断ち切るべき畏怖の念 (9)
ザ・マザー<激情態>との激闘は続く。
規格外の攻撃力を誇るザ・マザー<激情態>の攻撃によって、ココの精神世界の空や大地は見るも無残な風景へと変わり果てており、その攻撃を一発でも受ければ塵ひとつ残らず消滅してしまうだろう。
もちろん少しかすった程度であっても瀕死の重傷を負う事は避けられない。
であるならば、こちらが取るべき選択肢はひとつ。ひたすらザ・マザー<激情態>に攻撃を仕掛け続け、ザ・マザー<激情態>に防御以外の行動を取らせない事だ。
とはいえ、ザ・マザー<激情態>はその防御力も規格外である。
並大抵の攻撃ではビクともしない、というより防御の構えすら取らない。
通常攻撃は当然の事、秘奥義未満の通常攻撃最大火力の技ですらだ。
となれば、残された選択肢はひとつしかない。
そう、秘奥義と混種能力を掛け合わせた連続波状攻撃だ。
しかし、この戦法は精神世界にいるからこそ取れる戦法であり、現実世界ではまずもって取れない手段である。
ゆえに、この戦法に打って出た時点でもはやザ・マザー<激情態>を対アシュラ戦を想定した仮想の練習相手に見立てた想定はもろくも崩れ去ったわけだ。
そう、もはや仮想アシュラにうってつけなどという悠長な事を言っていられる状況ではないのだ。
いや、そんなものは最初から存在しなかった。
最初から全力で挑まねばならない相手である事に変わりはなかった。
ただほんの少し、欲が出て力試しをしてみようかと思ってしまっただけだ。
そんな余裕はないというのに。
そんな舐めた姿勢で挑んで敵うわけがないというのに。
とはいえ、おかげで収穫はあった。
それは……
(こいつはその時その時の状況に応じて戦闘中だろうと自己進化を行っている。常に最適解の体に作り変えている。その証拠にやつの姿はどんどん人型に近づいている!! 確かに角や背びれや羽根や尻尾や肩から生えた棘はそのままだが、それを除けば、もはやフォルムは完全に人間のそれだ! つまりはこのココの母親を模した敵は自己進化によって人型に変化しようとしているんだ!! それが敵の導き出した最適解なんだ!)
人間などという罪深き不完全で下等な存在ごときが全知全能の、すべての理の父たる神の姿を壁や画板などに描きだすなどおこがましいにもほどがある。
かつての導師や多くの神職たち、神学者たちはこぞって嫌悪感を持ってそう口にした。
しかし、実際には数多くの宗教画に神のその姿は描かれている。
とはいえ、すべての宗教がそれを許したわけではない。
宗教によっては偶像崇拝が禁止されていたり、神の姿を連想するようなものを生み出す行為自体を禁止していたりもする。
そんな宗教においては当然ながら、神の姿が描かれた宗教画など実在するわけがない。
しかし、大多数の宗教では偶像崇拝が認められ、わかりやすく信者の頭の中に神の姿を植え付けるために、神を描いた宗教画が数多く制作され残されている。
そんな宗教画の中で描かれる神の姿はどれも人の姿をしたものばかりだ。
中には獣の姿をしたものも、宗教によってはあるにはあるが、大概は人間の姿として描かれている。
これは人は神が生み出したものなのだから、神が人の姿をしていて当然。我々人間は神の姿を模して造られた存在だからだ、という説を神学者や宗教家は唱えるが、単純に人間ごときの浅はかな知能では全知全能の神の姿など想像もできないのだから、仕方なく身近な存在として我々に似た姿で描いているという説もある。
いずれにせよ、宗教画は個人の思想や信条によって画家本人が自主的に制作する場合もあるが、大抵は教会や寺院からの依頼で制作されるものであり、制作が依頼された時のその国の政情が安定しているかや治安の良し悪し、民衆の不満が溜まっているか、王侯貴族がこの世の春を謳歌しているか、疫病が蔓延し社会全体が先が見えない不安に包まれているか、教会や寺院の発言が権力中枢に影響を与えているかなどによって、その描かれ方は大きく変わるのだ。
言うなれば宗教画は描かれたその時代、その地域の世俗を現しているとも言える。
何にせよ、言える事はどんな時代のどんな宗教画であろうと、神は人の姿をして人の前に姿を現しているという事である。
それがたとえ、病める民の救済であろうと、歴史に名を刻む王の戴冠式だろうと、権力者の圧制に我慢の限界がきて蜂起した民衆を扇動する姿だろうと、どんな状況でも神は平等に人の姿なのである。
そうして描けば、身近な存在も、もしかしたら神が人の世に紛れているのかもしれないと思う様になるからだ。
そうした思い込みの先にあるのは、この子は天才だからもしかしたら神様の生まれ変わりなのかもしれないという錯覚だ。
あの教会の神父は〇〇だからきっと神の御使いに違いない!
