★8★ 何の夢を見てる?
血の臭いはただでさえ嗅ぎすぎると鼻が馬鹿になる。禁呪の術式が編み込まれているものであれば尚更だ。未だ目を覚まさないアリアの生家の地下牢は、あの夜に入手した素材を使って禁呪を逆探知するための拠点になっていた。
喉の奥に溜まった自分の血液で溺れそうになっている汚い肉袋を一瞥し、その下に描いた魔法陣が垂れ流される呪いの痕跡を正常に追えているかを確認する。すると魔法陣を構築する術式の一部が赤黒く輝き一目散に壁の方へ走っていく。昨日とは異なる方角。
あちらにあるのは確か金の教会が強い国。ジークからの情報を信じる限り、現状あの国にきな臭い噂などなかったはずだ。ただ妙だとは思うが、国という形であればどんなに平和な時代でもわだかまりくらいはある。何か恐れることがあり、それを自分でない他者の命で贖おうと考えるのは為政者の常だ。つまるところ珍しくもない。
術者はそこの王家に仕える宮廷魔導師か、それに連なる大貴族に雇われた魔導師だろう。今日あの方角にはレイラがいるはずだ。あの娘なら自分の能力を過信せずジークに指示を仰いで的確に探りに行くに違いない。そう判断したその時、背後で肉袋のどれかが絶叫する。
またかと呆れつつ振り向けば、クオーツが一番ガタイの良い肉袋の手首を引きちぎったところだった。鈍った嗅覚の代わりに鋭くなった聴覚のせいで、血が床を濡らす音や哀れっぽく啜り泣く声がやけに煩く聞こえる。だがここで殺しては意味がない。
「こらクオーツ。適当に遊んでも良いとは言ったが、アリアに似て美食家のお前の口にその私欲まみれの豚の血肉は合わんぞ。腹が減ったならあとで何か食わせてやるからそれは返せ」
「ギュルゥゥ、グルル……」
「これらはまだまだ使うんだ。治癒して元通りにしないと勿体ないだろう」
「ギギギッ、ギャワゥワーウ!」
「そうゴネるな。もう一回繋いだらまたちぎれば良いだろう? 玩具は丁寧に手入れした方が長く遊べるぞ」
手首を咥えて首を横に振るクオーツにそう言うと、壁に吊るした肉袋が一斉にビクリと跳ねて醜い声を上げた。耳障り極まるが愉快でもある。そしてこちらの言葉を正しく理解しているレッドドラゴンは、たちまち上機嫌になって「キュルル〜!」と甘えた声で鳴いた。こういう現金なところはアリアに似ている。
「物分りが良くて助かる。さ、貸せ」
「ウルルル~」
乱暴に吐き出されるへし折られた手首。剥き出しになった骨を確認し、砕けた部分の欠片を探す。クオーツには手入れと言ったが、本来こんなゴミ共にわざわざ割く座標などない。どうしても足りない細かな骨の座標は両隣の肉袋から抜き取って繋いだ。けれど繋いでやったことに勘違いしたのか「たずげでくれ」と醜く命乞いをしてくる姿に、思わずその爛れた耳を掴んで引き剥がして口に突っ込んでやる。
「自分の所業を忘れてその言葉が出てくるとは驚きだ」
湧いた頭では一瞬何が起こったのか分からなかったのだろう。実際腕とは違い耳が一つなくなったところであまり問題はない。耳殻が失くなろうが耳の機能は生きている。多少音が聞こえやすくなりすぎる程度だ。遅れて頬肉と歯を零しながら絶叫するのを無視し、隣で息を飲む肉袋の頭から流れる髪を梳いてやる。すると面白いくらい呆気なくごっそりと長い毛髪が抜け落ちた。
恐怖と絶望で咽び泣くそれに顔を近づけ「髪飾りはもう不要だな」と囁き、もう一方の肉袋には「喜べ。この中ではお前が一番呪い避けには向いている」と微笑みかけてやる。入れ知恵をした醜い女とその娘。アリアと同じ性別程度でかける情など削った爪のカスほどもない。
「お前達が受けた依頼だ。しっかり務めを果たせよ?」
「グゥオゥ……ゥゥ゙ゥ゙ヴ」
殺気立つクオーツと共にそう告げ、鎖にかけた極微弱な回復魔法の確認をして地下牢を出たが、出てすぐに扉の側に待機していたジークの部下にアリアがまた魘されていると聞き、その場で魔法陣を展開させてアリアを寝かせている部屋の隣まで飛ぶ。手早く自分とクオーツの全身に浄化魔法をかけ、互いに臭いチェックを済ませて隣の部屋へ続くドアを開けた。
ベッドに向かって飛び込みそうなクオーツの尻尾を掴んでゆっくりと近づけば、そこには傷一つない顔のアリアが寝かされている。けれど血の気を感じない真っ白な顔は苦しげに歪み、浅い呼吸をくり返す。
アリアが意識を失くしてからもう一ヶ月。身体の傷はほぼ癒やしたはずであるのに、一向に目覚める気配はない。施した術式のせいで痩せ細るということはないものの、ほとんどは安らかな寝顔であるのに時折こうして魘される。だが看ている方からすれば落ち着かないが、本来はこの方が良い。安らかに眠るということは精神が肉体から離れようとしていることに他ならないからである。
とはいえ、心配性なレッドドラゴンは気が気でないらしい。魘されるアリアの額に浮かぶ汗の玉を懸命に舐め取っては、目を覚ましやしないかと顔を覗き込んでいる。生物の頂点に位置する生き物もこうなってしまっては威厳も何もあったものではないが、気持ちが分からないわけでは――ない。
しかし起きたら起きたで伝えないといけないこともある。治療のために仕方なかったとしても、本人の意思を確認せずにわたしの血を媒介にこの座標を体内に入れたのだ。恐らくはもう……人の理から外れる存在にしてしまった。この人見知りが親しい友を得たのに、その友はいつか自分を置いて萎れて朽ちるのだ。
何十年、何百年と変わらぬ見た目のせいで一処にいることも叶わず、隠れるように生きる。一時の刷り込みに過ぎない好意の代償には大きすぎるそれを伝えなければ、この娘はどんな顔をするのだろうか?
「わたしにここまで面倒を看させるのはお前ぐらいだ。苦しいなら諦めてさっさと起きろ。起きて……いつものように食事の無心でもしろ。この馬鹿弟子が」
らしくもない感傷を誤魔化すためにそう囁きながら眠るアリアの鼻を摘めば、過保護で忠実なレッドドラゴンに手を叩かれた。次いで生意気にも立ち塞がるように翼を広げて「ギャウフッ!」と威嚇されてしまう。そんな姿に「何よ、冗談が通じないトカゲねぇ」と笑ったその時、魘されていたアリアがふっと表情を和らげて。その唇から「みるえいようざい……」と。謎の寝言を発した。