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前日譚と後日談
「この前は思い込みであれこれ言っちゃってごめんなさいね!」
息子のお迎えに保育園へ行くと、担任の先生に突然謝罪をされてしまった。
「えっと、突然どうされたのでしょう。何かありましたか。」
「ほら、あっくんのお喋りについてですよ!ましろ先生からお家でしっかり読み聞かせされてるみたいって聞きまして、じゃあこの前のアドバイスあんまり意味なかったなーと思いまして。」
その件か。今更だけど。
「いえ、お気になさらず。どちらにしろ今後も続けたいと考えていますので。」
嘘です。もっと子育てアドバイス()の仕方については気にしてほしいです。特に決めつけでアレコレ言わないで。読み聞かせがすべてじゃないでしょうよ。ただ、うちの子の場合いつの間にか生活のルーチンになってたみたいで、読み聞かせをしたほうがすこんと眠って都合が良いから続けるってだけだから。
「そうですか。それなら良かったです〜。」
もっと気にして。
「ところでましろ先生は最近お休みされているんでしょうか。」
「あら、ましろ先生はここには忙しいときの期間限定でお仕事に来ていたので、もう来ませんよ。」
『えっ!』
近くのママさんとハモってしまった。
わかるわ!きっとお子さんがましろ先生に懐いてたんでしょうね。
「次はいつ来るとかって···」
「うーん、先程申し上げた通り忙しいときだけって聞いてたから難しいかもしれませんね。」
ええっ、残念。息子がショックを受けてるんじゃないかと心配して顔を見てみると、ご機嫌な笑顔だった。あれ?案外懐いてなかったとか?いやいや、そんなはず···。
ましろ先生は3ヶ月くらい前に保育園に来てくれた。でも私が最初に先生を見かけたのは最寄りの駅だった。
「ねっ、連絡先教えてくんない?」
「・・・。」
にやにやと下品な笑みを浮かべた男に小柄な女の子が絡まれていた。女の子は首を少し傾げると一歩後ろに下がり、軽く頭を下げるような仕草をすると足早にその場を離れようとした。けれど男は諦めず「ねっ、どうかな~」としつこく後をついて行く。
誰か止めてくれそうな人いないかしら。明らかに迷惑そうにしてるでしょ、あれ。
通勤の時間帯ということもあり、周りに人はいるけれど女の子を気にしているのは私や年配の女性くらいのようだった。
・・・私でも止められるかしら。と思っていたら女の子が駅員さんに話しかけている!スマホを見せながら何か聞いているようで、その間近くで男はウロウロとしていた。しつこい!なんとなく見守っていると、女の子は駅員さんにペコリと頭を下げ出口へ行ってしまった。男もそれについて行こうとしたが、駅員さんに話しかけられ足を止めることになっていたうえに何を言われたのかとても慌てているようだった。そしていつの間にか女の子の姿は見えなくなってしまった。
これなら大丈夫かな。なんとなくずっと見守っていた近くの年配の女性と目を合わせお互いに会釈し、駅のホームへ急ぐ。今なら私も電車に間に合う!そうして職場で1日働き、保育園にお迎えに行ったら朝の女の子がそこに居た。
「昨日からこちらで勤務しているましろと申します。よろしくお願いいたします。」
「はい、こちらこそ杏里をよろしくお願いいたします・・・。」
何とか返事をしながらも、女の子ことましろ先生の膝の上ではにかんでいる息子から目が離せなかった。
「あの、」
戸惑いつつも話しかけると、マスクと眼鏡で顔が隠れているけれど、近くで見ると長いとわかる睫毛をパチリと動かし穏やかに何でしょうと応えてくれる。ただこちらを見ているだけなのに、どこか落ち着かない気分になる不思議な目が印象的だった。
「あの、杏里は人見知りなところがあるんですけど、今日は大丈夫でしたか?」
新しいことに慣れるのに人一倍時間がかかる子で、去年から通っているこの園にも朝に預けるときに1人だけ冬の終わりまで泣いていた。
新しい園児や先生が増えたことでまた暫くは朝夕に大泣きすると思っていたのに、これはどういうことかしら。
「杏里くん、今日はお散歩に行く頃には泣き止んでいました。おやつを食べた後は皆で順番こに膝に座って遊んでいましたよ。」
「えっ!順番を守れたんですか!?」
「??そうですね、最初は難しいようでしたが、なっちゃんの後ろに並んでねと声をかけたりしていたらちゃんと並んでいましたよ。」
休日の公園で遊具を使う順番を守るということがわからなくて泣いていた子がいつの間に。今まで公園にはなるべく人が少ない場所や時間を選んで連れて行ってたけど、これからは大きな公園にも挑戦できるかな。
「······そうなんですね。杏里は本当に喋らないのに、妙にこだわりが強いところがあるので、何を考えているのかよくわからない子ですが、よろしくお願いします。」
保育園用のリュックを棚から引っ張り出そうとしている杏里は、どこか他の子に比べて動き方がぎこちないように見える。
「はい。でも個人的には喋るのは苦手なら無理にお話しなくてもとは思いますけどね。」
「えっ」
「無理に喋らせようとすると、余計に話すこと自体のハードルが上がってしまいそうですから。まあ、今日は気持ちが伝わらなくて困っていそうな場面があったので、ジェスチャーでやり取りをしてみたんです。」
その言葉に驚いていると、ましろ先生はするりと杏里のそばにしゃがんでいた。
「あっくん、何かしてくーだーさいかな」
そう言いながら、広げた手の甲を反対の手のひらにペチペチと重ねる。
「それとも大丈夫です、かな」
今度は手のひらを相手に向ける。
何かしらと見守っていると、杏里が慌てたように手を重ねてブンブンと上下に振った。動き方が少し違うけど、これは······
