて、おまけのデコピンが鼻先に見舞われるまでが、私達師弟の毎朝の流れだ。
「あたしに指図すんじゃないわよ、生意気娘。お土産買ってきてあげるから、あたしが帰ってきた時に快適に過ごせるように城中掃除して待ってなさい。それじゃ、行ってくるわねアリア」
歌うようにそう言った師匠は椅子から立ち上がり様に私の髪をクシャクシャにして、食堂から出ていった。