古井戸
地下への入口といっても、目に見えるところにあるとは限らない。
廊下をすみずみまで歩いてみたが、下向きの階段はない。
どこかの部屋に、入口があるのかもしれないが、そうなると簡単にはいかない。
下人をひとり、捕まえて、聞き出してみるか──
そう、思い始めたころ、モリスがいったのである。
「外は、いかがですか。……たとえば、井戸は。」
*
裏庭の、すみ。
うっそうと茂る広葉樹、月光をかくすように幾重にもかさなった木の葉のかげ。
裸井戸が、ぽつんとあった。
この屋敷の規模には不似合いなくらい、小さく、古い井戸。赤茶けた煉瓦づみの。
それから──
異臭。いや、金属臭と、かすかな腐臭。
「……鉄くさいな」
ケイが小さくいった。モリスは鼻をおさえて、頷いた。全身に薄い緊張をまとわせながら、あたりを見回す。二人のほかには、誰もいない。西と南には壁、ほかは密集した木のかげで、視線は切れている。
モリスは、腰につけた矢立を外して、筆をとりだした。ぴっと墨をきって、左手の指先にちいさな文字をふたつ描く。
それから、呪文。ぴいんと、弦をはじくように張り詰めた呪語。
薄紙にとじこめた蛍のような淡い光が、指先にともった。
井戸のなかに手を入れる。ボンヤリと、砂埃にまみれた空気が照らされる。それに覆いかぶさるように、より強い異臭が。
何も見えない。
もう一度、唱える。少し長い呪文を、かさねて。
ぱあっと、光量が増した。
井戸のなかには、真新しい血でべったりと覆われた死体が、山のように積まれていた。
「……やはりか、」
と、誰かの声がした。
モリスとケイは、大きく身をふるわせて振り返った。さっきまで、誰の気配もなかったはずだ。いや、今もだ。
気配のない男。
人のよさそうなはげあたま、両脇に少しだけ白髪を残した小男だった。にやつきながら、右手でぽかんと自分の頭を叩いて、
「ほォ、何かあると思うて、気をさぐりさぐり追ってきたらよ。案の定」
そう、言ったのは、エマ=ナンラの仲間。パミリス人の男、パナン=ミムルであった。
「あんたたちの目当ては知らぬが、こりゃ容易ならぬのう。殿上人の屋敷に、これほどの血の匂いとは! しかもこれァ、新しいぞ。ゆうべか、その前の昼間か。念入りに掃き清めてあるが、屋敷からここまでの道にも、ずっと──」
「あら、」
それから、すっと、ごく自然にさしこまれたのは、ラナ=デミギアの声であった。
モリスはぞっとしてもう一度、あたりを見回した。井戸のこちら側に、ケイ=バムンとパナン=ミムル。右はすぐ壁。左は木々にさえぎられている。頭上はむろん何もない。
ふたたび、正面を見る。井戸のすぐむこうに、ラナが微笑んでいた。
ばかな。
さっきまでは、──絶対に、いなかった筈だ。
「……ラナ=デミギア」
モリスはかわいた声で、つぶやいた。
「なんです?」
ラナはころりと頭を振って、かわいらしい声で聞き返した。
しばしの沈黙のあと、口を開いたのは、ケイであった。
「ちょうどいい。……説明してもらおう。この井戸の中に、」
「盗賊です。」
「なに!?」
「昨夜、この者たちが、デミギア家を襲いました。物取りです。ですから、返り討ちに」
すらすらと答えるラナに、ケイはぐいと踏み寄って、
「それで、井戸に投げ込んだと? そんな無法があるものか。」
「あらあら、無法。」
ラナはたのしそうに目をくるくると動かして、「それはまた、」と嘲るようにいった。
「ケイ様に、それをいう資格がおありでしょうか。」
「なに!?」
「10年前、あなたは法も、責任も、なにもかも放り出して宮廷を出たではありませんか。覚えておりますよ。夫のある女性と恋に落ちたあげく、それが公になるや否や、家も爵位も、あいての女性すらあっさりと棄てて──」
わざとらしく、小さく手ぶりをくわえて。
ケイは、顔をしかめるように身じろぎをした。覆面で表情はわからないが、声だけで、苛立っているのはじゅうぶんにわかった。
「……きさま、あの時はまだほんの子供ではないか。」
モリスは、ちょっと身をひくようにして、ふたりの会話をきいていた。
パナン=ミムルが横目にこちらをみる。やわらかい顔であるが、表情は読めない。
いったい、何が始まったというのか。
「16は子供ではございませんよ、若様」
「嬲るのはよせ。……そういうことを言うなら、きさまこそ、素性をかくしているではないか。どういうつもりだ。」
「とは?」
「しらじらしく、デミギア家の家人などと名乗りおって、きさまがデミギア家の当主、武術指南役その人ではないか。なぜ、隠す」
そう、ケイが指摘しても、モリスは驚かなかった。
むしろ、──そうでなくては。
「あらあら、ご存じでしたか。」
「おれが知らんわけがあるか。……いずれにせよ、きさまはただの武術家であろう。死者を蘇らせるなどと……どういう茶番だ。答えろ!」
「明日の朝、お答えしましょう。今は、──まだ。」
ぱちぱちと、長いまつげを見せつけるようにまばたきをして、
「さァ、……これより、敗者復活戦を行います。」
ことさら、ゆっくりと、微笑みをたたえながら。
「みなさま、すぐに中庭までおいでください。……よしなに。」




