第4話 「シー イズ フリー」
「ゆっくり上げろぉ!」
「生きてるぞォ!」
たまたま近所で作業をしていたクレーン車が来てくれた。
トラが沈んでいるらしき場所に、ぶん、とフックを投げこむ。
ドボーン!
川面に、水柱があがる。
もっと右だ、いや行きすぎだ!
何度か空振りしたあと、手ごたえがあった。
ウィイイン、ギシギシ。
ざばあ……
フックが長靴のカカトに引っかかってくれたようだ。
逆さにバンザイのポーズで宙づりになったトラが、川から現れた。
ウィイイン。
ポタポタ。
濡れ雑巾のように水滴をたらす彼の体が、どしゃりと岸に降ろされる。だが、トラはピクリとも動かない。
これホントに生きてるのか?
「ゲェホ、ウェッホ!」
なんと生きてやがる……
無事を確認できたとたん、町の人たちは早々と去っていった。ごく一部の者は、悪態をつきながら。
クレーン車も、ゴトゴトと石畳を鳴らして帰っていく。
「まったく人騒がせな」
「どうすんだ、あの橋の穴よう」
人々はすっかりいなくなり、トラだけが残される。
ええ、ずぶぬれで。
※ ※
「げほ……チッ! よっこらせ」
どっかりと地面に尻をつき、誰もいなくなった広場を睨むトラ。
ああ死ぬかと思った。
くそっ、どいつもこいつもバカにしやがって!
フン、いいさ。
助けてくれただけ、まだこの町の連中はいいヤツばかりさ。
フフン。
「よぉ、災難だったな」
んん?
ポタポタと滴が落ちる髪をかき上げ、声のしたほうを見上げる。マントを羽織った黒髪の女が、こっちを見下ろして笑っていた。
「いい靴だな、それ」
カチン!
とんでもない皮肉を言いやがった、このアマ。
「……誰だテメェ、変なかっこして」
「変なのはお前だろが。なんだよ、家内安全て」
家内安全。
もちろん、トラが肩にかけているタスキのことだ。
「変!? 冗談やめろ。こいつのどこが変なんだよ」
そう言いつつ、手でタスキを隠そうとするトラ。
恥ずかしがっているらしい。
だが、女はそんなのお構いなし。
興味津々とばかりに腰を曲げ、トラの目線まで顔を近づけた。
「おいおい隠すなよ。よく見せろよ、その変なタスキ」
するどい目に、黒い瞳。
ニンマリと笑う女。
「よ、余計なお世話だ! 俺だって、好きでこんなタスキと旗を……あッ!」
「? どうした?」
「旗……!」
旗がない!
失くした、失くしちまった!
旗の紛失に気づいたトラが、慌てて川をのぞきこむ。
もちろん見つからない。とっくの昔に下流だろう。
ああ……
「聞いてるか? 長靴を履いたトラ」
楽しそうに尋ねる女。
ニマニマ。
「……」
うんざりとするトラ。
……誰だ、この女に俺のこと教えたアホは。
ああ冷てえ。
パンツまでぐっしょりだ……
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「消防団のバイトさ」
ざばぁ。
地面にどっかりと尻をつき、長靴に入った水を抜くトラ。ぎゅっと絞ったタスキをきれいに広げ、川岸のガードレールにかけた。
女があんまりしつこいので、無視するのは諦めて質問に答えてやることにした。構ってちゃんのクソアマめ。
ていうか、いったん休憩しないとマジで死ぬ。そのついでだ。
「消防団のバイト? それで火の用心か?」
「てめえも火事に気をつけろよ。 " 放火魔バーベキューファイア " って知ってんだろ?」
女の表情がこわばる。
トラの口からも、放火魔バーベキューファイアの名前が出てきた。やはり町中のうわさになっているらしい。
「先週、ヤクザの事務所が火事ったの知ってる? それがバーベキューファイアのしわざらしいんだ。ありゃあスゴかったぜ」
トラがびちゃびちゃの髪をかき上げる。
濃い金髪が、水分を含んでオレンジがかっている。
「全焼2棟、なのに死者ゼロ。どうも死人を出さないってのが、バーベキューファイアのジンクスらしいんだ。ま、ウワサだけどな」
「ふーん」
「んで街中、急に防災だ訓練だって大騒ぎでよ。見回りのバイトを、消防署が募集してたんで~~って、まあそういうわけだよ」
「なるほど、それで火の用心……ただでさえ目立つお前にはもってこいだな」
「放っとけ」
ざばぁ。
左足も水が抜かれ、水たまりができた。
「実際、バーベキューファイア様様だよ。この町にゃ、もう1軒ヤクザの事務所があるんだ。ところが一方は火事で活動休止。抗争もいったん止んで、平和そのものだよ」
お前がいなきゃな。
「フッフッフッ」
お前がいなきゃな。
思わず、そう口にしそうになるのを堪えて、女が1人でウケる。
「?」
トラが眉をしかめて、女の顔を見上げた。
「ハハ。いや、なんでもねぇ。そんで? いま何歩目だよ。1000万歩歩くんだっけ。もう相当きてんだろ?」
「さァ、わかんね。数えてねーもんよ」
…………なんですと?
