巨大結晶の森
闇に運ばれる。風原の感想はそれだ。
何も見えない。目蓋が開いているかすら分からない闇。完全な無音。感じるのは自分の肉体と、捕まれた腕の感触。それに動いているという実感。
風も感じないのに、慣性だけは体で分かった。
目隠しと耳栓をした上で、暴走車に振り回されているような不快感。このままこれが延々と続くなら精神的に死ぬ。そう風原の脳が苦痛を訴えたところで、その抑圧から解放された。
世界が急激に色を取り戻す。
「――うわああああ~~!!」
音が戻って来て、風原ははじめて自分が叫んでいたことを理解した。
だが、例え“穴”の中で叫んでいなくとも、現在の状況を見れば叫ばずにはいられなかっただろう。
“穴”を抜けた先にあったのは、端が見えないほどに広大な崖だった。風原たちは崖から投げ出されたような形で宙にいる。
地面は遥か先。異なる世界でも正常に働いている重力が、風原たちの体を下へと引っ張る。内臓が浮き上がる感触に風原は叫ぶしかない。
「うわああ!? トンネル抜けたら紐無しバンジーぃぃ~~!?」
混乱しすぎて意味のない言葉が口から溢れ出る。地面が遠すぎるせいか、走馬灯もすぐには浮かんで来なかった。
「風原!! 叫ぶのを止めなさい!! 舌が飛ぶわよ!!」
朝比奈の鋭い一括に、風原は一瞬で叫びを止める。朝比奈はチームメイトだが、同時に風原の訓練教官でもある。それも、すぐに手が出る鬼教官。指示に従うのは、もはや条件反射の域だ。
黙った風原と、言われなくても沈黙している荒崎を確認して、朝比奈は自らの加護を発動する。
淡く輝く『剛力の腕輪』。朝比奈は無双の剛力をその身に宿す。
“穴”に入る直前に朝比奈が2人の腕を掴んだおかげで、3人は固まった状態で落下している。朝比奈の左右に男2人だ。
「ふっ!」
朝比奈は短い呼気と共に掴んだ2人の腕を離し、瞬時に2人の腰のベルトを掴んだ。そのまま荒崎と風原を掲げるように持ち、眼下を睨む。
遥か先の地面まで続く崖。だが、その角度は垂直ではない。ほんのわずかに傾斜がある。
さらに崖の壁面には所々せり出した岩のような物体があった。
このまま落下して行けば、壁面か岩のどちらかにぶつかる。
瞬時に状況を理解した朝比奈は、精神を集中してタイミングを待った。
狙いは壁面と岩を利用し、落下速度を殺すこと。力加減を間違えて跳ねてしまえば、待っているのは転落死。要求されるのは、繊細な肉体操作だ。
それを理解し、チームメイトの重さを確かめたところで、朝比奈は小さく呟いた。
「行くわ」
朝比奈の足が、崖の壁面へと触れる。瞬間、繊細に、精密に、朝比奈は最初の衝撃を膝で吸収した。剛力を宿す朝比奈でなければ吹き飛ぶような反動が襲う。
「……っ!」
脚への衝撃を無理やり押さえ込み、補強したブーツでガリガリと岩肌を削りながら滑り落ちる。
突き出した岩の手前で朝比奈はさらに強く踏ん張り、落下速度を数瞬だけ緩めた。
そのまま迫る岩を蹴り飛ばし、朝比奈は横向きに跳ぶ。迫る壁面に着地して、力任せに走り出す。
壁面を削るように走って落下の勢いを落とし、せり出した岩を蹴って方向を修正し、さらに走る。その神業の傍らで、男2人の気持ちは一つだ。
――これは、死ぬ。
朝比奈は2人に急激な負荷がかからないように、円運動で2人の慣性を制御している。だがそれは、2人にとって常に振り回されているのと変わらなかった。
目まぐるしく変わる視界。口から飛び出そうな内臓。強張って痛む間接と筋肉。恐怖と苦痛で薄れそうな意識の中で、風原はふとチアリーディングのボンボンを思い出した。
笑顔で振り回されるあの飾りは、とても過酷の環境にいたのだなあ、と……。
そんな風原の内心を読む暇もない朝比奈は、斜めに崖を走り下りながら、あるものを見つけた。
それは崖に開いた洞窟だ。奥は見通せないが、見える範囲でも3人程度なら体を押し込められる空間がある。
