*4* ……では、ない?
駆けてくるマリーナはそのまま勢いを殺すことなくみぞおちの辺りに突っ込んできた。こっちでも痛みは感じると聞いていたから、慌ててマリーナを抱き止めて受け身の要領で後ろに転がる。幸い草がクッションになってくれたおかげで思っていたほどの衝撃はなかった。鈴の音が服に吸い込まれて不満気に濁る。
「はぁ……びっくりしたぁ。駄目だよマリーナ。いきなり突っ込んできたら」
状況がまったく分からないけど一応そう年上らしく注意をすれば、兄に似ず素直な少女は何度も頷きながらも、私の腰にしがみついたまま離れない。その健気さに庇護欲をそそられてちゃっかり抱きしめ返す。
「でも、ありがとう。きっとまた助けてくれたんだよね?」
直前まで見ていた夢は思い出せないけど、それだけは確信めいたものがあったからお礼を言う。するとこちらを見上げたマリーナが涙で瞳を潤ませながら頷く。ああ、参ったな、泣かせちゃった。私なんかのために申し訳ないなぁ。
その柔らかい頬を伝う涙を拭っていると、落ち着いてきたらしく恥ずかしそうに身体の上から退いてくれた。軽いからそのままでも良かったんだけど。姿勢を正したマリーナに「いくつか質問しても大丈夫かな?」と尋ねると、これにも頷いてくれた。これ以上泣かせないように質問にも注意が必要だ。
「えっと……私はマリーナが送ってくれたあと、復讐に失敗した?」
本当は〝ヘマして死んだ?〟とか〝ここって死後の世界だったりする?〟と聞きたいけど、それだとこの空間にいる彼女もそうだということになるから、オルフェウス様の努力を否定しかねない。兄の努力から導き出される希望を信じるマリーナにも失礼にあたってしまう。
敏い彼女はこちらのそんな空気を感じ取ったのかやや緊張気味に頷く。まずは肯定がひとつ。優しい彼女の負担になってしまうから、肯定と否定のどちらかが三回になった時点で質問は止めよう。
「じゃあ次の質問。ここには今、私とマリーナ以外に誰かいる?」
この問には首を横に強く振る。ということは、常時ここにいるかと思っていたトリックスターのマーロウさんもいないということだ。これで否定がひとつ。
「もしも私が頼んだら、あの場所にもう一回連れて行ってくれる?」
髪が乱れるくらい強く首を横に振る。かなり強めの否定――というか、これは拒否かな。でもこれで早くも否定が二つになった。
「ふむぅ……それなら、あの湖から私が今どんな状況か見られたりするかな?」
今度は少し悩むような表情を浮かべて小首を傾げてしまった。これは肯定でも否定でもなく〝不明〟という感じだと思う。愛し子の願うものしか見られない制約があるのかもしれない。復讐が失敗したということは、クオーツが私のお願いを聞いてくれなかった。
でもそれはきっとクオーツが私ごと屋敷を焼くのを躊躇ったからだと思う。優しい子だから。せめて逃げてくれたかは心配だけど、あの子は賢いからきっと大丈夫。ちゃんと一匹でも生きていけるはず。それにどのみち魔力で編んだ籠の綻びを見つけられなかったら、あの屋敷の人間を待つのは餓死だ。地下牢にいた子達よりは生ぬるいけど、それなりに苦しいのは間違いない。
――……師匠はどうだろう。
掃除も洗濯もからきし駄目だけど、料理は上手だし、魔術に関しては間違いなく天才だし、馬鹿で手のかかる弟子がいなくなったから、お金だって余裕がある。ああ、なんだ。よっぽど自由じゃないか。明日にもイケメンの恋人が出来たって不思議じゃない。そう思ったら何だかほんの少しだけ吹っ切れた。
もう身の程知らずなお荷物じゃない。あれだけ恩知らずな真似をしたんだし、すぐにこんな無理やり弟子を名乗って居座った図々しい奴のことなんて忘れてくれる。それならそれで本望だ。何にせよこれで結果はあと一回否定されたら質問は終了になる。とはいえ――。
「あはははははは! あーあ、残念だなぁ。どうしても派手に復讐してやりたかったのに!!」
勢いをつけて地面にごろんと仰向けに寝そべって叫んで笑った。最後の肉体の状況を考えれば、あの雪の上で汚いシミになって雪が溶けるに任せて骨だけ残して消えるのだろう。ここでこうしている自分も、いつまでもここにいられるわけはないから、近い内に消滅するんだと思うと――何だったんだろう、この人生は。
でも今更考えたって意味なんてない。何もない。師匠に会えて、クオーツに会えた。それだけでも充分だと思わないといけないのに、自分の意志に反して視界が滲んでいく。マリーナが慌てている気配は感じるのに慮ることも出来ない。せめて泣き顔を見られたくないからうつ伏せになって泣き声を殺す。
――……、
――――……、
――――――……それからどれくらいそうしていただろう。
泣き疲れてのろのろと起き上がった時には、傍にマリーナの姿はなかった。きっとせっかく助けたのに泣き言ばかりで呆れさせてしまったに違いない。三回否定が続いたらとか以前の問題過ぎるでしょうが。オルフェウス様がいたら絶対嘲笑では済まない。
こんなところでせっかく短い時間でもお喋り出来る人間が来たと思ったらこれって、なかなか絶望する。せめて消滅するまでの残り時間は良い話し相手になろう。
「あー……本当、自分のことばっかで最悪だな私。見つけて謝らないと」
立ち上がると三半規管がイカれるくらい泣いたようで足下が覚束ない。その場でしっかりと屈伸と柔軟運動をこなしていざ出発! しようとしたところで、ふとこの空間の道をまったく知らないことを思い出す。いつもはマリーナかマーロウさんについていくだけで良かったから、湖の場所すら見当がつかない。
「これ、下手に動いたら狭間の世界でたちまち迷子になる――ってこと? 嘘ぉ、格好悪すぎない?」
謝りにすら行けない状況になったことに一瞬愕然としたその時、近くの茂みからリン、と鈴の音色が聞こえて子兎みたいにマリーナが現れた。考えるより先に身体が動いて地面に膝をつく。
「マリーナ、ごめんね情けない泣き言ばっかり言って……本当にごめん! あ、でもこの謝罪は自己満足だから、マリーナが許したくないなら許してくれなくて良いよ!?」
謝罪のはずなのに謝り方が誤ってる。驚きに目を丸くする美少女を相手に、自分でも分かってるけど混乱して言葉が組み立てられない! けれど彼女は気圧されつつはにかむと、小さな手で私を手招いた。
「えっと、ついてこいってことかな?」
泣きすぎたせいで酷い鼻声でそう尋ねると、彼女は力強く頷いてくれた。