「なんですと?」
今度は、おもわず口に出た。
「数えてねえだと! 気になんねーのか!?」
とつぜん興奮する女。
いったい、いまの話のどこに食いついたのか。
「な、なんだよ。急に……」
いきなり怒られてトラが怯む。
だが女は、さらにガミガミとまくし立ててきた。
「不安だろ? 両足切断したほうが楽かもとか考えるだろ!」
「考えるか、ンな怖いこと!」
女の様子は尋常ではない。
さっきまでの飄々とした様子とは、人が変わったように興奮している。歩数を数えていないことが、そんなにシャクに触ったのだろうか。
「ハァハァ、ふう…………」
ため息。
女はようやく落ち着いたのか、呆れたように感想を述べた。
「理解できん、なに考えてんだ」
カッ、カチーン!
トラの血圧が急上昇する。
「ああ? いまなんて言いやがった! 理解!? されてたまるか、呪われてから言え!」
ズンと長靴を鳴らして立ち上がり、逆に女ににじり寄る。
だが……
女は、とても冷たい視線を返してきた。
「お前さ―――じつはもう1000万歩以上、歩いてんじゃね? それでも長靴が脱げねぇってことは……」
マントの襟からのぞいた口元が、うすく笑うのが見えた。
「…………へ?」
ぞっ……
トラの背筋に寒気が走る。
マジで脱げなかったりして……ム、ムカ――――――!!
「なんだオラ! 怖えことばっかぬかすな! おい、ちょちょちょちょちょちょ待ておい!」
「じゃーな、がんばれよトラ。長靴脱げたらスニーカー買ってやるよ」
女は言いたいこと言って去っていく。
てくてく。
「待たんかい―――!!」
すでに数メートル先を歩く女を、ずんずんと追いかける。
ま、待ちやがれ、まだ話は終わってな、ハァハァ、ほ、ホントにスニーカー買ってくれるんだろうな、ぜえ、はあ、ま、待て、だ、駄目だ……
わかってたことだが、普通に歩く人間にも追いつけない。
「はぁ、はぁ……ケッ、なにアイツ! おっと……いけね、バイトバイト……」
女はもう、道のはるか向こうにいる。
くそ、仕方ねえと、ようやく諦めてタスキを取りに戻った。
ズドンズドン。
マズいなあ。
ずいぶん時間を食った上に、旗まで失くしちまった。さらに橋まで……いや、巡回ルートを決めたのは消防団なんだから、これは俺のせいじゃないぞ。
……通用せんかな?
ま、いいや。
とにかく気を取り直していこう。
「火の用――――――心! ズシーン!」
「うるせーぞ、ガキ!」
「カカカ、カチーン! なんだとォ!」
……通行人に絡まれるトラ。
「毎日毎日うるせーんだよ! 家で足踏みでもしてやがれ!」
「お、お、大きなお世話だジジイ! ズシン、ズシィン!」
怒鳴りあう声が、すでに遠くを歩くマントの女にも聞こえてきた。女は一瞬だけ振り返って、郊外の洋館へと足を進める。
この町にある、もう1軒のヤクザの事務所へ。