現在位置から十分に間に合うと判断した朝比奈は、その洞窟へ向けて岩を蹴る。一度、二度、三度。せり出した岩を伝って移動する。
「ぐおおおっ」
「むううぅっ」
男2人の唸り声を空に靡かせながら、朝比奈は洞窟へと飛び込んだ。
ギャリギャリと地面を削り、頑丈なブーツに悲鳴を上げさせながら減速する。最後に2人の慣性を押さえ込み、朝比奈は停止した。
「……ふう」
ベルトから手を離された2人が、べしゃり、と地面に落ちた。
「し、死ぬかと思ったぜ……」
「い、生きてる? 僕の魂、入ってる?」
「2人とも大丈夫そうね」
地面に這いつくばる2人に怪我がないことを確認して、朝比奈はサラリと言った。
「な、なんとかな……。悠馬、大丈夫か? 産まれたての小鹿みたいになってるぜ?」
「源治郎も、マッサージ機に座ったお客さんみたいになってるよ……」
三半規管がシェイクされ、恐怖に体を固めていた2人が起き上がるのには、それから数分を要した。
数分後、立ち上がった風原は目の前に広がる光景に感嘆の息を吐いた。
「すごいね……巨大結晶の森って感じ……?」
落下の最中には認識する余裕のなかった景色を、風原は改めて眺める。
目に映るのは、起伏の激しい大地と、その上に乱立する巨大な結晶群。地球ではあり得ない大きさの結晶は、太陽の光に照らされて極彩色の輝きを見せている。
そして結晶の根元では、同じような体を持つ鉱物獣が蠢いていた。この場所は、まさに鉱物獣たちの領域だった。
「綺麗だけど現実感のない光景ね。あの結晶って何で出来ているのかしら」
「さあな。確か最近の研究で、魔獣やこっちの世界の物質には正体の分からない原子が含まれてる、とかなんとか言ってなかったか?」
「質量的には存在するはずなのに観測できない粒子、とかって話じゃなかった?」
「そうだったか? ま、細かいことはいいだろ。今はどうやって地球に帰るかって話だぜ」
3人は顔を見合わせる。風原はイヤホンマイクを操作してみた。
「さすがに無線は繋がらないね……。助けを呼ぶのは無理かも」
「“穴”を潜った上に洞窟の中だからな。電波も届かねえだろ」
「つまり、自力で戻るしかないということね。ところで、2人ともロッククライミングの心得はあるかしら?」
「ねえな」
「同じく。むしろあったらすごくない? 朝比奈さんはあるの?」
「もちろんないわ」
「だよねえ」
洞窟の入り口、太陽の光が差し込む場所で、3人は今後について話し合う。
「朝比奈。上まで登れるか?」
「2人を抱えてなら無理ね。1人でも怪しいわ。私の加護は体力までは増やしてくれないから、登っている間に力尽きる可能性が高いわね」
3人で洞窟の入り口から空を見上げてみる。崖の上は遥か彼方だ。朝比奈も今日は既に解放作戦で戦っている。これ以上の無理は厳しいだろう。
荒崎が首筋を掻きながら暗い洞窟の奥を見た。
「とりあえず、この洞窟を進んでみるか。奥から風が来てるしな。空気の流れあるってことは、どっかに別の出口があんだろ」
「そうね。ひとまず、それに賭けてみるとしましょうか」
「というか、それしかなさそうだね」
意見が一致したところで、風原は改めて洞窟の外を見た。幻想的過ぎる景色の中には、異形の獣が我が物顔で闊歩している。
「……この洞窟に魔獣が棲み付いてなくて良かったね」
つい先ほどまで朝比奈以外は戦える状態ではなかった。洞窟の外に弾き出されていたら、次は助からなかっただろう。
「洞窟の奥にはいるかもしれねえけどな」
「そうね。戦いに備えて、私と荒崎が前を進みましょう」
「だな。悠馬、はぐれるなよ?」
「了解。よろしく。僕は後ろで旗でも振っておくよ。あ、灯りはどうする? いちおうペンライトならあるけど」
「俺の炎で照らせばいいだろ」
「……洞窟で火って危なくない?」
酸素不足、ガス爆発と言った文字が風原の頭をよぎる。
「大丈夫だろ。何も燃やさねえように制御しとくからよ。そうすれば酸素も使わねえ」