「してくださいだね。どれかな。」
すると今度はファスナーを指差す。
「リュック開けてくーだーさい、かな。」
うんうんとうなづきながら、重ねた手を上下に振る。
ファスナーを開けると、ありがとうございます、どういたしましてとましろ先生が言うと、杏里もはにかみながらうなづいているのを呆然見つめる。
いつもして欲しそうなことはきちんとやってきたけど、いつのまにこんな”やり取り”ができるようになっていたのかしら。
今まで気づかなかったなんて······
リュックに荷物を入れ、最後に2人でファスナーを閉めると、それを背負った杏里がこちらに戻ってきた。どうしよう。
「ファスナーのつまみの部分は小さくてまだつまむのは難しいですよね~。」
戻ってきたましろ先生言われて気づく。そうだ、引き手の紐もつけてあげないと。去年はほとんど私がやっていたから良かったけど、この子は指を細かく動かすのも苦手なんだから。ああ、何だか色々だめね。
「あの、ありがとうございます。······すごいですね、ましろ先生。こんな風にお喋りが苦手な子とコミュニケーションを摂るのがお上手なんですね。」
「いえいえ、杏里くんがこちらに伝えたいことがありそうな雰囲気だったので、たまたま上手くいったんですよ。」
「そう、でしょうか。」
「そうですよ。······杏里くんなりの考えをきちんと持っているようですし。こちらの言葉を理解していそうな時もありました。言葉の引き出しにたくさんストックはあっても、取り出すのは苦手なんでしょうか。まずは気持ちを代弁しつつ安心して何か話せるように信頼関係を築いていくつもりです。」
その言葉を理解した途端、思わず目が熱くなった。実父母も義母も去年の担任も、私ですら杏里の考えどころかどうにか喋らせることに躍起になっていた。
そうよね、ちゃんと想ってることがあるわよね。
この子がずっとこのままだったらという不安と恐怖が和らぎ、ほんの少し身体が楽になったように感じた。
実際に大変なのはこれからだ。まだまだ他の子よりも発達が遅くれているようにみえる杏里が、本当に遅れているのか検査をしなければならない。
結果が出たときに冷静でいられるのか、夫はどんな反応をするのか、悩みは尽きない。それでも
杏里がリュックのチェストベルトのバックルを握りつつ、私のところにやってくる。
「リュックの前のところはママにとめて欲しいのかな。」
俯きがちにはにかみながら手を重ねて上下に振る
「あっくん、おいで。······はい、とまったよ」
「杏里のこと、よろしくお願いします。」
「はい、そのための保育園ですから。」
優しげに目を細めたましろ先生に別れの挨拶をして子どもと手をつなぎ帰路につく。
まずはもう少し様子を見ようかと思っていた療育センターに予約を入れよう。少しでも早く杏里が安心して過ごせる方法があるのかもしれない。結果が怖くても、この小さな手のためならば---
帰宅し、息子と電車の玩具で一緒に遊ぶ夫と話をする。先日の発達検査で、杏里はグレーゾーンと診断された。立ち直れない程、自分がショックを受けるかもしれないとまで考えていたのに、私も夫もやっぱりねと納得しただけだった。
でも、そんなにショックを受けずに済んだのは、あらかじめ覚悟をしていたことと、どんな結果がでても一緒に協力しようと話し合うことができていたからだ。
先日初めて受けた療育ではなんと夫が付き添いをした。清潔感があり先生も優しく、コアラのように引っ付いていた警戒心の強い杏里が最後は一緒に遊ぶことができたと安心したように言っていた。
聞くところによると夫は、療育とは厳しく辛い訓練を受ける所だと想像していたらしい。やけに真剣な顔で療育センターに向かうと思ったら······。そんなところにまだ小さい息子を通わせないわよ。
最近では、発達について色々と調べていたり、夫から杏里に話しかけることが増えて嬉しい。子どもと関わる時間は違っても、同じ目線で子どもを気に掛けることができるというのが心強い。ようやく味方ができたみたい。
「じゃあましろ先生はもう来ないかもしれないんだ。その割にあっくんはいつも通りだね。」
「そうなのよ。環境が変わるなら泣いちゃうかと思ったんだけどね。」
「だいょぶなのよー」
「そっかぁ。」
本人が納得してるなら本当に大丈夫そうかな。ん?本人??今、囁くような小さな声が聞こえたけど、会話をしていたのは夫のはず。なんかのモノマネでもした?何故か口を開けてこちらを見ているけど私も同じ顔をしてると思う。今喋ったの貴方よね?確認しよう。
「今誰が喋ったの···?」
「ん!」
思わず息子の顔を凝視する。確かに口が動いてそこから小さな声が聞こえてきた。えっじゃあ本当に!
「「あっくんが喋ったー!!!!」」
しかも会話ができてると言っても過言ではない!うちの子天才では!?ああ、でも、
「ぅえっええええーん!!」
「あっごめんねびっくりしたね。」
「パパとママ突然大きな声だしちゃったね!ごめんね。」
大きな声にびっくりして泣き出してしまった息子をあやしながらも顔が緩むのを止められない。でも、こんなに嬉しいなら天才であってもなくてもどっちでもいいか。
息子の杏里を産んだ日のことを思い出す。しわくちゃの顔で泣く杏里とそれに負けないくらいくちゃくちゃの泣き笑いの顔をしていた、夫の楓。
今の状況ととても似ているけれど、これまで積み上げてきた思い出の分、今が一番だと感じてしまう。比べるなら、他の誰かではなくこれまでとの変化を見ていくようにしたいな。···難しそうだけど。とにかく今は、
「あっくんとお話しできて、ママとっても嬉しいわ!」
この幸せを噛み締めて、愛おしいという気持ちを伝えたい!




