御前試合
「……なぜ、あそこでやめたのです?」
木剣の文字を、水で濡らした布で拭き取りながら、モリスがそう尋ねてきた。
墨文字は、一度完全に塗りつぶしてから拭き取ることになっており、水拭きで完全にきれいにするのは難しい。モリスは、何度も桶に布をつけながら丁寧に木剣を擦りつづけている。目はこちらを一瞥だにせず、何を考えているのか、よくわからない。
「ただの、試合です。」
かろうじて、絞り出すようにして、メイはそう答えた。
木剣につけた『名前』を、使わなかったことを言っているのだろう。
ただの、試し合いだ。奥義をつくして戦うような場ではない。あいてが降参した以上、こちらの面子も立った。それに、ラナ=デミギアは力自慢の道場破りというわけではない。都の役人で、きちんとした用件あって来たのだから、あれはただの座興というもので──、
いろいろな言い訳が頭をよぎるが、口からは出てこない。
モリスも、それ以上何も言わない。ただ、一心に剣を磨き続けているようにみえる。
「今日は、もう……休みます。夕餉は要りません」
そう告げて、立ち上がる。モリスは、こともなげに「はい」と答える。
私室にはいってから、メイは大きくため息をついて、考える。
父なら、どうしただろう。いや、モリスなら。
彼ならば、あんな無様な試合はすまい。奥義をくりだすまでもなく、きっと──
私は……、
*
ラナ=デミギアの用件というのは、こうであった。
宮廷武術指南役という役職がある。武術家が宮廷人となる数少ない役のひとつで、ときには皇帝に直接武術を指南することもある。
武術家として、公式に得ることができるものとしては、最高の名誉といってよい。
しかし、その選抜は、かならずしも武術の実力によるわけではなく、家柄と政治力によって左右される。現に、ここ数代はデミギア家が独占している状態である。
それでは、公正ではないのではないか、ということになった。
ラナは明言しなかったが、言い出したのは皇帝であるらしい。指南役にふさわしい実力を、はっきりと示せと。
そこで、全国から、ふさわしい実力を持つ武術家を集めることになった。
デミギア家のものたちが、帝国じゅうを廻って、優秀な武術家をさがし、ひとところに集めて武術を競わせる。しかるのち、もっとも強いと認められたものが、皇帝の前で現職の武術指南役と戦う。そういうことになった。
指南役と戦うといっても、結局は、デミギア家が主催する試合であり、真剣勝負というよりは、ほどよく戦って負けることが求められるのではないか。そうも思われる。
だとしても、御前試合に出られるのは名誉である。多額の褒美も出る。指南役に取って代われるわけではないにしても、皇帝に技を見せることができれば、出世の足がかりになる。
よい話、であった。
けれども、メイはすぐ返事をしなかった。いったん保留して、二日後にふたたびやってきたラナに、ゆくと告げた。
実のところ、ゆくかどうかで迷っていたわけではない。
迷っていたのは、だれが出場するかだ。
いや、迷っていたというよりも、待っていた。
結局、モリスは何も言わなかった。だから、メイが出るしかなかった。