あの領主は〇〇の才があるからきっと〇〇の生まれ変わりだ!
この国の王子は〇〇らしいから、ひょっとしたら……
あの旅の一座の〇〇実は……
そうした噂話を含めたすべてのものを教会や寺院はコントロールし、巧みに使いこなす事で権威を握り続けるのだ。
つまりは神が人の姿をしているのは、そうであるほうが教会や寺院、時の権力者にとって都合がいいからである。
とはいえ、中には純粋に神が人の姿をしているのは、必然としてそうなったからだとする思想をもったものもいる。
曰く、人の姿形というのは進化の過程でたどり着く最適解な姿なのだとか。
人の姿形こそがもっとも効率よく活動ができる理想の形態であり、これ以上の変化はあり得ないだろうと、だから神も人の姿をしているいうのだ。
実はこの思想を持ったものは現代でも数多く存在し、某有名映画監督もこの思想に共感を抱いていると言われている。
ゆえに彼の作品には神の御使いが人型の巨人だったり、怪物がラストで人型に進化しかけていた描写が存在するのだが、それはさて置き、仮にも神が存在するとして、そんな都合よく人間と同じ姿になるか? と普通は思うだろう。
しかし、あながちこの考えは間違ってないのかもしれない。
実は自然界には、まったく別個の生態系の生物であっても、互いに似た環境に放り込まれてそこで生き残らなければならないとなった場合、互いに似たような進化を遂げて、最終的に似た姿になるという現象が発生する。
これを収斂進化、もしくは収束進化という。
たとえば代表的なものとして、鳥と蝶もしくは蛾はそれぞれ脊椎動物と節足動物とまったく異なる生態系の生物だが、その翼と羽はそれぞれ飛翔するための構造と役割が酷似しているし、モグラとオケラも、それぞれ脊椎動物と節足動物だが、その前脚はどちらも地中をかき分けて穴を掘り突き進むため見た目が酷似している。
見た目という意味では同じ脊椎動物の哺乳類同士でも、カンガルーの仲間のクスクスと猿の仲間であるキツネザルは見た目や木に登るための体の構造が酷似しており、海に目を向ければ哺乳類のイルカやシャチと魚類の一般的なサメは体形が酷似する。
また哺乳類で唯一甲羅をもつとされるアルマジロとダンゴムシも、その身を護る術が酷似している。
これらは起源を同じくするものでなく、またそうなるように進化していった過程と時間も異なるが、収斂進化によって相似器官はたしかに生まれるものであり、これが同じ場所でなく、似たような環境の異なる場所や地域、たとえば海を隔てた別の大陸で起こった場合は平行進化と呼ばれる。
ではこの平行進化が地球上の人間と、どこか遠い世界の神とで起こったとしても不思議ではないだろう。
過程は違っても、世界は異なっていても、最終的に酷似した姿形となったのだから……
そして、その収斂進化を今まさにココの母親であるザ・マザー<激情態>が引き起こしているのだ。
正確にはココに憑りついた暴走した迷宮の核なのだが……
何せよ、ザ・マザー<激情態>はこの戦闘の最中に自分やココと同じ、人間の姿が戦闘においては最適解だと理解し、どんどんと人間の姿へと寄せていっているのだ。進化していっているのだ。
恐らくはこのまま戦闘を続けて、こちらが秘奥義に混種能力を放ち続ければいずれ、それに最も効率よく対処する姿という意味で、完全に人型へと変貌を遂げるだろう。
そうなった場合、どれだけ面倒な事になるか想像もつかない。
だが、同時にそれはココに自己進化を促す絶交の材料ともなる。
何せココが自己進化を嫌がる理由は、それを行えば厳つい魔物の姿になるからで、そのせいで自分に嫌われると恐れているからだ。
だが、自己進化を行っている畏怖の対象の相手がその自己進化で厳つい魔物の姿ではなく人間の姿になったとなれば、ココは確実に考えを変えるはずだ。
(だからこそマザー! てめーにはさっさと完全な人型になってもらわないとな!!)
思って混種能力による強力なエネルギー波を放つ。
これをザ・マザー<激情態>は右手を振るって弾くが、しかし弾いた後のその姿はさきほどまでとは打って変わていた。
そう、その姿は紛れもなく……
「っ!! へへ、ようやくなったな……人型によ」
誰がどう見ても、完全に人であった。
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