「……いつ聞いても、源治郎の炎って化学的には火じゃないよね。何も燃やさないのに火があるってどういうこと?」
「さあな。そこら辺の法則に縛られないからこその“神の加護”なんだろ」
「まあ、そうかもしれないけどさ……」
「2人とも、そろそろ出発しないと日が暮れるわよ」
「そうだな、行くか」
「了解。前衛は任せるよ」
気負いもなく3人は未知の洞窟の奥へと歩き出す。緊張感はあったが、取り乱すほどの焦りはなかった。
人類が培ってきた常識と呼ばれるものは、一年前の次元災害でバラバラに砕け散ったのだ。
今や、命懸けで生き抜くことが日常だ。困難を前にただ狼狽えるような贅沢をする余裕を、3人は持ち合わせていなかった。
「しっかし、このタイミングで別世界に来るとは思ってなかったぜ。ありゃなんだったんだろうな」
「分からないわ。“穴”が私達を狙って動いたように見えたけど」
「“穴”については分かっていることの方が少ないもんね……。戻ったら、馬場さんに聞いてみようか。何か知ってるかも」
3人は会話をしながら洞窟を進む。先頭を歩く荒崎が炎で周囲を照らし、その後ろに朝比奈、風原と続いている形だ。
「“穴”どころか、魔獣の生態やら加護の仕組みやら、全然分かってないのが現状だけどな。この洞窟も、いったいどうやってできたんだ?」
荒崎が炎で洞窟の壁面を照らすと、金属の光沢が炎の色を反射した。3人が歩いている洞窟は、自然に出来たものとは思えないほどに滑らかな曲線を描いている。
「明らかに金属だよね。確か崖の途中の洞窟は、水が流れる勢いで削られたものが多いはずだけど……こんなに綺麗に削れるのかな……。もしかして魔獣の巣だったり?」
最後尾で風原は不安そうに眉を寄せた。この中で一番戦闘力が低いのは風原だ。一本道の洞窟では逃げることも難しい。
風原の不安な声に、真ん中を歩く朝比奈が落ち着いた様子で反応した。
「少なくとも魔獣が動くような音は聞こえないわね。巣だったとしても、今はたぶん留守じゃないかしら」
「あいつらはデカいからな。足音を隠すのは無理だろ」
「だといいけど……」
不安を覚えながらも風原は歩き続ける。後ろに下がっても問題は解決しないのだ。ならば、危険があろうとも前に進むしかなかった。
未知の洞窟を歩くこと数十分。3人の前で洞窟の壁と天井がなくなった。厳密にはそう感じるほどに唐突に、3人は広い空間へと出た。荒崎の炎が照らす範囲だけで、学校の体育館くらいはある場所だ。
慎重に足を踏み入れる。
壁面には、先ほど見た外の景色と同じように巨大な結晶が突き出していた。
太さだけで風原の身長ほどもありそうな結晶が複雑に絡み合う姿は、ここが敵地でなければじっくりと観察したいと思わせるような、神秘的な光景だ。
「こりゃまた壮観だな」
「近くで見ると迫力がすごいね……。別世界のサンプルとして、小さい結晶でも拾ってく?」
「……」
「あれ? 朝比奈さん?」
何も言わない朝比奈に、風原は巨大結晶から目を離して声をかける。その声にも反応せず、朝比奈は空間の一点を見つめていた。珍しいことに、柳眉が困惑を示すように寄っている。
目の前の光景に見惚れている、という訳ではないようだ。
風原に見つめられて、ようやく朝比奈は口を開く。闇の奥を指先ながら、
「荒崎、風原。あれ、見えるかしら」
「ん~? 暗くて見えねえな。ちょっと待ってろ」
荒崎が炎を広げる。燃え上がる炎に合わせて、巨大結晶の影が怪しく揺れた。
影の向こうに、朝比奈が示したものが見える。
巨大な水晶だ。透明度の高い水晶が、半ば壁と同化するように埋まっていた。
そして、その水晶の中に何かある。
「……なんだあ?」
荒崎が疑問の声を上げる横で、風原は目を凝らす。水晶の中に存在するのは――
「――女の子?」
遠目に見ても明らかに、そこには髪の長い少女が眠るように浮かんでいた。